第7話 突風
八月もお盆の期間を挟んで三週間ぐらいは、ボクの仕事はとても暇になる。メディア対応している売れっ子のフリーライターではないので、企業向けの仕事は干上がる期間だ。
おかげでボクの創作時間は充分に満たされている。
ところがお盆の期間、『ブルーノート』は大盛況らしい。休みの間に溜まりに溜まった鬱憤を晴らしに行くおじさん諸君が家族の旅行に追随せずに、こういう店で納涼する。これが『ブルーノート』の毎年恒例の夏祭りだそうだ。
おかげでボクはお盆の期間は自室のパソコンに齧り付きで小説のセンテンスをたっぷりと叩き込んでいた。
そんなある日の朝早くのこと。ミイからメールが入る。
「今日はミイも朝からお休みです。ヒロさんさえよかったらゴハンを作りに行ってあげましょうか?」
飛んで火にいる夏の虫。いやいやそんなふざけた事を言ってはいけない。ボクは自ら狼であることを自称している。そんな男の家に、夏の薄着のまま来るというのだ。相当な覚悟が必要だったに違いない。いくらボクが「安全パイ」でもだ。
ボクには拒む理由もないし、願ってもないことなので、
「もちろん大歓迎だよ。何を用意しておけばいい?」とだけ返信した。
「ただ、待ってるだけでいいよ。でもどこかわかんないから、駅までは迎えに来てね。」
と返ってきた。
「G電鉄のJ駅だよ。着いたら電話してくれれば迎えに行くよ。駅から三分だから。」
と再返信する。
「オーケーOK!」とのこと。ホントに来るつもりだ。
どんなつもりで来てくれるのだろう。『ブルーノート』も休みかどうかまでは聞かなかったが。さっそくHPで調べてみると、今日のシフトには入っていない。何だかボクの方がドキドキしてしまう。
来るとわかったなら、さっそく部屋の掃除に取り掛かる。朝から大忙しだ。男やもめだからある程度は仕方がないが、エロ本だけは見つからないように隠しておこう。
そして八時半を過ぎた頃、ミイからのメールが入る。
「あと少しでJ駅に着くよ!」
またもやボクの小学生並みの心が跳躍する。喜び勇んで外へ飛び出す。
ボクの部屋から駅までは徒歩三分。駆け足で行ったので二分で着いてしまう。やがてミイが乗っているであろうと思われる電車が到着し、今か今かと改札口で待つ。
やがて、ミイが少しはにかんだ笑顔でボクと視線があう。
「おはよー。来ちゃった。」
ドキドキしている心音を聞かれないように心を落ち着かせて、ボクも笑顔で答える。
「よく来てくれたね。大歓迎だよ。さあ、おいで。」と手を伸ばす。
ニッコリ微笑んだミイがボクの差し伸べた手に応えるように手を伸ばす。
「ご飯を作ってくれるなんて嬉しいな。ボクは釜揚げうどんも大好きだよ。」
「意地悪ね。うどんじゃないわよ。でもそんなに難しいのはできないからガマンしてね。」
そう言ってボクとミイは手をつないだまま歩いていく。ボクの顔を見た時はニッコリしてくれるが、今日はいつもより無口だ。何かあったのかな。
部屋に到着して、まずはリビングで一息。
「今日はどういう風の吹き回し?やっとボクに抱かれる決心がついた?」
「ううん、そうじゃないの。今朝早く実家から電話があって、お祖母さんが亡くなったって。お通夜は今夜だから夕方の電車で実家に帰るんだけどそれまでミイを慰めてくれる人ってヒロさんしか思い出さなくて。お祖母さんが作ってくれたお味噌汁、美味しかったなと思って、それで・・・。」
そこまで言って堪えていた涙が一気にこぼれ出す。ボクは思わずぐっとミイを抱きしめていた。
「そう、それじゃ今から大変だね。ボクでよかったら時間が許すまで傍にいてあげるよ。」
と言うと、そっとミイの顔を引き寄せた。涙がこぼれる顔でミイはボクの顔をじっと見つめ返す。無意識のうちに二人は唇を重ねていた。
人の弱みに付けこむつもりはないが、その時はキスしたままミイがボクに体を預けてきたのだから、これはもう勢いというしかない。ベッドが傍にあるにもかかわらず、床に倒れ込んだ。そのまま深いくちづけの時間を越えて熱い抱擁の時間を迎えようとしていた。
夏なので薄手のシャツだけを羽織っていた二人は、軽くボタンを外しただけで上半身が露になる。ミイに目線を送って応答を待つ。彼女はそっと目を閉じて次の行動を促す仕草。
ボクは彼女を抱きかかえ、ベッドへと移動する。そしてもう一度ミイの唇に挨拶をする。
彼女の唇はいつもより濡れていた。やがて二人は生まれたままの姿となり、お互いの体を求め合う。弾力のある肌は今日もしなやかだった。
店では遠慮がちに調査していた洞窟も、今は無条件で濡れていた。ミイはボクの分身を手で確認すると、「お願い、優しくしてね」と潤んだ目でボクに訴えかける。
黙ってうなずき、ゆっくりと彼女の中へ入っていく。小さな声が漏れ、その声をふさぐようにボクは彼女の唇を奪いに行く。
胸元のヴァニラの香りは今日も神秘的だ。焦らずゆっくりとミイの匂いを確認し、ミイはボクの温もりを確かめる。
初めて大事な部分で感じる体温にボクたちは酔いしれながら痺れ始めていた。そしてお互いの存在と、お互いの気持ちが少しずつ近づいていることも感じていた。そのことを確認するかのように唇を求め合う。
そして小さな吐息が少しずつ、それでも遠慮がちな咆哮へと変わる頃、やがて二人は突然に訪れた逢瀬の幕引きを予感する。
「中で果ててはいけない。」そう思い腰を引こうとした。
すると、「今日はいいのよ。」と言ってボクの腰を諌めた。
ボクはミイの唇の中の女神に存分に挨拶を施した後、彼女の中で大団円を迎えたのであった。互いの温もりを再確認するかのように余韻を味わう二人。どちらからともなく唇を求めあい、互いの呼吸を弄んでいた。
「ゴメンよ。ミイの弱みに付け込むつもりはなかったんだ。ただ、キミが愛おしくて。」
「いいのよ。ミイが許したのよ。ミイもヒロさんに頼っちゃったから。」
もうしばらくは黙って抱き合う二人。ヴァニラの芳香だけが二人の逢瀬の理由を理解していた。そんな時間だった。
「ミイ、今日は何をしに来たの?」突然思い出したようにミイに問いかけた。現実の世界に引き戻すためのきっかけを作るために。
「そうだ、お味噌汁を作りに来たんだ。」
「ボクも手伝うよ。あんまりのんびりし過ぎてると電車に乗り遅れるよ。」
実際は、意外にも彼女の手際はよかった。米をすすぎ、炊飯器にセットする。出汁をとって油揚げと大根を刻む。白菜の浅漬けとネギに包丁を入れたら終了だ。
「簡単だけどこれでいいかしら。」
「朝ゴハンだもの。独り者のボクには贅沢過ぎる朝食だよ。」
ミイがニッコリ微笑みながらボクに話しかける。
「やっぱりヒロさんは優しいのね。」
「もう安全パイじゃなくなったけどね。」
「ううん、今でもヒロさんは安全パイよ。ミイが思ってる安全パイって、危なくない人って言う意味よ。優しい人っていうこと。」
二人はやわらかに漂う空気の中で、シンプルではあるが記念すべき朝食を食べた。お互いの温もりを想い出しながら。
外ではどこからか風鈴のなる音が聞こえていた。
「ご馳走様でした。ご飯もミイも。」
そう言ってミイにウインクを送る。
「後片付けはボクがするから、ミイは時間だけを気にしていればいいよ。」
「ありがとう。じゃあもう少しヒロさんの腕の中にいていい?」
「もちろんさ。そのために来てくれたんでしょ?」
そう言って座ったまま腕を広げる。ミイは黙ってボクのとなりに座り、ボクの腕の中に潜っていく。ときおり、お祖母さんの思い出話を口ずさみながら。
あとはヴァニラの香りとともに静寂の中へ・・・・・・。
やがて太陽が頂点から少し下りかけた頃。ミイは帰り支度を始める。
「駅まで送っていくよ。気をつけて帰るんだよ。」
「ありがとう。でも今日のことは忘れてね。」
「無理だね。忘れられないよ。でも誰にも言わない秘密にはなるけど。」
「帰ってきたらまた連絡するね。」
そう言って駅の改札の中へ消えていった。
今日もセミがやかましく交響曲を奏でる夏のことだった。
ボクの部屋はしばらくの間、ヴァニラの芳香に包まれることだろう。
しかし、その日の夕立は駅からボクの部屋までの間、ミイが歩いた痕跡を無常にも消し去ってしまった。まるで何もなかったかのように。
そしてボクもしばらくは静かな日常を過ごすのである。
あれから十日も経ったころだろうか。ミイからメールで連絡が入る。
「もう元通りの日常に戻っています。またお店に来てね。」
もう今となっては色々と知らぬフリもできない関係になってはいるかな。
「忘れてね」といったミイの言葉を鵜呑みにしてはいけない。そう思って、その日の夜は仕事を早めに切り上げて、ミイの様子を見に行くこととした。
いつもの街並みも少しずつ変わっているのか。影の形やネオンの色がなんとなく違って見える。今日のボクも何だか少しいつもと違う足取りで店に向かっている。
店のあるビルの階段だけはいつもと変わらぬ静けさだった。
受付のお兄さんにいつものように挨拶される。
「いらっしゃいませ。ご指名は。」
「ミイちゃんいますか。」
ちょっとは違うやり取りができないものかと考えるときもあるが、それほど重要なやりとりでもないかとも思ってしまう。
「いらっしゃい。」
目が合って少しはにかむミイ。
「この間のことは忘れてね。思い出しちゃ嫌よ。」
「何のことかな?ボクにはさっぱりわからないけど。」
と言ってウインクを送る。
「よかった。元気そうな顔を見られて。ずっと心配していたんだ。」
「ありがとう。やっぱりヒロさんは優しい人だった。ミイの人を見る目は間違ってなかったでしょ。」
「さてね、それはどうだろう。結局は優しい人になりきれなかったんじゃないかな。キミを傷つけちゃったんじゃないかと、ずっと反省してたよ。」
「ミイは傷ついてなんかないわ。だって、何にもなかったでしょ。ヒロさん、きっと夢を見ていたのよ。きっとそうよ。」
ミイが笑顔でいてくれてよかった。ボクも夢を見ていたのだろうと言い聞かせることにしよう。
「わかった。じゃあ、今日はどんな風に遊んでくれるんだい。」
「うふふ、いつもと同じよ。いつものようにミイの匂いを吸い尽くして。」
そう言ってボクの顔を首筋に案内してくれる。
いつものようにヴァニラの香りがボクの鼻腔から脳へと突き抜ける。忘れられない甘い出来事が想い出される。あのときもこれと同じ香りがしてたっけ。
「いつものように抱かせてね。」
そう言って衣装の中へ手をしのばせる。やわらかい膨らみを見つけたら、いつもと同じように石碑を弄ぶ。
ミイも覚えのある感覚に身を任せ、熱い吐息をボクに吹きかける。熱く甘い吐息を。
「夏休みは結局帰省で終わっちゃったね。ホントはどこかへヴァカンスの予定があったんじゃない?」
「ミイあんまり旅行とかしないの。だってどこに何があるかってあんまり知らないし、知らないところへ行くのも何だか気が引けるし。それに、一緒に行けるような友達もいないから。」
「一人で行くのが怖いなら、ボクが一緒に行ってあげるよ。どこに行ってみたい?」
もちろん冗談だが、誘うような口調で言ってみた。
「そういう話の方向に持っていくヒロさんの能力は素晴らしいわ。ところで、ヒロさんは夏休みどうしたの?」
「ボクには夏休みも冬休みもないよ。会社勤めじゃないからね。サボってしまえば年がら年中休みだよ。その代わりおまんまは喰えなくなるけどね。」
「うふふ、仕事はちゃんとしないとダメよ。じゃあ、今度の冬にどこか一緒に行ってあげましょうか。」
おいおい、そんなことしたら安全パイどころの話じゃないはずだ。
「本気で言ってる?おじさんをからかうんじゃない。その気にだけさせておいて、ドタキャンなんてやだよ。それにそんなことしたらお店にウンと叱られるぞ。ボクも一緒に叱られるんじゃない。」
悪戯っぽい目をしてボクを見据え、耳元でそっとささやく。
「急に臆病になるのね。どうしたの?最初に誘ったのはヒロさんよ。」
女はどんどん大胆になる生き物なのか。朝には「忘れてね」といった口が夜には「臆病ね」という。少し押され気味のボクが言うセリフの方がたどたどしい。
「本気なら大歓迎だけど旅行だよ、ついウッカリじゃないよ。ボクはキミの身の安全に対して責任は取れないからね。」
ミイはいつもの鋭い眼光できっと姿勢を正してボクにこう言い放った。
「身の安全ってなあに?他の人からミイを守ってくれればいいんじゃない。」
ボクは笑顔でこう答えるしかなかった。
「わかったよ。ボクはキミのために世界一のボディーガードになることを誓うよ。その代わりそれなりの報酬を要求するけどね。じゃあ手始めに冬休みの計画でも立てますか。」
まだ今は八月である。まだまだずっと先の遠い未来の話である。それまでにミイの気が変わることもあるさ。
「ミイもそろそろボク以外にもお馴染みのお客さんができたんじゃない。」
「ミイね、きっと何かが足りないのよね。ヒロさん、ミイのこと普通の女の子みたいって言ってたでしょ。たぶん、それじゃダメなのね。なんでだろう。」
なんとなく解るような気がする。当時のお気に入りだったメグにはないものがミイにもある。しかし、逆にメグにあってミイにないものがかなりあると感じている。気になっていたのは会話の積極性である。セクキャバなので、ちょっとエッチなことを目的にきている客なのだが、やはり一番大事なのは会話である。お互いに探りあい、話を合わせたりすかしたり、共通の話題や同じ興味を示す事柄をキャッチボールするのが会話であるが、ミイにはその積極性が足りない気がしている。
しかし、そのことはミイに限ったことではないと思う。ヘルプに来てくれた女の子で、メグほどの対話力のある女の子は多くない。最近の女の子は、おしゃべりは上手でも会話は難しいのかな。特にお客はおじさんが多いことも事実だしね。話を合わせるのが難しいのかもしれない。
クミちゃんという嬢がいる。彼女は一度見た客の顔は忘れないらしい。また彼女の会話力はメグと同等かそれ以上だ。ある程度の話題を振ってもほとんどの答えが返ってくる。正解かどうかは別として大きく的を外れない程度に。その事項を深く知っている必要はないけれど、少しばかりのことさえ知っていれば随分と答えの出し方も変わるものである。
また色んな趣味を持つことも大事なのかもしれない。どこでどんな人が引っかかるとも限らない。事実、ボクはメグの趣味趣向をかなりたくさん聞いた。ボクがついていけなかったのはスキューバの話だけだった。ボクがついていけないとわかると、その先にある話題に変換していった。こういう応用も必要なのだろう。こういったことは、キャバ嬢に限らず、一般社会人でもそのテクニックは必要なのかもしれないけどね。
それはさておき、今宵もミイとのエッチな遊びは宴たけなわである。しかし、時間も更けてくると宴会帰りの客が立て込んでくる。慌ただしいのと騒々しいのはボクの性に合わないので、今日はこのあたりで引き上げることとしよう。
頃合のいいところで場内コールがボクの時間が迫っていることを知らせてくれる。
「また来るよ。今度は旅行の計画を持ってね。」
「待ってるわ。楽しみにしてる。」
「ボクに残された時間はあと何分?」
「あと五分よ。」
残りの五分間、ボクはずっとヴァニラの香りに酔いしれた。あの時の事を思い出しながら。
ああ、分身を大人しくさせるのに今宵も苦労する。
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