第13話 蕎麦屋の親方と女将さん
「ありがとう。お昼、食べにいこっ。」
ようやく乙女心さんは落ち着いたようだ。
「何が食べたい?少し歩くけど、駅の向こうに商店街があるから、お嬢様のご希望には添えると思うよ。」
「じゃあね。お蕎麦にしましょ。」
「えっ?香川県人が蕎麦なんか食べてもいいの?ポリシーに反しない?」
「うどんはね、香川で食べたほうがおいしいから。他所ではあんまり食べないのよ。」
これが香川県人の誇りと言うものなのか。
しかし、理屈は分かるような気がする。ボクも大学時代は田舎の方で過ごしたが、やはりうどんや蕎麦は食べなかった。絶対に口に合わないのわかってたからね。
「じゃ、ボクの行きつけの蕎麦屋に行こう。ただ、困ったことに行きつけだからアリサのことを聞かれたら何て答えたらいい?」
「どう答えたいの?」
「ボクの新しい良い人だよって。」
「それでいいんじゃない?アリサ、別に恥ずかしくもなんともないわよ。ヒロちゃんが気にし過ぎてるだけなのよ。世の中には年の離れたカップルなんていくらでもいるのよ。」
ニッコリ笑って答えてくれた。
そう言ってくれると、かなり気分が落ち着く。年の差のことを気にしているのはボクだけなのか。
この言葉はホントにボクを楽にしてくれた。おかげでこの時から年の差のことが、あまり気にならなくなった。
ボクたちは部屋を出て、そして手をつないで駅の方へ向かって歩く。
ときおり、互いの瞳を見つめ合いながら。
このあたりは変わったとか、ここは古い建物だとか、ここのおばさんには世話になったとか。そんな話をしながら歩いた。
駅の向こうは小さいながらも商店街になっており、今時ながらまだ多くの店が営業していた。そのほとんどが飲食店だ。このあたりは独り者が多く、どこへ入ってもそれなりの客で賑わっている。
ボクには割と馴染みになっている『禅』という蕎麦屋があり、よく晩酌をこなしていた。
「こんにちは。空いてる?」
馴染みの暖簾をくぐると、見慣れた親方の顔が見えた。
「やあヒロさん、久しぶりやね。おや?」
さっそくアリサが目についたらしい。
「なになに?ヒロさんの新しい恋人かな?」
「そうだよ。アリサっていうんだよろしくね。」
「ええ?ホンマかいな?ウソやろ?」
「アリサです。ヒロシさんがいつもお世話になっております。」
「なんやなんや?もう結婚してるみたいやんか?ええ感じやねえ。」
言ってなかったけど、ボクの住んでいるのは大阪市内のすこし外れのところ。ボクは関西人ではないので関西弁を話さないが、周囲の人はほとんどが大阪人だ。だから話す言葉も、もちろん関西弁になるのである。
ボクと親方とは気の置けない間柄だから、会話の内容に遠慮がない。そういうところがこの親方のいいところ。ボクが贔屓にしている所以なんだが。
「あんまり冷やかさないでね。本人たちは至って真剣なんだから。」
「ええやん。こないだ別れたと思ったら、すぐにこんな若い綺麗なおねえちゃん見つけてくるんやもんなあ。ウチも一回離婚してみようかなあ。」
どんどん、口調が軽くなる。
「その辺で止めときなよ、女将さんが後ろで睨んでるよ。」
すると女将さんも負けてない。
「なんやったらそうしてもらってええで。ウチは彼女に若い男の子でも紹介してもらおうかしら。慰謝料だけタンマリもろうてな。」
この親方にこの女将ありである。この夫婦のやり取りはいつ聞いても面白い。この夫婦の会話をヒントにいくつかの記事を完成させてもらったこともある。ボクにとっては欠かせない夫婦だ。
「とりあえず座ろう。立ったままじゃ蕎麦は食べられない。アリサもそこへお座り。」
ボクたちは、店の一番奥にあるテーブルに座った。
「ここの親方はお気軽だけど、蕎麦は間違いないから。何でもお勧めだよ。ボクはおろし蕎麦にするけど、アリサは何にする?」
「そうねえ。寒いから温かいのにするわ。」そう言って天ぷら蕎麦を注文した。
頃は年末、今日は晦日である。昼もそこそこ客が入ってくる。
「そういえば、明日が大晦日だね。今日も明日も忙しくなりそうだね、親方。」
「ヒロさん、今日と明日が暇やったら、蕎麦屋はみんなつぶれてまうがな。」
アリサは、ボクと親方のやり取りを微笑みながら眺めていた。そして、ひと段落ついたところを見計らってボクに話しかける。
「明日はもう実家に帰っちゃうから。今日のうちに一緒に年越しそばを食べようと思ったのよ。」
なんという計らいだろう。ボクは胸の奥に熱いものを感じた。こんなにボクのことを考えてくれているなんて。
「神妙に食べなきゃいけないね。」
「冬やっていうのに、この店の一角は夏みたいに熱いところがあるで。ああ、うらやましいなあ。」
厨房の奥からヤジが飛んでくる。
「何ゆうてんのよ、あんたとヒロさんでは中身も外見も出来が違うんよ。比べてごらん、鏡を見たことあるか?」
すかさず女将さんのチャチャが入る。
「楽しいお店ね。ヒロシさん、みんなに愛されてるのね。」
なんだかアリサも嬉しそうだ。この店に来ておいて良かったと思った。
やがて注文した蕎麦が出揃って、二人で静かに蕎麦をすする。アリサは冷えた体を温かい蕎麦で暖を取り、ボクは熱く火照った顔を冷たい蕎麦で冷ました。
親方の思いやりのあるヤジは嬉しいけれど、やはり何となく照れ臭い。
そんなお昼のひとときだった。
お腹も気持ちもほっこりとさせてもらって、北風に逆らいながら部屋に戻る。
「美味しかったわ。ご馳走様でした。やっぱりヒロちゃんっていい人なのね。アリサの目に狂いはなかったわ。」
「あのねアリサちゃん。ボクもいい大人になってるんだから、ある程度は人とのつながりがあるのは当たり前のことなんだよ。決してボクが悪い人だとは自分でも思ってないけど、ボクを買いかぶり過ぎちゃいけないよ。」
「ううん、アリサの知ってる五十歳の人の中ではヒロちゃんが一番優しいし、一番いい人。私が言ってる安全パイの意味、まだ分かってないでしょ。」
くりくりした目でボクを見ながら話す。
「それが買いかぶりだって言ってるんだけどな。その辺の同世代のおじさんたちと考えてることは一緒だよ。現に狼になっちゃったじゃない。」
「いいわ、わからなくても。アリサの問題だから。」
そう言って前を向き、歩き方もスキップするような歩調になる。
今日は一段と楽しそうだ。
部屋に戻ると、まずは熱い抱擁を求めた。
「こうやってると、なんだか安心するよ。でも明日は実家へ帰るんだね。」
「アリサも今日はずっとヒロちゃんに包まれてたい。」
ボクはアリサをリビングのベッドに座らせた。そしてボクは立ったままアリサの上から覆いかぶさるようにキスをする。
アリサはボクのズボンのベルトを外しにかかる。
ズボンのホックが外れたのをきっかけに、ボクはアリサの体をそのままベッドの上に押し倒した。
今日もアリサの唇はやわらかくてあたたかくて甘い。ねっとりとした女神へのあいさつも怠らない。熱い息遣いが伝わり、鼻から漏れる息でさえも香しい。
胸元のヴァニラの香りも今日は絶好調だ。この神秘的な香りにいつもボクは惑わされる。そして甘美な世界へ誘われるのだ。
ボクの唇はアリサの首筋から胸元へ、そしてさらには秘密の場所へと探索を始める。アリサの声が漏れ始め、吐息とともにボクの耳元でささやく。
「今日も優しくしてね。好きよ、ヒロシさん。」
言わずもがなである。聞かずもがなでもある。
少し寒い室内はまだエアコンが十分な温度を確保してくれていない。ボクたちは布団の中で秘密の共演に予断を許さない。
いつものようにアリサの若い肌がボクの手のひらを心地よく弾き返してくれる。しおらしく目を瞑り、ボクの要求を受け入れてくれる。こうしていると、アリサがハーフであることなど全くもって忘れてしまう。清楚で純朴な日本人そのものだ。
ボクは久しぶりのアリサをゆっくりと、ボクの体に覚え込ませるかのように愛した。
唇の甘さもヴァニラの香りもどんどんボクの体に染み込んでいく。
アリサの体の丁度よいふくよかさは、ボクの欲望をおおらかに満たしてくれる。リズミカルな動きとアリサの声がリンクする。ボクの鼓動もシンクロしていく。
「今度はアリサが上になる。」
アリサはときにスローにときにクイックリーにボクの上で踊る。アリサもボクの体になじんできてくれたようだ。ボクも負けずにときおり応戦する。
まだボクたちの逢瀬は十回も数えていない。お互いのぬくもりをまだ試みながら楽しんでいる最中なのである。今が一番楽しいのかもしれない。何度も何度も体を入れ替えては具合を確かめあう。離れてみたり、深く入り込んでみたり。アリサも具合の違いを悦びで表現してくれる。
ビオロンの調べのようにアリサがバラードを奏でる頃、ボクのメトロノームは最高潮に達しようとしていた。
「アリサはいいのよ。いつでもイッテね。アリサの中にちょうだい。」
その言葉を聞いてボクは間もなく絶頂に達した。
心地よい虚脱感がボクたちを襲う。
少し汗ばみがちのアリサの体は、ボクが果てた後でも相当に色っぽい。
前回の逢瀬から時間の距離を経ているボクにとって、色っぽいアリサの曲線は次への大いなる刺激となっていた。
一度果てたにもかかわらず、ボクの分身はまだ直立不動を保っていた。
「もう一度抱きたい。明日からしばらく会えなくなるし。」
そう言ってボクはアリサの唇を奪いに行く。その後、アリサを見つめながら反応を待つ。
ニッコリ微笑んで、無言でうなずくアリサ。
ボクは胸の膨らみを弄び、アリサはボクの分身を確かめに来る。
「いっぱい愛して、ヒロシさんの気が済むまで。」
ボクは胸の膨らみの頂点を責め、少しばかり歯を立ててみる。
アリサの薄い吐息が漏れる。ボクの舌は頂点の周囲を何周も駆け巡り、反対の丘へも手を伸ばす。再びアリサの薄い吐息が漏れる。
互いに汗ばんでいる体は、互いの体温をさらに上げていく。
アリサの秘密の洞窟からは、すでに熱い泉が漏れ出ていた。ボクの指は洞窟の入り口を示す石碑に、十分すぎるほどのノッキングを施し、洞窟への再侵入の許可を待つ。入り口ではボクを受け入れる熱い潤滑油がさらに溢れ出ているのがわかる。
アリサはボクの腰に手を回し、徐々にその半径を縮めていく。そしてボクの分身はその半径の縮小とともに洞窟へ入っていくのである。
「あんっ」とこぼれる声がボクの耳に届いた。その声は、ボクの分身をさらに奮い立たせると同時に、痺れる感覚を背中に走らせるのである。
延長戦へのチャレンジなど何年振りだろう。北陸でも二戦目までにはインターバルがあった。前妻との交わりも離婚前から数年以上なかったこともあり、ボクの記憶からは遠いところにあった。
しかし、アリサの体とボクの体との相性は良いみたいだ。男女の関係は性格の一致も必要だが、体の相性も大切だと思う。汗ばむアリサの体を弄びながらそう思った。
少しゆとりのある二戦目だから、少々激しい動きにも耐えられる。そこで不意にちょっとした遊びを思いつく。
「ねえアリサ、少しヴァイオレンスチックなことをするけど、つきあってね。」
「どうするの?」と不安げにボクに尋ねる。
ボクははぎ取ったアリサの着衣で軽く手を縛る。
「怖い。」一瞬、アリサの目が不安な目線に変わる。
「大丈夫だよ。痛いことはしないから。でもイヤイヤって言ってみて。」
ちょっとAVっぽいセリフをリスエストしてみる。
「助けて、乱暴にしないで。って、こう?」
「そうだよ、ドキドキするでしょ?」
「うふふ、やめて、お願い。」
軽く縛った手を少し強めに抑え込む。そしてボクの分身を、激しく泉がほとばしる洞窟へと侵入させる。
「あん、やめて、これ以上はイヤよ、助けて。」
男と言うものは元来みな狼である。こういった女の言葉に興奮しない輩はいないだろう。まさにその言葉でさらなる興奮を覚えたボクは、一気に絶頂へと登りつめる。
「お願い、助けて。いや、いや、いやよ。」
アリサも名演技を続けてくれる。
ボクは少々乱暴気味にアリサの胸の膨らみを責める。そして突起物に歯を立てる。
アリサは快楽に溺れるような声をあげ、腰を浮かせた。
ボクはその浮いた腰に向かってベクトルを反復させる。そのスピードが一気に加速されたとき、アリサの悦なる声も最高潮を迎える。
「お願い、もう中に出さないで。やめて。」
「お前の体は、中に欲しがってるぜ。」
そんなやり取りがあってすぐ、ボクは完全に砲撃を完了することになる。
ずっとアリサの体を抱いたまま、彼女の唇を弄ぶ。
「ゴメンね。でもありがとう、楽しかった。」
ボクは軽く縛ったアリサの腕を解放し、抱き起して彼女の匂いを確認する。流れた汗と火照った体が発する熱気がヴァニラの香りを薄らげていた。
「大丈夫よ、アリサもおもしろかったわ。ヒロシさんが喜んでくれるならそれでいい。うれしいわ、二回もアリサでイッてくれて。」
「ステキだったよ。とても色っぽくて、何度もとろけそうになったよ。もうボクはキミにメロメロだ。恋に落ちるってこういうことを言うんだね。」
「うれしいわ、そんな事を言われたの初めてよ。アリサもヒロシさんにドンドン恋してしまっているわ。」
何もないボクの部屋では、話をするか抱き合うしか時間をつぶす術はない。
ボクたちは、ことが終わったそのままの姿でベッドの中で抱き合いながら時間を過ごす。火照っていた体も時間の経過とともに少しずつ冷めてくる。
ボクたちは布団を頭からかぶり、お互いの体温を確かめ合うようにじっと抱き合う。
渾身の一撃を二度も解き放ったボクは、さすがに大いなる疲れを感じていた。昨晩の帰宅が遅かったアリサもまだ同様だった。
しばらくして、心地よい体のしびれを感じながら、ボクたちはウトウトと夢の世界に陥っていた。
二人が目覚めたのは夕方の六時になろうとする頃。外はもう真っ暗になっていた。
ときおり強めに吹いた風が、窓の外の木々を揺らした。その音に起こされたのである。
「もうこんな時間だ。随分と寝てしまったね。」
「ずっとこうしてたいわ。」
ボクの胸に顔をうずめて、上目がちにボクにつぶやく。
「何時までいられるの?明日の用意はできてるの?」
「実家に帰るだけだから、特別な用意なんていらないのよ。着替えをカバンに詰め込んだらおしまいよ。」
「晩御飯を食べてからおかえり。家で作ったり片付けたりする時間がもったいないよ。その分の時間をボクに費やしておくれ。」
「うん。とりあえずシャワーを浴びてくるわ。ヒロさんの匂いをプンプンさせたままで、お店には行けないわ。」
と言って恥じらう顔を見せる。
ボクたちは順繰りにシャワーを浴び、汗ばんだ体をリセットする。
そしてボクたちは享楽に費やした体を衣服に包み、夜の宴を求めて部屋を出るのだった。
年末の風は冷たく厳しい。
しかしボクたちの頬は、そんな北風さえも跳ね返すほど熱く火照っていた。
「さて、アリサちゃん。何を食べに行く?」
「そうねえ、普段ひとりじゃ行けないところへ行きたいわ。たとえば牛丼屋さんとか。」
「おいおい、アリサと過ごす今年最後の晩餐が牛丼じゃ、ちょっとイヤだな。さびしすぎないか。」
「でも、女の子ひとりで牛丼屋さんなんて、なかなか行けないのよ。」
確かにそうかもしれない。ボクも牛丼屋で女の子がひとりで食べてる様子をあまり見たことはない。
「でもまあ、それは今度の機会に連れて行ってあげることにしよう。他には?」
「約束よ。そうねえ、じゃあホルモン屋さんはどう?これも女の子同士ではなかなか行けないわよ。煙がもうもうして服に着いちゃったりもするからね。」
「いいけど、今日の服は匂いがついてもいい服なのかい?」
「今日は割とラフな格好で来たし、匂いなんて洗濯すれば消えるじゃない。」
ホルモン屋なら簡単だ。年末とはいえ、商店街なら今日まではほとんどの店が営業しているはずだ。
そうと決まれば話は早い。ボクたちは商店街に着くなり、ホルモン屋を探す。そしてそれはすぐに見つかった。最近オープンしたホルモンの専門店だ。ボクたちは軽くアルコールを嗜みながらホルモンを楽しんだ。ホルモンを頬張るアリサの笑顔は今日も可愛い。ボクにとっては馴染みのつまみだが、アリサにとっては新鮮な食事になったようだった。
夕餉を楽しんだ後、もう一度ボクの部屋に戻り、今年最後の抱擁を楽しむ。さすがに三度目の冒険には望めない。それでもボクにとってこの時間はアリサのヴァニラの香りを存分に吸い込むだけで十分満足できた。
ボクはやわらかくて温かい唇を十分に楽しむとともに、後ろから抱きついて胸元から手をすべり込ませ、弾力のある肌と胸の膨らみをもう一度確認した。
やがて夜の戸張が完全におりきったころ、アリサが帰る頃合いの時間となる。
「これ以上遅くなったら、帰れなくなるかもね。駅まで送るよ。それとも家まで送ってあげようか?」
「大丈夫よ。でもそのうち、アリサの部屋にも招待するわ。今日は一人で大丈夫よ。まだ時間も早いし。」
時計は九時を指していた。確かにこの時間ならまだ一人でも大丈夫だろう。
部屋を出る前に、もう一度長いキスを交わしてからボクはアリサを送り出す。駅までの道のりは約三分。またぞろ手をつないで歩く。
「ヒロちゃん。色々とありがとう。また来年ね。よいお年を。」
「うん、せいぜい親孝行しておいで。アリサもよいお年を。」
「仕事のこともあるし、四日には帰ってくるつもり。またその時に会えるといいわね。」
そう言ってアリサは改札の向こうへ歩を進めた。
ボクはアリサが電車に乗り込み、その電車が動き出し、アリサの姿が見えなくなるまで見送った。
年の瀬も迫る夜の晦日。満足のいく一日だった。久しぶりにアリサの声を生で聞き、久しぶりにアリサの若い肌に触れた。若い躍動する体に二度までも挑んだ。
今宵は良い夢を見られそうだ。
翌、大晦日の日。
アリサは淡路島経由のバス路線で香川に帰るようだ。バスに乗り込む直前に「行ってきます」とだけメールをくれた。
この日のボクは、年明けの計画に余念がなかった。以前に計画しているとしていたサプライズの準備である。
ボクは年明け早々に香川へ旅行する計画を立てていた。もちろん行く先は丸亀である。
雪の降らない地域なので、ボクはレンタカーを借りてアリサに会いに行くつもりなのだ。さすがに正月三が日は道路が混むことは必至であろう。しかし、四日には帰ってくると聞いているので、訪れるなら三日の午前中だ。
突然の訪問なので、アリサが多忙ならそれはそれで仕方ないと思っている。普通に金毘羅参りでもすればいいのだ。それよりも、帰りにアリサを車に同乗できれば、帰りの時間はずっと一緒にいられるのである。
宿は空いていた。男一人旅など泊まる宿なんかどこでもいいのである。あとは、除夜の鐘を聞きながら、新しい年が来るのを待つだけである。
ボクは昨日アリサと行った蕎麦屋のカウンターに居座り、酒を舐めながら一人でもう一度、年越し蕎麦を食べるのである。
「ヒロさん、昨日の彼女はホンマにヒロさんの良い人なん?」
親方は疑い深い。というか信じがたいのだろう。ボクだってときおりホントのことかどうか疑いたくなる時もある。
「どうやって捕まえてきたんよ?あんな若くてかわいい子。ケチ臭いこと言わんと、オレにも教えてえな。」
親方は興味津々の様だ。
「ヒロさん、あたしも聞きたいわあ。」
女将さんまで参戦してきた。
「世のゴシップ好きな方たちには申し訳ないけど、ボクと彼女のプライバシーに関することですからね、言えませんよ。」
「なんか訳ありっていうことか?」
「そんなことはないけどね、親方が独りモンになったら教えてあげるよ。ようは出会った時に口説けるか口説けないか、ただそれだけなんだよ。」
確かにボクはアリサと出会った頃から口説いていたのかもしれない。今にして思えば、結構積極的だったかも、そう思える節もある。
「しかし、モテる男はどこへ行ってもモテるんやねえ。」
「親方、減らず口はその辺にして、しっかり蕎麦を湯がかないと客が逃げちゃうよ。この稼ぎ時に。」
「それはその通りや。ところでヒロさん、酒はもうええのんかい?」
そう言えばボクのとっくりはカラになっていた。
「じゃあ、もう一本つけてもらおうかな。ついでに板わさを追加でよろしく。」
今年最後の蕎麦の前に、もう一献、今宵の鐘に捧げよう。
今夜の鐘は百八つ、数えたことはないけれど。響き渡る鐘の音は、静寂の中を走り抜ける。
来年もよい年でありますようにと願うひとときである。
「ヒロさん、でも若い子が相手なんやから、罪作りなことしたらあかんで。」
女将さんが急にボクの隣に座って説教を始める。丁度客入りが途絶えたところである。
「どこのお嬢さんか知らんけど、ちゃんと結婚してあげるんやろな。親御さんとこへもご挨拶に行かなあかんで。」
確かにそれは大きな課題である。
まだ、結婚のことまでは考えていないというのが正直なところであるし、もし彼女がそれを望むなら、ボクは挨拶に出向かねばならない。もしかしたら、ボクよりも年下かもしれない彼女のご両親に。
まず、許してくれる訳もないだろうけどね。特に父親が。
可愛い娘の相手が、五十を越えたおじさんだなんて、ボクの娘がそういう男を捕まえてきたらどうするんだろう。そんなことまで考えてみる。
「女将さん、まだ付き合い始めて二ヶ月なんだ。結婚なんて大きなことはまだ想像してないよ。彼女もまだ新しい仕事を始めたばかりだしね。ボクは少し遠くから、彼女の応援をしているだけさ。」
女将さんはため息をつきながらボクに話しかける。
「女はな、夢を見ながらちゃんと現実の世界を目論んでるもんなんよ。捕まえるならちゃんと捕まえておかんと、いつか逃げられてまうで。」
ボクのことを心配してくれる言葉が優しい。女将さんはいつだってボクの味方だ。
「ボクもそれなりの年だから、それを言い訳にはしたくないけど、彼女のベストな選択を最優先すべきだと、ちゃんと考えてるよ。それがどの選択肢なのか、まだ今のところはわからないよ。」
「いい恋をしなさいね。もう最後の恋かもしれんからね。」
最後まで女将さんの言葉は温かかった。
ボクは除夜の鐘を聞きながら部屋へと戻る。
少し酔っている体が、すでに寝床を探していた。
ボクは百八つの鐘を聞き終わることなく、睡魔に襲われて深い眠りについたのだった。
特に何の変りもない日常と同じ夜であるかのような大晦日だった。
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