第3話 味探し

それから1カ月ほど経った頃、編成局長退任のハガキが地方局の社長名で僕のところに届いた。


「なぜこのタイミングで。」

あの日、局長はそんなことは一言も言っていなかった。


局長には、是非またあの店に連れて行ってもらいたいと思っていたので、僕は少し残念に思った。とはいえ、確認するすべはいくらでもあるだろう、とその時は簡単に考えていた。


しかし、彼の退任によって、あの時に自分が迷惑をかけてしまったのかどうか、確認をするすべはなくなってしまった。

しかも局長は退任したというよりも「失踪した」という噂が立っていた。


「あの時。」

僕は思い出した。

「あの麻婆豆腐。」


思い出すと、僕は無償にあの店に行きたくなった。


今すぐあれを味わいたいと思った。

人を楽しませる料理、感動させる料理、幸せな気分にさせてくれる料理は無数にあるかもしれないが、涙を流させたり、気を失わせるほど人の心をゆさぶる料理に出会うなんて奇跡だった。


そんなことがあると思わなかった。

あの麻婆豆腐を食べるまでは。


それ以来、中華料理屋にいくたびに麻婆豆腐を頼むようになった。

あまりの激辛に食べきれずに罰金を払った虎ノ門の店、態度の悪い定員と優しいシェフの神楽坂の店、都合30回は食べている激安ハイコスパな赤坂の店。自分が動ける範囲で、僕は色々な店で麻婆豆腐を食べ続けた。


息子とのランチでも、よく麻婆豆腐を食べに行った。

「なんでいつも同じものだけ食べているの?」

と聞かれ、なんと答えようかと悩みつつも、

「宝探しだよ。自分が昔食べたものと同じ味をずっと探しているんだ。」

と答えた。


その味を再現するために、自分でも色々と試してみた。


・熱い油に入れて香りが飛ばないように、最初に、にんにくとしょうが、長ネギを弱火で加熱しから油に移す

・うまみを引き出すために、ひき肉はしっかり炒めて余分な水分を抜く

・ほんの少し砂糖を加える

・豆板醤こさじ1杯、鶏がらスープ、油はごま油とラー油、さらだ油、さらにバターも適量混ぜる


工夫を凝らし、おいしいものはできたが、記憶の味とは違う路線の味にしかならなかった。息子が学校で、「パパの麻婆豆腐はやばいくらいにおいしい」と言っていたと聞いたときはうれしかったけど。

とにかく、自分で再現することを諦めた。


おいしいものを作る幸せ、それを好きな人においしく食べてもらう幸せ。

それもまた新しい発見ではあった。


結局、あの衝撃を超える体験は、二度と訪れて来なかった。

もう山口へ行くしかないと考えていた。


だが、不思議とあの店のことは誰も知らなかった。


編成局長と行動を共にしていた編成局の局員たちも知らず、インターネットで検索してもヒットしなかった。山口出身者も聞いたことがないという。

何かの理由があって、皆で隠しているのでは、と疑ってしまうほど、店のヒントすら見つからなかった。


そして、あの編成局長の行方を知る人もいなかった。


そのせいか、ますます僕は記憶の中の味にすっかり魅了されてしまった。

どこかでまたあの味に出会えるのでは、という思いもあり、さらに輪をかけて僕にとって麻婆豆腐を食べることがライフワークになった。


中国の四川、上海、北京、香港を訪れ、上野や赤坂など中華料理屋がひしめくエリアを回った。訪れた店の数は、100店舗以上にもなった。

それでもあの味に出会うことはできず、それに近いものにすら会うことがなかった。


数年追いかけでも手がかりすらつかめず、僕はあきらめかけていた。


その記憶すら嘘なのではないかとさえ思い始めていた。

そもそもあまりのおいしさに記憶を飛ばすなんて、常識では考えられず、周りからそんな話は聞いたこともない、と冷静に考えていた。


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