第18話 急転直下
ところが、戻ってくる予定の土曜日を過ぎても連絡がない。
電話をかけてもメールを送っても返事がない。全くもって不通の状態となってしまった。
不安になってアリサの部屋も訪ねてみたが、留守の状態が続いていた。
引っ越した形跡はないので、まるで行方不明になったみたいな感じである。
ボクはどうしていいのか解らなくなっていた。
しかし、連絡が取れない以上、どうしようもなかったのも事実である。
もしものことがあるので、『禅』の親方と女将さんだけには事情を説明した。
しばらくは無謀に酒を煽る日もあった。女将さんが適度にたしなめてくれなければ、ボクは気が狂っていたかもしれない。
後はまるで何もなかったかのように、時間と暦だけがただ悪戯に過ぎていくのである。
月は新たな呼び名に替わっていた。
仕事もあまり手につかないまま、モンモンとした日々を過ごす。
勉強会の主催者や宿泊施設の連絡先ぐらい聞いておけば良かったと今更ながら後悔する。
アリサからの連絡が途絶えて二週間が経過したころ、一人の人物から電話が入る。
『立花康彦』
ボクはこの名前を一生忘れないだろう。
電話の主はこの男だった。
「イマイさんですか、立花です。ミナミさんは入院しています。色々と心労がたたったのでしょう。今は私が看病しています。そのことについて、一度あなたと話し合いたいと思っています。今夜にでも会えますか。」
思わず憤慨しそうになる気持ちをぐっと抑えて返事をする。
「もちろんだ。キミはアリサを人質にでも取ったつもりでいるのかな。なぜ、彼女の居場所を教えてくれない。」
「別に人質のつもりはありません。それも、お会いしたときにお話します。では今夜。」
そう言って彼は電話を切った。
もうボクには何が何だかわからなかった。しかし、今の時点では、夜にもう一度彼からかかって来るであろう電話を待つしかない。
そしてその日の十九時ごろ、したたかに電話がなった。
「今、J駅です。そちらへ伺っても宜しいでしょうか。場所は存じております。」
ボクが冷静な物腰で彼と対決するためには自宅の方が都合は良かった。ボクの方が熱くなる可能性もあるし、彼の冷静さを見極める必要もあった。
三分後、玄関のチャイムが鳴る。
「失礼します。立花です。」
「どうぞ。」
ボクは黙って彼を招き入れる。表立っては冷静を装っているが、内心は怒り心頭である。
「アリサは今どこにいる。なぜキミがアリサの面倒を見ているんだ。」
彼は一瞬呼吸を置いて話し始める。
「初めにお尋ねしておきたいことがあるのですが、ミナミさんに軽い持病があるのをご存知でしたか。よほどのことが起きない限り問題はないのですが、多少心臓に疾患を持っています。」
そんな話は初耳だった。
「それはほんとの話かな。」
「今更ウソを言っても仕方ありません。実際にその疾患で今、彼女は入院しています。彼女は勉強会の二日目に教室で倒れました。丸一日意識が戻りませんでした。その間中、ボクはずっと彼女の側にいました。あなたに連絡する余裕も手段もありませんでした。後になって申し訳なかったとは思っていましたが・・・。」
彼は一旦言葉を切り、深呼吸をする。
「彼女が倒れたことについては、直接あなたが原因になったとは私も思ってはいません。しかし、あなたがそのことを知らずにいたことに驚いています。彼女もそのことはあなたに話していないと言っていました。なぜでしょう。私はかなり以前から知っていました。それを聞いたときに、まだあなたに知らせるべきではないと思ったのです。」
持病のことなど何も聞いていない。現実のこととして目の前にその事実があるだけだ。
「意識が回復して翌々日、私は彼女に聞いてみました。なぜそのことをあなたに話していないか。」
ボクは黙って彼の話の続きを聞いている。
「あなたとの交際は、いつ崩れるか分からない危ない橋を永遠に渡り続けること。彼女はそんな風に表現しました。そんな中で自分というリスクをあなたに背負わせたくないと。それでもあなたを愛していると。あなたの優しさが愛おしいと。そしてそれが怖いと。」
ボクは膝の上でこぶしを握り締めるしかなかった。
「私はあなたの性格を良く存じ上げておりません。しかし、ミナミさんはそのことをあなたに明かすことで、必ずあなたの人生に影響を及ぼしてしまうと考えていたようです。正直なところ、年齢差の恋に対する微妙な認識の違いがあったのではないでしょうか。」
彼の話を聞いているうちに頭の中がぐるぐる回り始めた。一体、こいつは誰のことを話しているのだろう、誰に向かって話をしているのだろう。思いも寄らない暴露にボクはただ呆然としている。
「もう一つ、共同経営の話ですが、ボクは確かにその件も含めて彼女にプロポーズしています。お互いの足りない部分を掛け合わせたほうが、ビジネス上も成功する確率が高いことはミナミさんも理解はしているのです。その件は、私自身の存在もそうですが、あなたの存在も微妙な障害になっていることは間違いありません。私は、先日あなたにお会いして、あなたの人としての大きさに敬服しています。ある意味尊敬さえしています。だから、彼女が迷っていたり、悩んでいたりすることは理解できます。しかし、今はあなたの顔を見ずに、一人でそっと考える時間が必要だと思いました。今のようなミナミさんの心が不安定な状態であなたの元に行かせるわけにはいかない。あなたを呼ぶわけにはいかない。そう思ったので仕方なくこういう手段を取らせていただきました。」
ボクの耳は段々遠くなってきているかもしれない。彼が話す声が少しずつ遠いところから話しているように聞こえてくる。
「イマイさん。ボクの連絡先はココに控えておきます。ミナミさんが退院できるまでに回復したら、そのときは入院先をお知らせします。是非とも、迎えに来てあげてください。彼女の心の中が落ち着いたとき、彼女を迎えに行くのはやはりあなただと思っています。私ではありません。今の状況は彼女には話してあります。それでは。」
彼は、自身の連絡先をメモした紙切れをテーブルの上に置いて出て行った。
後に残されたボクは、しばらくの間、石像のように固まったまま動けなかった。
その一時間後、ボクは『禅』のカウンターに座っていた。
女将さんに立花氏が部屋に来て話していったことを大まかに打ち明けた。なぜかボクには敗北感が漂っていた。最も重大なことを知らなかったと思ったからである。
持病があることなんか何でもなかったことなのに、なぜアリサはボクには話してくれなかったのだろう。彼には話していたのに。
「アリサちゃんもな、あんたのことが心配やったんやろ。病気のこと打ち明けたら、きっとあんたは自分のことをほったらかしてでもアリサちゃんの病気を治そうとする。そう思ったんちゃうか。そんぐらいあんたは優しい。優しすぎるぐらいな。彼女もそれは凄い感じてたと思うで。」
女将さんがなだめてくれるが、ボクは頭を抱えて酒を煽るしかなかった。
「今ボクがアリサにしてやれることって何でしょう。今会ったとして何を話せばいいのでしょう。もう何も考えられないんですよ。」
「とりあえず、その立花さんて人に連絡しとき。退院が決まったら連絡をくれるようにと。今はそれしかできんやろ。」
女将さんの言うとおりかもしれない。今、彼女に会っても攻める言葉しか見つからないかもしれない。そんな時には会わない方がいいのだろう。
ボクは黙って立花氏の言う通りにするしかなかった。
そして四月も中旬に差し掛かろうとするころ、立花氏から電話が入る。
「次の金曜日、退院が決まりました。ミナミさんも随分落ち着いています。迎えに来てあげてください。○○町のE病院です。午前中に来ていただけると助かります。」
「わかりました。ありがとう。」ボクはそう言うしかなかった。
金曜日、立花氏は病院で待っていてくれることになっていた。
ボクは九時ごろにはマンションを出て、十時頃には病院に着いた。
病院の入り口ロビーで立花氏はボクを待っていた。
「イマイさん。お待ちしておりました。ミナミさんもあなたに会いたがっています。私があなたに会わせなかった事も、その理由も話してあります。その上で会ってあげてください。彼女をよろしくお願いします。」
ボクは彼に礼を述べ、指定された病室に向かった。
そこにはすでに退院の準備が整っているアリサがいた。
アリサは泣きながらボクのところへ駆け寄り、くちづけを求めた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」泣きながらその言葉だけを投げかけた。
ボクは黙ってアリサの肩を抱いた。
「何はともあれ無事でよかった。心配してたんだぞ。」
ボクの目からも自然と涙が溢れていた。
アリサはボクの中でただただ泣いて、ただただ謝っていた。
「帰ろ。部屋まで送ってあげるよ。」
泣きながらうなずくアリサ。
ボクは病院の前からタクシーを呼びつけ、彼女の部屋へ直行する。
そのころすでに立花氏の姿は病院にはなく、颯爽と立ち去った後だった。
アリサの部屋は埃と湿気がこもっていた。
窓を開けて風を入れ、部屋の空気を入れ替える。
そしてアリサをリビングのソファーに座らせた。
キッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。
「サンドイッチを買ってあるんだ。一緒に食べない?」
「うん。」
コーヒーとサンドイッチ。簡単なランチだけど、あったかいコーヒーがボクたちの距離を少しずつ縮めていく。
「ボクも泣き疲れたよ。どうしようもない夜を過ごして、歯がゆい自分を責めて、許せない自分を叱咤してきた。立花君に怒りを覚えたこともあったが、最終的には彼には感謝している。彼の最大級の思いやりなんだろう。キミとボクへの。」
「ヒロシさん。」
ボクはアリサが何か言おうとするのを止めた。
「今はまだ何も言わなくていい。だから泣かないでボクに笑顔を見せてよ。久しぶりに会ったんだから。」
アリサはそれでも泣きながらボクの胸に顔をうずめる。
「ごめんなさい。病気のことを黙っていて。」
「いいんだ。もっと落ち着いてから聞くよ。今日はこのまま抱っこしていていいだろ?」
「うっ、うっ、うっ。」泣き叫ぶのをガマンするかのようなうめき声。
ボクとアリサはしばらくの間、この動かざる時を過ごした。
しばらくは、アリサの部屋で落ち着く。
アリサの体温とアリサの匂いを感じながら。しかし、さすがにヴァニラの香りはしない。
ボクはアリサの体をずっと抱きしめていた。
今は言葉は要らない。お互いがお互いの体温を思い出す時間なのである。
時折り唇を合わせてみるが、まだ遠慮がちだ。
そんな繰り返しの時間だけが過ぎていった。
「外へ出られるかい。晩御飯は外で食べよう。何が食べたい?」
ボクはできる限り優しく問いかける。
「ヒロシさん、優しすぎる。もっと叱って欲しいのに。どうして病気の事を話さなかったのか責めて欲しいのに。アリサ、その優しすぎるヒロシさんの思いやりが怖いの。自分を忘れてしまいそうになるから。」
「そんなに自分を責めるんじゃないよ。言わなかったのはボクのことを気遣ってくれたからでしょ。アリサだって充分に優しいんじゃない?」
「ヒロシさん。『禅』に連れて行って。親方と女将さんにも謝らなきゃ。」
ボクはニッコリ微笑んで、
「謝るために行くなら連れて行かない。親方も女将さんも心配しているだけで、怒ってなんかいないんだよ。笑顔で行くなら連れて行ってあげる。」
「何でみんなそんなに優しいの?」
そう言って再び泣き崩れるアリサ。
「みんな、アリサのことが好きだからじゃない。」
ボクはアリサとくちづけを交わし、アリサを部屋から連れ出す。
「泣かないって約束してね。」
「ウン、頑張る。でも、ちょっと待っててね。出かける用意をするから。」
ボクは先に外へ出てタクシーを探す。十分後に出てきたアリサ。
結局駅まで歩いてタクシーに乗り込み、ボクたちは『禅』に向かった。
暖簾をくぐると、親方と女将さんが待ち構えていた。
親方が話しかけようとすると、それを遮るようにして、女将さんがアリサのそばへツカツカと歩いてきた。
そして話しかける前に、
「パシッ」
軽くではあったがアリサに平手打ちを食らわした。
慌てて止めに入る親方だったが、それよりも早く女将さんはアリサを抱きしめた。
「何でもっと早く連絡してくれへんかったん。今日までヒロさんがどんだけ心配してたと思ってるん。どんだけ苦しんでたと思ってるん。どうせヒロさんのことやから、一つも叱ってないねやろ。代わりにおばちゃんが叱ったる。これも愛の鞭やと思い。ヒロさんの心の傷みやと思い。」
そう言って抱きついている女将さんも号泣している。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
またアリサの目から涙が零れ落ちていく。
ボクは抱き合ったままの二人をさらにその上から腕を回す。
「女将さん、ありがとう。もう許してあげてもらえませんか。ここへはアリサ自身が来たいって言ったんです。それを褒めてやってください。」
「聞いたか?これがこの人のあかんとこや。この人の優しすぎるとこや。アリサちゃんいうてたな。ヒロさんはこのおばちゃんが思てる以上に優しい人やて。それがこの人の悪いとこなんや。せやからな、もっと甘えてもええんやで。ゴメンな、痛かったやろ、かんにんやで。」
「女将さん、わたし、女将さんに叱られたくて来たんです。ヒロシさんは叱ってくれないから。何でも許してくれるから。それに甘えちゃいけないと思って。だから、叱ってくれてありがとう。ごめんなさい。」
親方はおろおろするばかりで、ただその光景を見守っているだけだった。
連れて来てよかった。女将さんに会わせてよかった。
「あんた、何してんねん。はよ、蕎麦を湯がいておいで。アリサちゃんに天ぷら蕎麦食べさしてあげるんやから。ヒロさんもボーっと突っ立ってんと、そこへ座りぃ。」
女将さんの人柄に助けられた。これでアリサも少しは落ち着くだろう。
でも、イスに座ってもアリサはしばらく泣いていた。ボクの胸に顔をうずめて。
温かい蕎麦と温かい女将さんの気持ちをごちそうになってボクたちは店を後にする。
「ヒロシさんの部屋に連れて行ってくれる?」
ようやくニッコリ笑ったアリサがボクに話しかける。
「いいよ。もう少し話したいこともあるし。」
店から部屋まで手をつないで歩く。
しかし、以前の二人ではない。何かしらのわだかまりを持ったまま黙って歩く。
行き過ぎる猫はボクたちを見ながらかけていく。猫はそしらぬ顔で道を横切っては振り返る。行き交う人々はボクたちのことなどまるで目に入らないかのように道を歩いていた。
四月とはいえまだ寒い部屋の中。急いで暖房を入れる。
それにしても、今日すぐにアリサが訪れることを想定していなかったボクの部屋は、幾分か荒れていた。
それに気づいたアリサは、申し訳なさそうに、ボクを見つめる。
「仕方ないさ、男やもめだから。何もない時はこんなもんだよ。」
「ホントにゴメンネ。」
ボクは肩を抱いてアリサに請う。
「お願いだから、もう謝らないで。今日はもう考えるのはよそう。」
部屋が暖まるまで、ボクはアリサの体が冷えないようにずっと抱きしめていた。
時折りアリサがニッコリ微笑んで、ボクにキスをせがむ。その表情はまるでこの数週間のブランクがなかったかのように錯覚させる。それほどに狂おしい。
「何だか久しぶりなんだね、ここに来るの。ヒロシさんの匂いがする。」
「アリサはもうヴァニラの匂いがしない。それが自然のアリサの姿なんだね。ボクが要求しすぎてたのかな。色んなことを。」
「そんなことないよ。愛する人が求めるていることに応えたいと思うのは普通じゃない?アリサも同じよ。ヴァニラの匂いも、ちょっと乱暴な遊びも、『禅』でのひと時も、みんなヒロシさんの求めることに応えている。それはそれで幸せだったのよ。」
「病気のことをどうして話してくれなかったの?」
「アリサにね、自信がなかったの。気にしてないって言いながら、やっぱり少し気にはなってたの年の差のこと。始めはね、この恋はすぐに終わるかもって思ってたときがあったの。怒らないでね。ヒロシさんがね、ただ若い女の子との関係が楽しくて一緒にいるのかなって、それが飽きたらつまらなくなって、いずれは振られるかなって思ってたの。ヒロシさんみたいなインテリの人って特にそうかなって思って。だから、言わないでいいことは黙っておこうって思ってたの。でもだんだんヒロシさんがそうじゃない人だってわかってきたんだけど、つい言いそびれていたの。秘密にしたいと思ってたわけじゃないのよ。」
「アリサがそんな大事なことをずっと秘密にする娘じゃないってわかってるよ。ボクがもっと話しやすい環境を作っておけばよかったんだね。」
「お願いだから、自分を責めないで。悪いのはアリサなのよ。」
話しながらアリサの目がどんどん潤んでいく。
「うん。わかった。今日は疲れたでしょ。もう帰ろう。送っていくよ。」
「ヒロシさん。アリサだって病院で泣いてたのよ。慰めてくれないの?今日はお泊りの用意だってして来てるんだから。」
大胆不敵にもほどがある。退院してきたその日に外泊とは、親御さんが聞いたら卒倒するだろう。
「ところで、入院してた費用はどうしたの?」
「言いにくいんだけど、立花さんがとりあえず立て替えてくれたわ。来週、すぐにでも返すつもり。」
「スマホはどうしたの?」
「立花さんがずっと預っていて、帰るとき返してくれた。」
「彼も不思議な人だね。結構いい人だよ。」
「彼ね、ずっとアリサのそばにいてくれたんだって。時々おぼろげに目が覚めて、誰かが手を握ってくれてると感じてた。アリサはヒロシさんだと思ってたのに、それが立花さんだったって聞いたときには驚いたわ。」
「彼もホントにアリサのことが好きなんだね。」
「・・・・・・・。」
しばらく沈黙が続いた。
「今日はもう寝ましょ。今夜はずっとアリサの枕になってくれるんでしょ。うふふ、優しいヒロシさん。今夜も狼に変身させてあげる。」
そう言ってベッドの上に乗り、ボクを誘う。
すでに分厚い着衣を脱ぎ始めている。
「着替えはこのバッグに入っているの?ボクが出してあげよう。」
すると急いでバッグに駆け寄り、
「女の子のバッグは秘密だらけなのよ。たとえ優しいヒロシさんでも勝手にアリサのカバンを開けることは許されないわ。」
「いいから、寝巻きに着替えて下さい。向こうを向いていてあげるから。」
と言ってアリサに背を向ける。
「じゃあ、電気を消して。」
その言葉通り、部屋の明かりを消した。
後ろではアリサが服を脱いでいく気配がしている。
そして、裸のままの体がボクの背中に密着し、しなやかな腕を首に巻きつけてくる。
「ねえ、抱いて。」
ボクはアリサの腕をとり、膝の上に導く。そしてこう告げる。
「ボクはアリサが大好きだ、愛している。だから今日は抱かない。今日はおとなしく寝よ。一緒に寝てあげるから。」
そう言って、裸のままのアリサをベッドに抱いていく。
ボクは部屋着のまま、アリサを抱いて布団をかぶる。
生まれたままの姿になっているアリサを抱えて、アリサのおでこにキスをする。
「また明日。ねっ。」
そう言って強く抱きしめる。強く、強く。
彼女は退院してきた今日の日に、ボクに抱かれることで罪悪感を解き放ちたかったのかもしれない。でも、その手段は間違っていると思う。だからボクは彼女を素直な気持ちで抱くことができなかった。この日に彼女を抱くことは、ボクの罪悪感がそれを許さない。
優しさからではない。単にボク自身がそれを許さなかっただけなのだが、彼女は理解できなかったに違いない。
ここまでアリサを追い詰めたのはボクだろう。後悔の念が胸中を走る。
どこで間違ったのだろう。なぜ気づかなかったのだろう。優しくすることが間違いだとは今も思ってはいない。けれども、それがプレッシャーになるのなら、やはりそれのどこかが間違っていたのだと言えそうだ。
ボクは裸のアリサを腕に抱えたまま、だまってアリサを抱き続けたまま、ボク自身が感じている罪悪感を忘れようとしていた。
黙って嗚咽だけを繰り返しているアリサをぐっと抱いて。
翌朝、先に目覚めたのはボクだった。
アリサの頬には乾いた涙の後が残っていた。もしかしたら一晩中泣いていたのかもしれない。それでもボクの腕はずっと彼女の枕としての責任を全うできていた。
ボクは確かめるようにアリサの体を抱いて、もう一度強く抱きしめた。
その動きで目覚めたアリサ。
「おはよう。昨日はごめんなさい。わがまま言って。」
「もういいから。自分を責めないで。苦しくなるだけだよ。」
「うん。」
そう言ってアリサもボクに抱きついてくる。
「やっぱり優しい。ヒロシさんはこんな時も安全パイ。」
「そうかもしれないね。」
素直に認めることにしよう。
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