カーテン越しの体温

村山 夏月

 目が覚めた。

 何か起こりそうな日だ。

 何が起こるのだろう。

 いや何も起こらないかもしれない。

 しかし神がサイコロを振ったのか、奇跡が姿を現したのか、その日は何かが起きた。




「おはよー」そんな間延びした声が、家具の少ない部屋に響く。

 誰かが紺色のカーテンを退けて、窓を開けた。容赦なく入り込む冬の新鮮な空気。風に揺れるカーテンと綺麗に眉上で切り揃えられた前髪。ちょこんと見える眉毛は可愛らしかった。

「ねえ、粉砂糖みたいな雪だよ! 見て見て!」

 目を細めて笑うその人は僕を見て、僕にあたかもいつもの調子で話しかけた。

 その自然な姿とこの部屋に違和感を探してもどこにも見つからない。むしろ今まで欠けていたパズルのピースがはまった感覚に近い。

 そのくらい当たり前の光景が目の前に広がっていた。

「まだ寝ぼけてるの?早く起きなよー」

「お、おはよう……久しぶりだね」

 ぎこちない挨拶を交わした後、僕は壁に背中を預けて呆然ぼうぜんとしてしまった。

 今の状況をすんなりと受け入れるのは簡単だ。しかし重要な疑問点が1つだけある。

 今、窓を開けて普通に部屋にいる彼女は僕の恋人で、婚約者で、同居をしていた。でもそれは去年の夏で終わりを迎えたはずだった。

 理由は彼女が亡くなったからだ……。

 何故生きているのか。何故居るのか。その疑問は考えれば考えるほど膨張していき、破裂寸前で僕はさじを投げた。

 考え事で険しい顔をしていたのか、何かを察した彼女はベッドに上がり、目と鼻の先までい寄ってきた。

「何考えてるの?」

 その声により我に返った僕は何でもないよ、と伝え平然を取り戻すことにした。

 答えを濁した僕に不信感を抱いた彼女は唇を尖らせた。

 糾弾されないように慌てて目線をずらして、横目で様子を見る。やはり彼女はどんな表情をしていても可愛いらしかった。

 すると彼女はゆっくりと僕の顔をのぞくように首をかしげた。髪が肩にたゆんだ後、滑り落ちるようにさらさらと垂れる。よく彼女が使っていたシャンプーの香りが鼻をくすぐった。

 その匂いに惹かれるように顔を前に向き直すと彼女と目が合った。

 途端に胸の内が溶けそうなほど熱くなり、視界いっぱいに映る彼女の顔を見れば見るほど、その熱はじんわりと目の奥にまで伝わっていき、視界がぐにゃりと歪むと頬に雫が走った。

 急に泣き出した僕を心配そうに見つめながら彼女は濡れた頬に優しい手つきで触れる。暖かい朝日のような温もりがあった。

「どうしたの? 大丈夫だよ」

 そう言いながら彼女は目の下を親指でなぞるようにして涙を丁寧に拭ってくれた。

 僕がありがとう、と伝えて肩に手を置くと彼女は太ももの上にまたがるようにして座った。風船のような体重は懐かしく感じた。

 良好になった視界に彼女を入れる。

 まつ毛は長く黒目が若干ブラウンで綺麗な目元、桜色の薄い唇、くしゃっと顔全体で笑い、僕の真似をしてたら癖になった頬をつまみ引っ張る仕草。何処からどう見ても100%僕の恋人だ。

 僕は目を見開いて頭の上から爪の先まで確認した。

 そして慎重にまぶたを閉じて、際限のない暗闇の中で深呼吸を2回してから目を開く。

 一先ひとまず彼女は幻ではなかった。

 その事実だけで救われた。本気で安心をした。

 それに今だって可笑おかしな行動をする僕をいぶかしげな目で睨んでいる。

 なんだか懐かしくて自然と笑みが溢れた。

 すると忘れられない彼女を想う気持ちが沸々と込み上がる。心臓がもどかしく鼓動する。

 僕はその想いを口にする為に、出来る限り冷静に、いつもを再現するように、正面に向き合った。

「おかえりなさい」

 そう言って僕は彼女を抱きしめた。この人を二度と離さないよう強く抱きしめた。

 彼女な苦しそうな声が胸の中から聞こえた。

「ごめん、力を入れすぎた」

 腕を解いて、様子を伺う僕は申し訳ない気持ちになった。でも彼女はそんな僕を咎めずに微笑んだ。

「大丈夫だよ、ただもう少し優しい方がいいかな。こんな風に……」

 言い終わる前に軽やかな動作で背中に手が回り、すっと引き寄せられた。

 僕は感心しつつも戸惑とまどってしまった。

 簡単なことだからこそ、些細ささいな動作にも意味が宿る。彼女はいとも容易く僕への愛を表現した。それに比べて僕は不慣れで恥ずかしい。

 だから僕も彼女に倣うようにそっと髪を撫でながら抱きしめた。

「なぁ、もうどこにも行かないでくれないか?」

 次に口が開くまで時間が停止したのかと疑う空白があった。きっと絶望と希望の入り混じった空気感が一秒の密度を増して、僕に意地悪をしたのだろう。

 その時間を元に戻すように彼女がくしゃっと笑う。

 窓から差し込む真っ白な光が彼女を包み込む。光の加減によって絶妙な影を落としたその顔は何故か泣いてるように見えた。

 完全に気を取られたその時だ。

「ねぇ、デートしようよ」

 突拍子もない言葉が耳に飛び込んできた。答えをはぐらかされた気もするが、そんなことどうでもよくなった。

 きっと、今にもわかるような気がしたから。だから焦らずに自分を騙して、一緒に居る時間を大切にしようと思った。

「あぁ、何処に行こうか」

 和やかに笑う彼女につられて笑う僕。全てが終わったはずなのにまた始まる恋に心が躍る。

 可笑しな話だとわかっていても自分を騙して呼吸をする。

 きっと世界が退屈と孤独と絶望にもてあそばれた僕に夢を見させてくれたんだ。そういうことにしとこう。その方が利口だ。

 この世界の愚直ぐちょくな役者として演じる。そうすれば上手くいくとどこかで淡い確信を抱いた。

 その後、すぐに僕らは朝の身支度を済ませて9時を回る前に玄関の鍵を開けた。

 やけに眩しい朝だった。

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カーテン越しの体温 村山 夏月 @shiyuk_koi

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