第15話 アリサの部屋
三十分後、すでにボクたちは車の中にいた。
今回はアリサの部屋まで送っていくことになっている。
ボクが始めて踏み込む領域だ。
駅で言えば、ボクの部屋の最寄り駅からわずかに三十分程度の距離であった。
これならいつでも会える。そう思った。
「いつか、アリサの部屋にも招待するって言ってたでしょ。今日がその日よ。」
「アリサを送るだけだから、部屋の前に行くだけでしょ。それとも送り狼になってもいいのかな?」
「それ以上、どんな狼になるって言うの?」
「さてね。」
「コーヒーぐらいは飲んでいってね。もう少し一緒にいたいから、いいでしょ?」
「お嬢様のご命令とあらば、よろこんで。」
十三時に丸亀を出発してから約十時間後の午後二十三時頃、ようやくアリサを部屋に送り届けることができた。
ボクがまずアリサに指示したことは、実家に電話を入れること。
「ちゃんと無事に着いたよって連絡しなさい。絶対に心配してるから。」
「でも、何でこんなに遅いのって聞かれたら、なんて答えればいいの?」
「お友達とゴハンを食べてたのって、言えばいいんじゃない。」
「ヒロちゃん、あったまいーい!」
いやいや、そんなことはアリサだって思いついていたはずさ。だって、すでに丸亀を出るときに友達と一緒に帰ることになってるじゃない。
車を近くのコインパーキングへ停めて、アリサの部屋に足を踏み入れる。
途端にボクに抱きついてくるアリサ。
「いらっしゃい。お待ちしてましたわ。」
「残念ながら、ボクはここでもう一度狼になるだけだよ。」
そう言って唇を奪い、やおら押し倒す。
アリサの体に圧し掛かるようにして体を合わせ、両腕を頭の上に固定して自由を奪い、そして服のボタンを一つずつ外していく。
「やめて、助けて。」ボクの耳元でそっと囁く。
そして当然の如くボクの狼の血が騒ぐ。
いきなりズボンを脱ぎ、分身を引き出し、アリサの唇に近づける。
アリサは観念したかのように、そっと唇を開く。
その開いた唇に、やや強引に分身を滑り込ませ、彼女の唇とその奥の女神を穢していく。
「うっ、うっ」と少し苦しそうな声が、ボクの猟奇な心を揺さぶる。
ボクの空いている手は、アリサの胸の膨らみをすでに陵辱していた。
暴発しそうになる前に、分身をアリサの口から引き抜いて、「ハァハァ」と息を荒げているアリサに囁く。
「ゴメンね。ちょっと怖かったでしょ。今からは優しくするから怒らないでね。」
「ううん、怒らないわ。でもちょっとだけ怖かったかも。」
ボクは優しくアリサの体を引き寄せて、そっと唇にくちづけをする。
「でもね、男の人を部屋に入れるってこういうことだよ。だから簡単に男の人を部屋に入れちゃいけないんだよ。」
「なんか似たような話を聞いたことがある。まだアリサがミイだったころ。あのときからヒロちゃんは狼だったのね。」
「ボクはずっとそうだって言ってたよね。」
「いいのよ。」
そう言ってボクの腰に腕を回し、ボクの胸に顔をうずめる。
そして、その顔を引き上げて強引に唇を奪う。
少し開いた唇の間から、やや強引に彼女の女神を誘拐しようと試みる。
フリーになっている手は、すでに先遣隊としてアリサの洞窟探検を始めており、あっという間に入り口の少し奥に侵入していた。
早々に侵入を許し、しっとりと湿り始めた洞窟は、いとも簡単にボクの先遣隊による前後運動を許してしまっている。
時折り漏れる声と吐息が、ボクの中の狼の血を騒がせる。
優しくとは言ってみたものの、ボクは再びアリサの上に覆いかぶさり、首筋と胸元から陵辱を開始する。
「観念してね、愛してるよ。」
寝室にはベッドがあるのだろう、けれどボクはこの流れを強引に演出し、リビングで彼女を抱いた。できるだけ激しく、できる限り強引に。
くびれた腰をぐっと掴み、後ろからも激しく弄んだ。
その体勢から唇を奪いにいく。かなり凌辱的だ。
体を入れ替えて、彼女の体をソファーに背もたれさせる。その格好でさらに激しく振動を強めていく。今日もアリサの吐息は甘い。その唇と舌をボクのモノにしたとき、セレモニーの終焉が近いことを感じた。
「『お願い助けて』って言ってごらん。」
「お願い助けて。中に出さないで。やめて。」
その言葉を聴いた瞬間、ボクの銃撃はアリサの中へと放たれていた。
ヴァイオレンスチックな遊び。
先のホテルでは行わなかった遊びだが、アリサの自宅というシチュエーションが、ボクのエスの部分を充分すぎるほど刺激してしまった。
ことが終わった後、アリサの顔を見ると、目が潤んでいた。
「えっ、ホントに怖かったの?ゴメンよ、怖がらせるつもりなんかなかったんだよ。」
「ううん、違うの。こんなの初めてだったから、ちょっと戸惑ってるだけなの。ちょっと怖かったのはホントだけど、ヒロシさんでよかったと思ってる。違う人だったらと思うとちょっと怖かっただけ。強引だったけど、ちゃんと愛してくれたんでしょ?」
「もちろんだよ。もう怖いことはしない。こんなことでアリサの涙なんか見たくないよ。」
「大丈夫よ。初めてだったから、ちょっとびっくりしただけ。」
そう言ってアリサはボクの唇を奪いに来た。
そのあいさつに応じるボクの唇。ちゃんと優しくアリサの腰を抱いて、今まで以上にぐっと抱きしめた。
「だから、知らない人を部屋に入れちゃダメなのね。ヒロシさんでホントに良かったと思うわ。」
「ホントにゴメンネ。」
「ううん、謝らないで。アリサ、うれしかったのよ。ホッとしてるのよ。」
ボクは何も言わず、力の限り抱きしめ続けた。
雰囲気に負けて、ちょっと調子に乗りすぎたかも。ボクは充分すぎるほど反省することとなった。
終わってから、アリサが優しい言葉をかけてくれたけど、それを鵜呑みにしてはいけない。
でも、正直なところは非常に興奮して楽しかった。
もう充分に満足できた。
あとは、愛くるしいアリサを思う存分優しく愛してあげれば良い、そう思っていた。
時計の針は進み、すでに日付変更線を超えていた。
ボクはアリサに「おやすみ。怖い夢を見ないでね。」と言って部屋をあとにした。
まだまだ幸せの真っ最中だった。
今年はいい年になりそうだと思っていた。
やがて正月も明けて、日常の生活が始まる。
アリサはまた年末のように、恐ろしく多忙な日常を送ることになるのだろう。
ボクの方はと言うと、やることは決まっているので、締め切りさえ間に合わせれば、作業は単純である。
アリサがどれぐらいのスパンで休みが取れるのかを知らない。おそらくは不定期なんだろう。労働基準法で言えば月に六休は必要なはずだが、共同経営者の一人となっていては、そうもいくまい。
なるべく気を使わないようにしているが、週に一度は必ずメールで連絡を入れている。返事が届くのは、ほとんどが数日後ではあるが。
そんなある一月の下旬に差し掛かるころ、こんなメールが届いた。
「来週の水曜日にまるまるオフゲット!デートしよっ!」
最近、ボクの仕事先の編集社では、ボクの仕事が大変スピーディになったと評判になっている。それは、こういった不意のお誘いにいつでも応えられるよう、スケジュールをシビアに管理するようになったからだ。
だから、こういった一週間前の約束でも、おおよそは対応できるようにしている。
さて、来週の火曜日までに原稿を仕上げよう。
まだまだ寒い一月下旬のとある水曜日。
寒いけれど今日は良い天気だ。
ボクはアリサと待ち合わせをしていたが、今日のデートは午後からの約束とした。
きっと昨日も帰りは遅かったに違いない。まずはゆっくり睡眠をとることが大切である。
その旨をメールで伝えて午後から会うことにした。
「ヒロちゃーん!」
改札口の向こうから手を振りながらやってくるアリサ。少々恥ずかしい。
「ゴメンネ、色々気を使ってくれて。」
「ホントはね、朝から会いたいんだよ。でもアリサが倒れちゃったら困るし。」
「ありがとう。優しいのね。それと、この間のこと気にしてない?アリサは全然大丈夫だからね。」
あっけらかんとしてくれているのは非常にありがたい。
実を言うと多少気になっていた。理由はどうあれ、潤んでいたのは涙である。どんな涙でも男は女の涙に弱いのはいつの時代も同じだということ。
「ところで仕事の方は順調かな?」
「そうねえ。もしかしたら三月頃には独立できるかもしれない。でもまだ全然未定の話よ。それよりも、今日は何をご馳走してくれるの?お腹ぺこぺこよ。」
午後の待ち合わせだが、ランチから始めようというのが今日の予定のコースである。
「育ち盛りのお嬢さんに選択権を差し上げよう。一つ目は以前に約束した牛丼が食べられるお店。もう一つはお好み焼きっていうのはどうだい?」
ボクは年末の牛丼の話を覚えていたけれど、アリサはどうだろう。
「それなら牛丼に決まってるわ。覚えていてくれたのね、さすがヒロちゃん。」
「ホントにそんなのでいいのかい?店に行ってもオジサンだらけだよ。」
「だから一人で行けないんじゃない。ヒロちゃんと一緒だったら違和感ないでしょ。」
確かにそうだ。間違いなくボクはおじさんなんだから。
折角だから、ちょっと料亭っぽいところでという提案もしたが、アリサは俄然チェーン店の牛丼を所望したがった。
ま、安上がりで助かるけどね。
改札からあまり遠くないところに店はある。多くの駅では、必ずと言って良いほど徒歩三分圏内に牛丼屋がある。わざわざ何十分も歩いて食べに行くような代物ではないからね。
店内に入ると、辺りの風景を物珍しそうに見渡すアリサ。客のほとんどは間違いなくおじさんか学生たちだ。しかも男ばっかり。アリサはその中で咲いている一輪の花といったところか。だから目立つことこの上ない。
「あんまり他のお客さんたちをジロジロ見ないであげてね。それでなくてもアリサ目立ってるから。」
「うん、わかった。」
そう言って二人並んで、ボクにとってはお馴染みのカウンターに腰掛ける。
「どうやって注文するの?」
「店員さんに、メニューを指差して、これ下さいって言えばいいんだよ。」
目の前に置かれたメニュー一覧を見て、二人して並盛りと漬物と玉子と味噌汁のセットを注文した。
ボクにとっては、すごく日常的過ぎる風景だけど、アリサにとっては新鮮だ。
注文してからすぐに出てくる牛丼に目をくりくりさせて箸を探す。
「食べる前にたっぷりとしょうがを載せて食べると美味しいよ。スプーンもあるから、そっちの方が食べやすいかも。」などと教えてあげる。
「どれどれ、うん、美味しい。」
なにわともあれ喜んでもらってよかった。
「ヒロちゃん、ありがとう。いい経験になったわ。」だって。
全然たいしたことないんだけどね、オジサンにとっては。
お腹が満たされたボクたちは、店を出て次のデートコースへと向かう。
次にボクが用意したのはボウリングデートだ。
これもデートしては定番かもしれない。
さて、アリサの腕前はどんなものだろう。実はボクはさほど得意ではない。
アベレージで言うと100ちょっと。男子としては少し情けない数字である。
「アリサ、ボウリングも得意よ。」
実際にアリサはボクよりはかなり上手だった。
ボクの投げるボールは右へ行ったり左へ行ったり。やっと真ん中へ行ったと思ったら両端が残る始末。
アリサはといえば、パワーはないものの綺麗に2投目でスペアをとることが多かった。
2ゲームずつを費やしたが、1ゲーム目はボクが105点でアリサが135点、2ゲーム目はボクが114点でアリサが141点。ボクの完敗である。
「御見それいたしました。」
これ以上やっても、ボクが逆転する訳でもないので、3ゲーム目に入る前に白旗を掲げた。
「もしかして、根性がひねくれてるからボールも真っ直ぐ転がってくれないのかな。」
アリサは少し考えたフリをして、
「うーん、そうかも。」
だってさ。
「ちょっと休憩しよう。冷たいコーヒーを飲ませてください、お嬢さん。」
「うふふ。でも楽しかったわ。久しぶりだったもの、ボウリングなんて。」
どうやら楽しんでもらえたようだ。ボクは今晩から腕にシップを貼らないと、明日は腕がパンパンに痛くなるんだろうなと思った。中年はやだね。
さて、次のデートコースは同じ建物の中にあるバッティングセンターだ。
こっちはボクの得意分野。学生時代は野球部だったからね。ちょっといいところを見せようと思って張り切っていた。
「100キロぐらいなら打てると思うよ。」
社会人になっても、そこそこ草野球で鳴らしていただけあって、まあまあの腕自慢を披露できた。
アリサはと言うと、
「アリサ、苦手じゃないわよ。球技は一通りできるもん。ヒロちゃんみたいに速い球は無理かもしれないけど。」
“カキーン”
自我することに偽りなし。女の子とは思えない確率でボールにバットを当てていく。フォームはテニス打ちみたいだけど、確実に芯を捕らえている。素晴らしい。
普通の女の子が、それでも80キロのボールを半分以上の確率で当てるなんてあまり見たことがない。
ここも「御見それしました。」と素直にシャッポを脱いだ。
体を動かすデートはここまで。明日に疲れを残しちゃいけないからね。いい頃合で終わりにしよう。
もうそろそろ夕方だ。晩餐の前に軽くゲームを嗜む。これも同じ建物内にあるからね。
ビリヤードでも良かったけれど、アリサはやったことがないというし、ボクも教えられるほどの腕前じゃなかったので、軽くコインゲームを楽しむことにした。
スロットマシンや競馬ゲームなど、最近はコイン一枚で色んなゲームが楽しめる。
もちろん換金できるわけではないので、全部使い果たすことになるのだが、ギャンブルと違って全部なくなることが前提なのだから、気分は楽だ。
このあたりで時計を見ると十七時を少し越えていた。
そろそろ夕餉の時間である。
今日は二人で鍋をつつきに行こう。大阪らしくメインはフグである。
レジャービルを出て近くの店に。予約した通り、こじんまりとした座敷の部屋を用意してくれていた。一応個室だ。
「疲れた?羽を伸ばせた?楽しかった?」
「楽しかったわ。後はアリサが癒してあげる番ね。」
「それは後でちょっとだけキスしてもらえれば充分だよ。さあ食べよ。」
目の前に並んでいるのは定番のてっさと皮の湯引き、そして唐揚にてっちりだ。
「アリサ、フグなんて初めてかも。記念に写真撮っておいてもいい?」
今時の子はみんなスマホで写真を撮りたがる。そういえばボクとの写真もあったっけ。
ホントは目まぐるしい毎日の中、すごく疲れているはずだ。それでも時折りボクを気遣ってくれる気持ちが愛おしい。
「寒い日は鍋が一番だよね。あったまるし、二人でおなじ鍋をつつけるし。やっぱり隣に行くよ。」
そう言ってボクは向かい合わせに座っていた席を、アリサの隣に移動する。
「どうせなら体温も感じたいしね。」
「うふふ。」
アリサもボクの肩に顔を寄せてくる。
こじんまりした個室だったので、二人だけの空間が楽しめる。
久しぶりにアリサの笑顔が見られた。本当は辛い事もたくさんあるだろうに、ボクの前ではいつも笑顔でいてくれる。その笑顔が見られれば、今日は満足だ。
時計を見ると、時間は二十時を少し越えていた。
「随分ゆっくりしたね。明日も早いんでしょ。今日はもうお帰り。駅まで送るよ。」
「ヒロちゃん、ありがとう。やっぱり安全パイなのね。」
「忙しそうだし、これ以上疲れさせて倒れてもらっちゃ困るし。もう少しアリサの体が楽になるまで辛抱するよ。」
「でも、ホントは・・・でしょ?」
そう言ってボクの股間を刺激してくる。
そして鉄のネットを開けて、ボクの分身を引き出して、そっとウインクを送る。
「おいおい、こんなところで・・・。」
「大丈夫よ。」と言って祠の中に納めてくれる。
アリサの女神は懸命にボクの分身をネットリと刺激を送り続けてくれる。思わず声を上げそうになるが、襖一枚向こうは別の客がいる部屋である。声を殺してアリサの気持ちに甘える。
アリサの唇も中の女神もやわらかくてあたたかい。いつもと同じように。
やがて、ボクの衝動は最高点に達し、アリサの口の中で流動を感じた。
アリサはボクの憤りの証しを無理やり飲み込み、ニッコリとボクに微笑んだ。
「そんなの無理して飲まなくてもいいのに。」
「いいの。いつも優しいヒロちゃんのをちゃんと感じたかったから。ヒロちゃん、いつもアリサのことを想ってくれてるんだもん。大好きよ。」
そう言ってボクに抱きついてくる。ボクは思わず力をこめて抱きしめた。
まだボクの分身は露なままだったにもかかわらず。
アリサの気持ちがうれしかった。そんな風にボクのことを想ってくれていたなんて。
気がつけば、ボクはアリサの唇に想いをこめてくちづけをしていた。ぐっと、ぐっと抱きしめながら。
ヴァニラの芳香はいつも通りに神秘的だった。
やがてボクはアリサの体を離し、露なままだったボクの分身を片付ける。
「結局今日もボクがいい想いをしたみたいだね。」
「ううん、アリサも充分楽しませてもらったわ。」
「時間は早いけど、今日はこれでお帰り。またゆっくり会おう。そのときは存分にアリサを堪能させてもらうことにするよ。」
「うふふ、エッチねえ。」
時計は二十時三十分を過ぎたあたりを示していた。
アリサと一緒に駅まで行き、アリサが電車に乗り込むのを見送ってから、ボクはアリサとは反対方向の電車に乗り込んだ。
電車の中で、姿が見えなくなるまでボクに手を振ってくれていた。素直でとても愛くるしい子だ。ますますボクはアリサに溺れていく自分を感じていた。
寒いはずの北風がボクの頬をかすめていたが、それすら感じることもなく、火照った顔で帰路を歩くボクだった。
しかし、時間はまだ早い。ボクは例の馴染みの蕎麦屋『禅』へ足を踏み入れた。
「やあヒロちゃん、いらっしゃい。その後、若い彼女とはうまくいってんの?」
親方はニヤニヤしながらボクにおしぼりを手渡す。
女将さんも奥から駆け寄ってきてボクの隣へ座り、そしてクンクンと匂いをかき始める。
「こんな早い時間だからまさかと思ったけど、今日はデートだったね。」
女というものは恐ろしい。
「そんなことがわかるんですか。」
「この匂いはこないだの女の子の匂いよ。なんていうんか不思議な匂いやったから、よう覚えてんねん。」
確かにボクの衣服にはヴァニラの香りがふんだんに染み込んでいるかもしれない。
「正直に告白します。はい、彼女と会ってました。デートでした。」
「やっぱり。ヒロさんも隅におけんね。どんなデートしてきたん?」
女将さんは興味津々と言ったところだ。ボクに問いかける目がキョロキョロしている。
「今日はね、お昼に牛丼を食べて、ボウリングしてバッティングしてゲームをして、最後に鍋をつついてきました。」
「その後は?」
「いや、それで帰ってきて、ここに来ました。」
女将さんはあきれたような顔をしてボクに詰問する。
「その後は?ちゃんと抱いてやらんと。」
「彼女ね、毎日毎日とっても忙しいんだ。ボクの相手までしてたら体が持たないよ。最後のところがね、こじんまりした個室だったから、ずっと抱きしめてはいたけど。そのときの匂いだよきっと。」
女将さんはようやくほっとしたような顔で、
「流石やね、ヒロさん。女って体の関係も必要やけど、思いやりのある言葉をかけてもろた後で、ぐっと抱きしめてもらうのが一番や。ようわかってるな。あんた、こういうとこ見習いや。」
そう言って親方を責める。
「なんや、えらいなとこに飛び火してきたな。それはそうと、このあたりはヒロさんの噂でもちきりやで。」
「親方、とりあえずビールとおつまみをもらえますか。それに、噂を流してるのは親方なんじゃないんですか。」
矢継ぎ早の詰問攻めでてんやわんやである。おおかたそんなものかもしれないとはタカをくくっていたものの、あまり噂が広がるのはよろしくない。
「そうやで、この人があっちこっちでしゃべったはんねん。『おう、ヒロさん若い娘連れて歩いてんのん見たことないか』とか『こないだ駅で見かけなんだか』とか、男の嫉妬ってみっともないなあ。」
「あほ、あんまり悪い噂が流れとったらあかんさかいに、前もってリサーチしとんねやないかい。」
「それをな、いらんおせっかいやっちゅうねん。そんなことしてる暇あんねやったら、もうちょっと蕎麦の研究とかしとき。」
「まあまあまあ、どっちでもいいじゃないですか。今は悪い噂が流れていても平気なぐらいうまくいってますから。」
夫婦喧嘩が始まるかと思いきや、いつもこんな調子の夫婦である。ボクから見れば微笑ましい風景だ。ボクも前の妻とこういうことが言い合える夫婦だったら、離婚せずに済んだのかもしれない。
「そやけどな、この人ら、ヒロさんたちが結婚するか振られるかで賭けをしてるみたいやねん。ひどいやろ。」
「ヒロさん、ワシはな結婚する方に賭けてるで。」
「じゃ親方、ボクは振られる方に賭けますよ。」
親方も女将さんも驚いたようにボクに問いかける。
「なんでや、あんなええ娘、離したらあかんで。今もラブラブなんやろ?」
ボクはビールで喉を潤して、神妙に構える。
「冷静に考えてください。ボクは彼女が好きです。愛しています。でも彼女の幸せを考えたとき、ボクという男の配偶者がベストでしょうか。今はラブラブですが、もしも彼女の目の前に彼女に見合う男が現れたら、ボクは彼女がその男を選択しても仕方ないと思っています。その方が彼女にとってきっと幸せなんです。」
女将さんはボクの肩に手を置いて、じっとボクを見つめる。
「あんたの言うことは正しい。せやけど、それを決めるのはあんたやのうて彼女やで。幸せかどうかを判断するのも彼女やで。ウチはこんな人と一緒になってしゃーないとは思てるけど、幸せやとは思てるで。もうちょっとポジティブに考えや。そうせんと彼女がかわいそうや。」
女将さんの言ってることは、それはそれで正しいのだろう。女の考え方ってそうなのかもしれない。でも、ボクにはまだその答えを出そうとは思っていない。
まだその時期じゃないと思っているから。
「わかりました。頑張ります。とりあえず蕎麦をもらえますか。」
「ヒロさん、はぐらかしたらあかんで。ウチは応援してるんやから。頑張りや。」
「ありがとうございます。」
女将さんの優しさがうれしかった。気が付けば親方がカウンターの向こうで泣いていた。
「ヒロさん、ワシもうらやましいと思いながら、ホンマに応援してるんや。あんたの優しいのはみんな知ってる。彼女もそこに惚れたんやろ?せやから応援するんやで。」
「親方も女将さんもありがとう。それしかいう言葉がみつからないよ。」
「ヒロさん。また彼女をウチの店に連れておいでな。あんたのええとこ一杯彼女に教えたるさかい。」
みんなの気持ちが心に染みている。今日のビールは少ししょっぱい気がする。
ボクは今日のこの日を忘れない。
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