第11話 二人の愛の巣

 学研都市アレフの北区には、学院生や教職員、研究員などの下宿する寮や、アパートなどが並び建っている。

 アレフ以外で生まれ育った生徒たちの大半が、北区で寮やアパートを借りて生活しているのだ。


(ただアパートはともかく、寮では男女分かれる事になるから、例え兄妹でも気軽に行き来する事もままならない……か)


 学院からの帰り道。

 ハルカは数週間前に思いを馳せる。

 ミツハから受けた説明が正しいのなら、寮生活は好ましくはなかった。

 転送塔があるのだから、実家から通う事も考えたハルカだったが……。


(それじゃあ、生活習慣がハードになるだけで何も変わらない……。寧ろ悪化するだけだもんね?)


 ならばと、ハルカは親に無理を言ってアパートを借りる事を選択した。当然カナタと同室にするようにした。

 一見寮の方が安上がりに思えるが、寮では自炊が出来ない分、余計な食費が発生してしまうのだ。具体的には朝食と夕食である。

 あえてアパートにする事で、自炊で生活費を抑えることが出来てお得になる。

 その話をすると、割とあっさり受け入れられたのであった。


(新婚生活の予行練習になるしね。ふふ、ふふふふ……、きひひひひ……)


 気分は新婚さんいらっしゃーい。

 二人にとっての愛の巣を獲得したハルカは、実に上機嫌であった。


「お二人は何処に住んでいるの?」

「北区のアパートだよ。流石に実家は遠いからね。転送塔もお金掛かるから、あんまり使いたくないしね」

「決して安い訳じゃないもんね。お母さんにも使うなって言われちゃった……」

「そうかしら? 高いの?」

「ふん……。これだから貴族は……っ」

「そんな苦虫を噛み砕いたように言わなくても……」


 悔しげに爪を噛むハルカは、ユリネに本気の睨みを効かせる。


「……カナタ君。ハルカさんは昔からこんななの?」

「ごめんユリネ。君の言い方もどうかと思うよ……」


 それからユリネと別れた二人は、食材の買い出しを済ませて帰宅した。


「「ただいま〜」」


 ……しーん。

 誰もいない、そりゃそうだ。


「なんだか、寂しいな」

「毎日騒がしかったもんね」


 いつもは両親がいて、一般の宿泊客が、ラウラやカッシュたち冒険者パーティなどなど、沢山の人たちに囲まれて育ったのだ。数日前まで当たり前にあった光景がなくなって、僅かな喪失感があるのは仕方ない。

 とはいえ、ハルカはカナタほど寂しい訳ではなく、寧ろ邪魔者が消えたことで浮き足立っている。

 カナタの籠絡作戦は、まだ始まってすらいないのたけど。


「さ、兄さん。明日から忙しくなりますから、今日は少し豪勢なお食事を準備しますからね! 楽しみに待っていて下さい♪」


 ハルカは宣言通り、お互いの入学祝いも兼ねた豪勢な食事を用意した。初日だけは、食費を浮かせようなどとは考えず、とにかく懐かしくて美味しいもの作った。


「タイの塩釜焼きか。うん、確かに縁起が良さそうなのチョイスしたね」

「入学祝いという事で、これくらいは当然です!」


 えっへん、と胸を張るハルカ。

 それをどこか微笑ましく見つめて、二人で少し豪華な夕食を食べる。


「美味しい……」

「本当ですか!?」

「うん。塩加減も絶妙で、すごく食べやすいように作られてるね」

「えへへ……。それほどでもありません♪」


 途端に破顔して、間の抜けただらしない表情でニヤつくハルカ。流石のカナタも、どう反応しようか悩んで末に、苦笑いを浮かべるのみに留めた。


「兄さん。はい、あーん♪」

「い、いや自分で……」

「ダァメェですよ?」

「いや……でも……」

「…………」

「あ、あー……ん」

「はーい、どうですか。兄さん?」

「ああ、美味しいよ……」


 無言の圧力に屈したカナタ。

 箸で食材を抱えたまま、笑顔で微動だにしない女の子を前に、誰が逆らえようか?

 その後も頻繁に、カナタは食事のお世話をさせられるようになった。


 その夜。

 背中を流そうと迫るハルカをなんとか押し退けて、一人お風呂で疲れを癒したカナタだったが……。


「どうして布団が一式しかないの!?」

「どうしてって……。もう、兄さんったら意外と鬼畜なんですね」

「あのハルカさん? 一体、今の会話の中でどうして鬼畜なんて言葉が出るのでしょうか?」

「だって兄さんったら、妹に恥ずかしい事を言わせようとするなんて……」

「恥じるような理由なの!?」


 羞恥に染めて頬に手を当て、体をくねくねと揺らすハルカ。あと五年後くらいなら色っぽかっただろうが、残念ながら、十歳の子供の体ではイマイチ色香が足りていない。


 実を言えば、ハルカの籠絡作戦には決定的な穴が隠されていた。ハルカが全く気付いていない落とし穴。


 カナタとハルカの二人は、元々は日本の高校に通うごく普通の少年少女だった。事故でこの世を去る際は、二人は肉体精神ともに十八歳となっていた。


 そして現在の二人は、肉体年齢が十歳で、精神年齢は当時と同じ十八歳。兄妹である以上は、ハルカを一人の女として認識すること事態がおかしい事なのだが……そこは一旦傍に置こう。


 もう一度確認するが、二人の肉体年齢は十歳で精神年齢は十八歳である。つまり、カナタが見た目十歳の少女に対して、恋愛的意味で好意を抱く筈がないのだ。

 カナタはロリコンではない。故に、同年代(肉体的に)の少女に対して、恋慕や欲情はしない。絶対……。


「あのね、ハルカ。ハルカはもう年頃の女の子なんだから、すぐにとは言わないけど兄離れを考え──」

「あ、無理ですね。それだけは絶対に不可能なので諦めてください兄さん♪」

「即答しないで!? もっと努力しようよ!」

「兄さん……」


 心底失望したような溜息を吐いたハルカは、ゆっくりと兄の目を見つめる。


「……例え話をしましょうか」

「なに、突然?」

「まぁ、まぁ聞いてください。兄さんは、この世に生きとし生けるものが、生きる上で最も大切なものは何だと思いますか?」


 なんか哲学的な話になった……。

 すぐに反応できずに沈黙するカナタを気にした様子もなく、ハルカはの独白は続く。


「私は思います。それ『空気』ではないかと」

「く、くう……き?」

「そう、空気。呼吸をしない生き物なんて存在しない……と、思います。まだ見ぬ生き物の中には、呼吸しない生き物もいるのかもしれません。けど、この世で呼吸なしで生きるのはほぼ不可能でしょう?」

「ま、まぁ……」


 地球上で呼吸なしで生きる生物は恐らくいない。陸に住む動物へ必ず呼吸するし、海底の生物もエラ呼吸を行う。植物だって、光合成だけで生きている訳ではなく、日の沈む時間帯では呼吸のみで生き延びている。

 発見されていないだけで、無呼吸で生きる生物がいるかもしれないが、いたとしても、ほんのひと握りに過ぎないだろう。


「生なき者に空気は不要。でも、私たちは現在進行で生きています。生を謳歌しています。なら、空気は何にも変えがたいものの筈ですよね?」

「……それと兄離れに何の因果が?」


 元々ハルカの独白は、兄離れを促して始まったものだ。何故だが壮大なことを語り聞かせたハルカではあるが、それと大元の件との関連性は皆無だ。誰がどう聞いても……。


「ここまで言っても分からないんですか?」

「そんな、心底哀れむような目を向けないでくれないかな?」

「分かりません?」

「分かるわけないじゃん」


 今日一番の溜息を吐いたハルカは、大人が子供を諭すような、優しげな声音で答える。


「つまり、私にとっての空気は兄さんなんですよ」

「いや、意味わからんし」

「ですから、兄さんは私にとっては空気と同等以上に大事成分」

「サプリメントじゃあるまいし……」

「なので、私から兄さんをなくせば……私、死にます」

「……怖いよ。そして重い……」


 転生して初めて、ハルカが抱える深淵の病みを垣間見た瞬間だった。


「さ、兄さんは歯を磨いてきてください。明日からは学院ですよ? 今晩はゆっくりお休みして、明日に備えましょう?」

「……別々の布団を敷く選択肢は?」

「あると……思いますぅ?」

「…………」


 妹、怖い。

 カナタは初日から、寮生活に憧れを抱く事になった。


 言われた通り歯磨きを終わらせ、恐る恐る布団に入るカナタを、待っていましたとばかり抱きついてくるハルカ。

 本当は別々で寝ようとしたカナタだったが、残念ながら、布団は本当に一式しかなくて、毛布も枕もない。床はフローリングで、そのまま横になったら背中や腰が痛む。


(そう、これは仕方ないんだ……。仕方なく、ハルカと一緒に寝るんだ。僕は何も悪いことはしてないし、邪な考えはないんだ)


 言い聞かせるような言い訳をする。

 今すぐ街へ行き、布団一式を買い揃えたい所だが、生憎今は夜。この時間帯でも開店している店など、飲み屋か娼館くらいだろう。そして、そこに布団は売っていない。


 ならば転送塔はどうだろう? ──否。

 従事している魔術師はいるだろうが、夜の転送料金は跳ね上がるのだ。布団が欲しいだけで、実家との往復で大金を使うのは愚行。それこそ愚者のやることだ。

 つまり──。


(今晩だけは我慢してこのままで……)


 選択肢などない。

 ハルカはそれを見越して、今日の夕飯を豪勢にしたのだ。転送塔を使用する可能性リスクを少しでも下げるため。

 一連の行動は、全て今夜この時のために仕組んだことだった。兄妹の初夜としては、まずまずの成果となろう。兄妹の範疇では。


 翌朝。

 カナタが起きた時、布団の中にハルカの姿はなかった。温もりだけは生々しく残っており、起床時間の差はあまりない事を告げているようだった。

 それを証明するように、台所からは芳ばしい匂いが漂っていた。


「あ、兄さんおはよう」

「ん……おはよう。……げ、やっぱりか」

「はい……。四時前です……」


 実家にいた頃から、四時前には起床していた二人は、今日も同じサイクルで目が覚めてしまったのだ。

 学院が開くのは七時頃。三時間以上もの時間が空いてしまったのだ。


「これ、なんとかしないとマズイですね」

「……そうだね」

「でも、今日のところはご飯にしましょう」


 おたまを手に持つ、フリル付きのエプロン姿のハルカは、余所見をやめて鍋に視線を戻す。


「もう少しでお味噌汁が完成しますからね、兄さん」


 元・日本人である二人のソウルフード。和食の準備は着々と進んでいた。

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