数年前
その日、雪が降っていた。
その雪を真っ赤に染めて彼は一人笑っていた。
彼のことを悪魔と蔑み恐る絶叫はとうに消えて、残響すら残っていない。
生暖かい赤をぶちまけられた雪はドロドロに溶けながら、それでも形を完全には崩さない。
その赤も、その赤を噴き出しているそれらも全部まとめて消し去ってしまおうと手を振り上げたところで、遠くから声が聞こえてきた。
彼の名を叫ぶ声だった。
聞き覚えのある声、彼のとある願望を叶えるための手段であり道具のもの。
彼が振り返ると、寒さで真っ白になった息を荒く吐きながらこちらに向かってくる彼女の姿が。
「無事ですか!? ……っ!!?」
彼の無事を案じて駆け寄ってきた彼女の顔が、赤く染まった雪を見て歪んだ。
「……これ……これは……あなたが……?」
「ああ」
彼が短く答えると、彼女は呆然と自分と赤い雪を交互に見た。
思えば、彼女と出会ってからもう1年ほど経つが彼が人を殺した場面を見られたのは初めてだった。
「……殺さなければ……ならなかったのですか?」
「ああ」
彼らは彼の本当の髪の色と目の色を見てしまった。
かつて世界を滅ぼそうとした悪魔と同じ色をしたそれを。
見ただけならば構わない、恐れただけなら害もない。
だが、彼らは違った。
悪魔と同じ色を持つ人間はこの世界には彼しかいない。
昔はもう一人だけいたらしいが、そのもう一人である彼女の姉は数年前に殺された。
世界に一つしかない色を持つ彼を、彼らは恐れながらも手に入れようとした。
世界に一つしかいないということは、希少だということだ。
そして、希少なものは高く売り飛ばせる。
元々ただの人攫いであり、何も知らずに見目が良いという理由だけで彼女を狙っていた彼らは、そう考えて彼女から彼に標的を変えてしまった。
その結果がこれだった。
彼に狙いを定めた人攫いは五人。
その五人全員、身体のどこかを大きく喪失して、喪失したその部分から大量の血液を真白い雪の上にぶちまけて、生き絶えていた。
そんな風景の真ん中で、彼は薄く笑う。
きっと彼女は自分を恐れるだろうと、もしくは人殺しである彼をなじるか、それとも怒りを見せるか。
そんな想像をして顔を笑みで歪ませた彼の前で、彼女はボロボロと涙を流し始めた。
泣くほど恐れたか、と笑みを深めた彼の耳にか細い声が届いた。
「……ごめん、なさい」
聞こえてきた声は恐怖を訴えるものではなく、彼にとっては全く意味のわからない謝罪の言葉だった。
「……何故、お前が謝る」
思わず笑みを消して問いかけた彼に彼女はよく聞き取れない涙声で答える。
「だって……わたくしのせいで……ニアは……人を殺してしまった……」
「……はあ?」
彼はわけがわからなかった。
彼が彼らを殺したのは別に誰のせいでもない。
誰かのせいにするなら、彼を捕らえて売り飛ばそうとした彼らか、そんな彼らを殺すことを決意し実行に移した彼本人のせいだった。
彼女のせいにはならないだろう、と彼は考える。
「……だって、わたくしが……わたくしが……無力、だから……あなたを……とめられなかった……わたくしに力が……あればっ……あなたが……手を汚す必要は……なかった、のに……」
ごめんなさいとしやくり上げる彼女を、彼はしばらく呆然と見つめた後、その顔を歪ませた。
この女は思っていたよりも大馬鹿者だと。
馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで愚かだとは思わなかった。
うっかり解けてしまっていた髪と目の色を金と青に誤魔化す魔術をかけ直して、深く溜息をついた。
「……お前、馬鹿だな」
「……え?」
彼女が顔を上げる、冷たい風のせいで真っ赤になり、涙と鼻水でデロデロになったその顔を彼は素直に汚いと思った。
「……とりあえず、その顔をなんとかしろ」
そう言うと彼女は少し考え込んだ後、のろのろとした動作で懐からポケットティッシュを取り出して顔を拭き始めた。
「……俺がこいつらを殺したのは俺の意思だ。お前はなんの関係もない」
「……それでも、そのきっかけになってしまったのは、わたくしでした」
「きっかけが何であれ、殺したのは俺だ。もう一度言うが、お前にはなんの関係もない」
だからその考えは横暴だと彼は彼女に冷たい声で告げた。
「お前、何もかもが自分のせいだとか思っているのか? それはとんでもない勘違いだ。それに、その考え方は誰かが自分の意志で行ったことの行為を否定している。侮辱に等しい考え方だよ」
半ば蔑むような色を含んだ彼の声に、彼女は表情を強張らせた。
それでも彼女は彼の顔をまっすぐ見据えて口を開いた。
「でも……あなたに人を殺して欲しくなかった……これ以上あなたの罪を重くしたくなかった……我儘だと言うのならそうなのでしょう。それでもわたくしは、あなたに必要以上に人を殺して欲しくない、だから」
「……だから?」
「わたくしはもう二度と、あなたが復讐を始めるその時まであなたに人を殺させない。あなたが誰かを殺すその前にわたくしがあなたを止めます。あなたの敵は、あなたが殺す前に私がなんとかしてみせます」
「……正気か?」
無言で頷いた彼女に、彼は心の底から呆れたような表情を浮かべた。
そんな彼を彼女はただまっすぐ見つめている。
――これはもう、何を言っても無駄か。
この1年で彼女の強情な性格をある程度理解していた彼は、呆れた表情をそのままに諦めたような口調で。
「……やれるものならやってみろ」
ただそれだけ呟いた。
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