第9話 ミイの卒業
暦はようやく十一月を示す。
朝晩はもちろんのこと、昼間の風もかなり涼しい。
そんなある日の明け方、ミイからのメールを受け取っていた。寝ぼけまなこでメールを見る。タイトルは、「ミイのラストナイト」だった。
「ミイは二週間後、『ブルーノート』を卒業します。ラストナイトは絶対来てね。約束してくれたよね。」
ボクは内心ほっとしていた。ミイが他の男の腕の中にいることを想像するだけで吐き気がする。だからボクはあの情事の夜以降、店には行っていない。次に行くのもラストナイトだけだ。約束だから。
ボクはミイにメールで返信する。
「ラストナイトは必ず行くよ。」
ホントはそのあとに「好きだよ」って入れたかったけど、なぜか遠慮した。
もう元へは戻れない。もう引き返せない。いけないと思いつつも求めてしまう。ヒロミさんは「愛に年齢差なんて関係ないわよ」って言ってたけど、常識的にはあると思っている自分がいる。
ミイからメールをもらった翌日、店のブログで卒業を公表したミイ。卒業日は旅行の約束をしている前の週の土曜日だ。一週間のうち一番混んでいる曜日に行くのはかなり面倒だ。第一にまったりできる時間が少ない。しかしラストナイトぐらいは盛況に終わらせてあげたい。そんな気持ちもある。
ボクはラストナイトのラストタイムに訪れることを決心した。この時間なら最終電車もなくなり、客は減るはずだ。しかもボクの腕からラストデーを送り出すことができる。ボクの手からボクの手へ。なんて素敵なことだろう。そのつもりをミイにはメールで連絡しておいた。
そしてミイが卒業すると宣言した、その夜がやってくる。
なぜかボクも落ち着きなくそわそわしている。こんな気持ちは初めてだ。今日は遅めの出動だ。しかし酒は控えておこう。
部屋を出たのは午後十一時。手には花屋で調達した花束を抱えている。女性に花束を贈るのは何年ぶりだろうか。別れた奥さんの誕生日には必ず贈っていたものだが、それも何年前のことかは忘れた。
やがて店の前に到着し、いつもの階段を上る。
いつものようにドアを開け、いつものように黒服ボーイにミイの指名を告げる。今日はラストタイムまでいることも告げた。そしていつものようにツーショットのシートへと案内される。そしていつものようにミイがやってくる。その姿を見るのも今夜が最後だ。
「ヒロさん、待ってたわ。最後の日に来てくれてありがとう。ちゃんと約束を守ってくれたのね。」
「最後の夜をボクが見送ってあげる。そしてボクのところへおいで。」
この夜はいつものようにくちづけのあいさつから始まった。そして彼女のヴァニラの香りを堪能する。
「店を辞めてもこの香りは続けるの?」
「そうねえ、ヒロさんが望むなら。」
ボクはミイの体を包んでいるこの匂いが思いのほか気に入っている。この匂いはボクの中ではミイ独特の匂いとなっている。
最初のセットでは、もう一人指名客がいた。しかし次のセットに入るともうボクの独占になっていた。ここからはラストタイムまでまったりできる事だろう。
「もう指名客いなくなったでしょ。やっぱりみんな電車で帰るんだね。」
「ヒロさんはどうするの?ここに泊まる?」
「まさかね。キミが着替えるまで待っててもいいよ。そしてどこかで一緒に祝杯でもあげるか。」
「だめよ。お店にはヒロさんとのことは内緒になってるんだから。それに、ヒロミさんに飲みに行こうって誘われてるし。」
「いい人だね、彼女は。」
ヒロミさんと言えば、最初のセットの時、ミイが呼ばれてからヘルプに来てくれていた。その時に、
「ミイちゃん、とうとう辞めちゃうんだって。ご執心だったのにねえ。今度は大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ。どうしてですか。」
「メグちゃんが辞めた後、ちょっとブルーになったでしょ。だから今回も、と思って。」
さすがに彼女もボクとミイとのことは知らない。だからあんまり平気な顔をするのも不自然かもしれない。
「また、新しい恋を探すだけですよ。でもさすがに五十ですからね。そろそろこのあたりが引き際なのかもしれませんねえ。」
「何言ってるの、まだ老け込むには早いわよ。それよりもミイちゃんが辞めることに関わってたりしてないでしょうね。」
冗談のつもりで言った一言だったろう。ボクは一瞬ドキッとしたが、素知らぬ顔で否定する。実際のところやめて欲しいとは言ったが、彼女が辞めることとなったホントの理由をボクは知らない。
「どうして辞めるんでしょうねえ。ヒロミさん、理由を聞いていますか。ボクはまだ聞いてないんですが。」
「ホントに知らないの?ヒロさんほど彼女に関わってたお客さん、他にいないように見えたんだけどな。」
と言ってボクの目の奥を探る。こういうところは女の人はいつも鋭い勘を持っていると感じさせる。
「いやだなあ。そんなにかんぐられちゃ。これから口説こうと思ってた矢先なんですからね。先を越されたって感じですよ。ヒロミさんからも忠告されてましたしね。」
と言ってごまかす。どこまでごまかせたかはわからないけれど。
ミイのラストタイムまであと一時間。
今ミイはボクの腕の中にいる。じっと黙ってうずくまっている。
「さっきね、ヒロミさんにミイが辞めることに関わってないかって問い詰められちゃった。知りませんよって言っておいたけどね。」
「そうね、直接は関係ないかもね。でもミイの予定より早く辞めることになったのはヒロさんの影響よ。なんだかこの店で働いてるのが後ろめたくて。いやでしょ恋人がキャバ嬢じゃ。」
少し蔭りがちの目線をボクに送る。
「ボクはこういう仕事にも理解はあるつもりだよ。でも正直言って嫉妬はするかな。だから、あれ以降は店に来なかったでしょ。やっぱりね、目の前で見せられるのは嫌だよ。」
「妬いてくれるの?うれしいわ。」
そう言ってボクの胸に顔をうずめてくる。
「お店で会うのは今日で最後だね。なんか感慨深いものがあるよ。」
「でもヒロさんは次の女の子を探すんでしょ。」
「ミイが恋人になってくれるんなら、そんな必要ないじゃない。ところで、ミイのホントの名前はなんていうの。お店を辞めたのに源氏名で呼ぶのは嫌だな、」
「ミイのホントの名前はアリサ。ミナミアリサよ。ヒロさんの上の名前は?」
「ボクの上の名前はイマイ。イマイヒロシがボクのフルネームだよ、アリサ。」
やっと二人はホントの名前を知る。ここからが始まりなんだなと思える瞬間だったかもしれない。ミイの由来は苗字のミナミイのミイだということもこの時に初めて知った。
今夜の主目的は、ラストタイムを見送ること。エッチなことをしに来たわけじゃない。抱擁とくちづけだけは求めたが、それ以上のことは求める必要もなかった。ただ迫りくる最後の瞬間を二人だけの空間の中で迎えたかった。それだけの時間だった。
それでもその時間が来るまではそんなに短く感じることはなかった。いつも通りまったりとした時間がボクたちを包むようにゆっくりと過ぎていく。
甘いヴァニラの香りとねっとりとした女神の舌先だけがいつも通りにボクを酔わせてくれた。ボクはこれから彼女と恋に落ちていくのである。
やがて幕引きの時間が迫る場内アナウンス。二人だけがわかっている最後の時間が訪れる。「ボクに残されているここでの時間はあと何分?」
「あと三分よ。ヒロシさん、ここで会ったミイのことは忘れてね。これからはアリサとしてちゃんと愛してね。」
願ってもない言葉である。もちろんボクは力の限りアリサを愛したいと思っている。そしてエンディングテーマが流れる頃、ミイは笑顔とともにボクの体を離した。
そして耳元でそっとささやく。
「今までありがとう、そしてこれからもよろしく。」
「またすぐ会える。その時が楽しみだよ。卒業おめでとう。」
そしてミイの『ブルーノート』のラストナイトは終わったのである。
あとはしっとりとした冷たい空気が今夜の月を撫でていた。
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