第36話 性同一障害のC君の話

昨日は近所の大きな公園の野外映画場で旬の映画ではないものを上映していて、「ボヘミアン・ラプソディ」が上演ということだったので嬉しく早速見に行った。

日本では大ヒットだったそうで、何回も見ている人が続出だったらしいが、私も今回は2月以来2度目だった。


この「ボヘミアン・ラプソディ」はライブエイドのコンサートシーンが圧巻で、これこそ大きなスクリーンで絶対見なければいけない映画であり、今回また大きなスクリーン見る事ができてとても嬉しかったのだが、この映画は日本の皆さんの方が詳しいと思うので、今回は違う話をさせていただききたい。


この野外映画場は今回400名の観客席があり、何人も知り合いに会うことになったのだが、その中に一人私が以前日本語を教えていた子供のお母さんが来ていた。


彼女の子供は現在19歳、なんということか偶然にも一昨日彼女と、いや彼と電話で話したばかりだった。


…こんな変な書き方をしたのには理由があって、彼は私が教えていた13歳から15歳まではKちゃんという髪の長い女の子だったのだが、私と日本語を3年間勉強して、その後1年日本へ留学して帰って来た時、ずいぶんと髪の毛をばっさりと切って短くしたな、と思っていたら、そのまた1年後彼女が17歳の頃、私は衝撃の事実を知ることになる。


最初は名前を変えたというところから始まり、男性名になったので不思議に思えば、Kちゃんは性同一障害だったのだとわかり、セラピーに通い始めたとのことだった。

Kちゃん改め、C君になり、最初は何度も呼び間違いそうになりながら、それから2年たった今、私もやっと呼び間違えずにC君と彼を自然に呼べるようになった。


そしてそれと平行してC君がなんとか自分の家から出ようとしてると知ることになる。


最初は本人が望んでいるのかと思っていたのだが、よくよく彼の話を聞けば、両親が彼に家を出て行って欲しいと望んでいるから、とのこと。

ただ弟と仲が良いので、弟と離れるのは少々寂しいとのことだった。


この両親、実は2人とも物理学者であり、お母さんは大学の教授でもある。

非常にアカデミカルな一家で、C君も勉強しなくてもどんな科目でも良い点数を取ることができる学生だった。


共働きで高収の両親のおかげで、彼は日本へ1年間の留学はじめ、夏休みは毎年3週間イギリスへ語学留学へ行かせてもらっていたし、日本留学から帰国後の夏休みにまた1ヶ月日本へ遊びに行ったりしていた。


私から見たら、彼の両親はいつもC君の希望を叶えてあげる、本当に子供思いの両親と思っていたので、C君が家を出るのがもともとは両親の希望とは思いもしなかったので、彼が

「2人は自分が嫌いだから、もういらない、って…だから家を出る」という言葉は全く信じることもできなかった。


実は今でも半信半疑ではあるのだが、C君が1ヶ月前にやっと家を出て、一人暮らしを始めたと知り、一昨日電話してみるとちょうどタイミングよく電話に出てくれた。

「元気?」と聞けば、

「うん、新しい友達もできたよ、その子の名前も自分と同じCなんだ」とその友達に代わってくれた。

「いつ、ここに帰るの?」と聞けば

「もうそこに自分の家はないから帰らない」という返事で、なんだかあんまり悲しくなって、

「ここに帰って来たくなったら連絡して、うちの泊まればいいから」と言って電話を切ったが、切った後なんだか彼がいじらしく思えて泣けてきた。


そんな翌日たまたまC君のお母さんに会い、

「うちのKは遠方に引っ越して」と言うので

「ああ、知ってますよ、昨日電話で話して今後の進路も聞きましたよ」と答えると、彼女はとてもびっくして

「あぁ、あなたとはまだコンタクトがあるのね…私達は彼女のことは全く知らないの、どんな道へ行くつもりかも」

「同じ名前の友達もできたんですって」と言うと

「一人じゃなくて誰か仲の良い友達ができたのね、本当に良かった」と安心していた。


お母さんにとって、彼は今でもKちゃんのままで、「彼女」と言ってしまう気持ちは母親として痛いほど理解できる。

でもC君にしてみたら、いつまでも娘扱いをするそんな親を受け入れられなくて反抗し、両親はそんな彼をどう扱えばいいかわからず、そこから歪みが生じ、関係がこじれたのかもしれない。


ただ、いくら子供が連絡を取りたくないと言っても親であるなら心配でたまらず、無理やりでも話を聞くのではないかと思うの、C君の両親は2人とも高学歴なだけに、頭が非常に良い人にたまにあるような、人の気持ちがわかりたくてもどうしてもよくわからないというような障害があるのかもしれないな、と内情がよくわからない私は想像でしかこの奇妙な親子関係を推測することしかできない。


またC君のおばあちゃんという人は、ある家庭に養女としてもらわれてきた人で、養父母から愛情を受けずに育ったせいか、C君のお母さんである自分の娘は可愛がっても、孫には全く会いたくない、来てくれるな、というおばあちゃんだったらしい。

なのでC君も弟君も今まで数回しかおばあちゃんに会ったことがないらしく、なんだかそんな所からも、C君とその両親の関係に歪みが生まれてしまったのだろうか。


ただ、C君のお母さんは物理の教授でもあるすごい女性なので私が心配することもなく、それよりはまだ何者かになりかけのC君の気持ちに寄り添ってあげられる、彼の数少ない大人の知り合いの一人でありたいと思っている。


しかし正直、ゲイとかレズビアンとかバイセクシャルということよりも、性同一障害は親としては本当に大きな障害にぶつかったような気がするものかもしれない。何故なら性同一障害の場合は体ごと変化させなければならないというような大変な問題も出てくるからだ

実際自分の子供がそうだったら親としてどんな対応ができるかは、実際その立場にならなければわからないことだろう。


もしかしたらフレディ・マーキュリーの厳格なお父さんが衝撃を受けた以上の痛みかもしれない、と思うと私も人の親として、なんだか心が締め付けられる。


そしてその会場にはそのC君のお母さんもいて…今同じ場所で同じこの映画を見ている彼女は、私とは違う視点でこの映画をみているのだろうな、と思うと同じ母親として非常に複雑な気持ちになった。


親とは時々悲しいものである。






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