白猫のアトリエⅡ


「んぐっ、んぐっ、んぐっ。ぷはぁ~!」


 椅子に横掛けで座っているエキドナが、カップに注がれた珈琲コーヒーを一息にあおって、


「……。どこの世界にホットコーヒーを一気飲みする人間がいるのかしらね」


 ルークのジトっとした半眼と皮肉っぽい物言いを誘いました。


「つってもまぁ、飲んだフリだしなぁ。ロールプレイの一環よな!」


 エキドナが言うように、現行のVR装置では五感の内、味覚と嗅覚は再現に至っておらず、実装されていないのです。

 それにともない、〝飲食〟という行為は口元にアイテムを近づけると、そのアイテムが自動的に消失する、という仕様になっています。

 つまりは、システムでしかないのです。


 そして、明日発売の第二世代型VR装置の既存のものと比べた時の大きな変化は、その残り二つの感覚の実装にありました。

 これまで不可能だったゲーム内での飲食が可能になり、新たな情報として〝におい〟が追加されるのです。

 もちろん味覚も再現されるので、ゲーム内での食べ物を味合うことも出来ます。

 今はまだ、現実と比較した際に些細ささいな情報量の密度に差を感じざるを得ませんが、仮想現実は現実へと一歩ずつ近づいていました。


「あぁ……。楽しみだなぁ……」


 レアはカウンターの長机で頬杖ほおづえを付き、ほんわかとした表情で足をぷらぷらとさせました。


「《TCO》ですか?」


 エスプレッソマシーンから慣れた様子で珈琲をんで、各々に配っていたバエルが問いかけます。

 もちろん飲めないので雰囲気ですが——、


「あんがと。んー……、それもそうだけど、どっちかと言うと、ゲーム内でご飯を食べる事が私にとってのメインイベントかな!」


《Tribe Cross Online》――《TCO》は第二世代VR装置と同時発売されるパッケージの中で唯一のMMORPGです。

 詳細は当日まで未発表という前代未聞の演出に加えて、その予約数は既に飽和状態。発売会社への問い合わせが連日殺到してるとのこと。

 ギルドMMのメンバーも全員購入する予定ですが、レアだけは《CFO》そのものに対して、そこまで深い興味はありませんでした。

 感覚器官のアップデートによって、仮想現実空間での飲食が可能になることが、最大にして唯一の楽しみなのです。

 能天気にぼへらっと机に伸びてるレアを見て、


「ほんと、ブレないわね……。ところで、エキドナ。あの話はいいの?」


 問いかけたのはルークです。


「ん?」


 エキドナが首を傾げて、


「…………。忘れたの?」

「……。んー? …………、あ。 もちろん覚えてたぜ?」

「明らかに今思い出したわね?」

「ゴホン。レアよ。我々ギルド、マンデイメランコリアの今後の方針について、相談がある」


 ルークに言われて、要件を思い出したエキドナが威厳いげんたっぷりに音頭を取りました。

 無視されて不機嫌なルークを尻目にレアが、


「ん? どったの? 貴恵?」

「……。あぁ……、実はなぁ……、っておい! 本名やめい!」

 

 不意に本名で呼ばれたエキドナが思わずと言った様子でツッコミを入れました。

 いくら、部外者が誰も聞いていないとはいえ、仮想現実内でプレイヤーのリアルの名前を持ち出すのはご法度はっと

 四人——、正確にはこの場に居ない少女も含め五人ですが、彼女達もまた、ゲームの中ではプレイヤーネームで呼び合うことを徹底していました。

 ルークが、


「関西人が卒倒するくらいには酷いノリツッコミね。今時素人が書いたネット小説にも、そんなコテコテのツッコミ入れてくるキャラあんまり居ないわよ」


 沈痛そうに頭を抑え、ため息を一つ。


「うへー……、久しぶりにインすると気が緩んじゃうなぁ……」


 先程とは違い、素で間違えたレアです。


「こっちで会うのは一か月ぶりくらいだっけか?」


 エキドナの言う、〝こっち〟とは仮想現実、つまり《FVW》のゲーム世界内のこと。


「多分……? なんか現実とごっちゃなる……」

「いや、流石にそれはないわ。いくらフルダイブつってもこう、なんとなく感覚で分かるもんじゃないか? やっぱ現実の方が感覚が研ぎ澄まされれてるというか、繊細せんさいというか……」


 エキドナの言葉に、


「むー、そうかな? 私はそんなに違い感じないけどなぁ……」


 レアは納得できずにうなります。

 確かに、一般的には現実と仮想現実の差はその情報量の密度にあるとされています。

 例えば、視覚。

 《FVW》の世界は、三千二百万画素の映像素子によって構成されています。

 これは従来の最新型ハイビジョンテレビの四倍にあたる数値です。

 ですが、現実世界での人間の視覚はその十八倍にも及ぶ、五億七千六百万画素と言われています。

 人間の目ではほとんど分からない程度の差ですが、同じように聴覚や触覚も情報量に差があるのです。

 ……とは言えど、それはあくまで聞いた話。

 レア自身は、その話を聞いて、〝ほーんそうなんだー〟くらいにしか思っていませんでした。

 剣を振り回しても許されるが仮想現実。

 魔法が使えないのが現実。それがレアにとっての尺度しゃくど。単純にして実に明快めいかい

 そんな二人の話を聞いて、目を光らせる人物が居ました。


「仮想現実空間内と現実世界での情報量の密度の差に関しては、昨今のVR業界を語る上で欠かせない論点となるほど研究が進められている分野ですね。個人差があることは有名ですが——」


 細長い耳をピコピコと弾ませ、滔々とうとうと解説を始めたのはバエルです。


「バエル」

「個人的にはやはり去年の秋に熊谷勉氏が発表した論文にて主題として提示されていた情報統合性の欠如に関する——」


 ふんすふんすと鼻息荒く、気持ちよさそうにぺらぺらと喋っていたバエルですが——、


「おーいバエルー。話が難しいぞー。オタク知識をひけらかすのはやめろー!」

「そうだそうだー眠いぞー! マウントとんなー!」


 エキドナとレアの反発を買いました。


「……」


 援護を求め、ルークに視線を向けるバエルですが、


「……」


 返ってきたのは冷たい目付き。

 まるで汚物を見るような侮蔑ぶべつの視線でした。


「…………。皆さんが私の話に興味ないのは理解しましたが、もう少しくらい喋らせてくれてもいいじゃないですか……」


 頭脳明晰ずのうめいせきで何でも知っているバエルさんはいじけてしまいました。

 不意に聞いてもいないウンチクを語りだすのが玉にきず


「放っておくと一生話が脱線し続けるから言うけど、エキドナはさっさと本題に入りなさい。レアは聞きなさい。バエルは黙ってなさい」


 ぴしゃりと場をいさめたのはルークです。

 絵面的には唯一の男性が仕切っている感じですが、女口調なのでやっぱりシュールなのは否めません。

〝オネエのボス〟感が拭えません。


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