Shot in the dark

Shot In The Dark



暗闇の中で、闇雲に放たれた弾丸はどこに向かって飛ぶのか。

それは、憎き者の眉間か、あるいは愛しき者の胸か。


 シャドウ中層部、研究施設エリアは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


 散乱するクリーチャーの死体と、けばけばしい極彩色の血。赤、紫、緑とペンキをぶちまけたように彩られた床や壁は、惨劇と呼ぶには華々しく、だが、それがかえってその場の異様さを際立たせていた。


 その中心で、その絵図を描き続けるのは、一人の少女。その手にしたカタナが振られるたびに、巨大な筆で、壁や床というキャンバスに、クリーチャーの体液という絵の具を叩きつけていく。


 それは、まさに狂乱する絵師のごとくだった。十数体のクリーチャーたちの真ん中で、己の慟哭を、怒りを、手にしたそれで体現するかのような、その様。


 紅く染まった瞳を煮えたぎらせ、セトミ=フリーダムはクリーチャーたちを切り伏せていく。目の前に立ちふさがる人型クリーチャーを一閃の元に両断すると、倒れいくその身体を蹴り飛ばす。


 それに巻き込まれる形で数体のクリーチャーが倒れこむのを視界の端に納めると、すぐさま跳躍――――倒れた数体をそのまま串刺しにする。


 その返り血を浴びながら、彼女は駆ける。周囲には、まだ十数体もの同型のクリーチャーがいる。その脇を駆け抜けるたび、その血の色は様々な色が混じりあい、濃く、黒く、紅く、混沌としていく。


「邪魔、邪魔、邪魔、邪魔ァッ!」


 苛立ちの声をあげながら、彼女はカタナを振り払う。それによって飛び散った血は、カタナを染めた返り血か、首を斬り飛ばしたクリーチャーが最期に咲かせた花であったか。


 もはやそれも分からぬほどに、セトミの心は修羅となっていた。


 だが、そのどこかで――――彼女自身が、狂乱する自分自身を、不思議と冷静に見つめていた。


 忘れたはずの、過去。捨て去ったはずの、記憶。それが、自分も知らない心の奥底に、こんなにも累々と横たわっていたなんて。


 あの男にとってみれば、自分をこうすることなんて、いともたやすいことだっただろう。水の底に、どす黒く、汚れたヘドロが溜まっていることを知っていれば、少しかき混ぜてやれば、水の中を真っ黒く染めることなんて、簡単なのだ。


 ただ周囲のものを慟哭に任せて斬り、斬り、斬り――――。


 やがて、セトミのまわりで動くものは、すでに死出の旅への準備を終えた、かすかな痙攣だけがこの世で為すこととなった、異形のものたち。


死に逝くそれらの描く、屍の紋様の真ん中で、セトミは強く、奥歯を噛む。


 ――――そう。あの時の両親の叫びは、間違っていなかった。


『――――化け物!』


 ――――そうだ。こんな怪物の巣窟で、怪物相手に、こんな地獄絵図を刻み込んでいる。自分は……なんて、化け物。


 不意に、ぱちぱちぱち、と、歯噛みする音を掻き消すように拍手の音が響く。込められるだけの殺意を込めてその音の主を見上げると、セトミはカタナを握る手に一層、力を込めた。


「いやあ、素晴らしい! さすがは私が丹精こめて作り上げた最高傑作です。そこらの凡庸な者どもでは、束になってもダンスのパートナーには役不足と見える」


「……ちょうどいいところに来てくれたわ。こいつら程度じゃ、この胸の疼きがね、収まりそうもないの。あんたも、この極彩の舞台で踊りましょうよ。こんなザコよりは、素敵なパートナーになってくれるでしょう?」


 普段の朗らかな彼女からは想像もできないような妖しさと、そのどこかに仄かな艶かしさをもって、セトミはまさしくチェシャ猫のように、壮絶に笑った。


「クフフフフ……。本来、私は戦闘については門外漢なのですが……主演女優のお誘いでは無下にはできませんね。私も、あなたのダンスをもっともっと、感じてみたかったのですよ。そう……あなたと同じ力をもってね」


 セトミの視線の先に現れたドクター・クレイトはその言葉とともに、懐から注射器を取り出す。そして一瞬のためらいもなく、彼はそれを己の胸につきたてた。その中に封入された毒々しい緑の液体が、その体内へと吸い込まれるようにして消える。


「うぐっ……おお、おおあああああ!」


 すぐに、その変貌は始まった。体格や肌の色からして、純血のヒューマンであるはずのクレイトの肉体が、まるで注入された液体に染められていくかのように、ヴィクティムのような緑の肌へと変わっていく。


 まさか、因子を自らに注射したのか。


「クッ……ハハハハハハ! たぎる! たぎるぞ! 身体の隅々まで、この力が! これが……これこそが! 我らの志す、人類の革新なのだ!」


 愉悦と、恍惚。狂気と、狂喜。それらすべてのないまぜになった、混沌とした瞳で、クレイトが笑う。


 その言葉に、その様子をひどく冷酷な目で見ていたセトミの表情に、一滴、怒りの色が落ちた。


「馬鹿じゃないの? 革新? 頭に虫でも湧いてんじゃない? こんなの革新でもなんでもない。ただ、化け物に成り果ててるだけなんだから。堕落の間違いでしょ?」


 カタナを右手一本で構えなおし、左手でアンセムを構える。セトミが戦闘体勢を取ったのを見て、クレイトも身構える。その手に武器らしきものはないが、あの変貌振りから見て、ヴィクティムの身体能力を有しているのだろう。


「おやおや、その素晴らしき力を持っているあなたがそんなことを言うだなんて、悲しいですよ。そんなつれないことを言わないで、ともに踊ろうではありませんか!」

 恍惚とした叫びとともに、クレイトが駆ける。やはりその速度は、人間のそれを遥かに凌駕している。


「ヒャオッ!」


 クレイトの振り下ろした右腕の五指が、鋭いメスのごとく空気を裂く。


 セトミは瞬きもせず、カタナの峰でそれを受ける。続けて左腕を突き出すクレイトの手刀を上体を反らしてかわしアンセムを撃つ。


 至近距離での射撃だというのに、クレイトは大きく跳びすさってかわした。その攻撃も重みがあったが、反射神経も並みのヴィクティムより優れている。それは彼自身の戦闘能力というよりは、注射した因子との適合率ゆえか。


 セトミは距離を詰めることはせず、そのままアンセムを乱射する。高出力のエネルギー場レットがクレイトの姿を追うが、それはことごとくかわされる。


「クフフフフフ、すばらしい! 弾丸が止まって見えるようですよ!」


 その動きから察するに、その言葉はまんざら大げさでもなさそうだ。射撃でダメージを与えることは難しいと読んだセトミは、しかしそのバレットをリロードする。


「フフフフフ、無駄! 無駄! 無駄です! 今の私にとって、銃弾などハエの飛来と同義! 回避などたやすいことです!」


 再び、クレイトが疾走する。身体が因子に適応してきたのか、そのスピードは先ほどのそれよりもわずかに速い。


 セトミは紅い瞳でその走る様を凝視する。あちらが視神経の強化が施されているなら、自分だってそれは同じだ。駆けるクレイトの足元を狙い、再びセトミはアンセムを撃つ。


「ですから、無駄だと――――」


 だが、それを避けようとクレイトが片足に重心をかけた瞬間、その機先を制してセトミが先に跳んだ。


「ああ、無駄だね、確かに」


 宙を舞いながら、アンセムを納め、セトミは両手でカタナを構える。一方、跳躍して弾丸をかわそうとしていたクレイトは、その己の動きを制止しきれず、セトミの迫るほうへと跳ぶ。


「あんたの、その動きがさァ!」


 その脇をすれ違いざまに、セトミのカタナが彼女の牙のごとく、その胴を薙いだ。


「ぐぶっ!」


 セトミの着地する背後で、クレイトが着地と同時に、大量の血を吐いた。


「……深く入った。決まりね」


 冷たく言い放ち振り返るセトミに、クレイトも背を向けたままで視線を合わせる。だが、口と腹から生命に関わるほどの出血をしながら、その血まみれの唇は笑みを作っている。


「……フ、フフフ。まだですよ。まだ、ね……」


 その笑みに、セトミの瞳が鋭くクレイトを見る。この男は、根拠もなく虚勢を張るタイプには思えない。とすると、まだなにか隠し球があるのかもしれない。


「では……今度は因子ジュースの効果を見てみることとしましょうか……」


 その手が、ゆっくりと白衣の中へと消える。やがてそこに現れた手に握られていたのは、ビンに詰められた、紫色の液体。それを止める間もなく、クレイトは一気に飲み干した。


 途端、その顔色が変わる。ヴィクティムのような緑へと変化していた肌の色が、身体の痙攣とともに、干からびた死体を思わせるくすんだ灰色へと変わっていく。


「うぐ、ぶっ……! が、がぐううああああぁぁッ!」

 それとともに、クレイトの身体自身が変化を始めた。身体が急激に膨張し、腹の傷を新たに生み出した己自身の肉で埋めていく。出血も止まり、いまやその色さえもべっとりとどす黒く、まるでコールタールのようだ。


 見上げれば、それはもはや人間でも、ヴィクティムでもない、まさに怪物がいるのみだった。急激な肉体の膨張は元の身体の構成を無視し、ただただ、更なる強力な身体を求めるあまりに、クレイトをただの巨大な肉塊へと変えていた。


「……これも、人間の革新だとか言うわけ? 鏡を見てから言ってほしいもんね」


 視線は鋭いまま、セトミは皮肉めいた言葉をぶつけるが、それに対して反応はない。どうやら、もう言葉を発することさえできないようだ。


 アンセムとカタナを納め、セトミはAOWを構える。装備がアサルトアタッチメントになっていることを確認し、セトミはフルオートでの射撃を試みた。


 だが、AOWから放たれたレーザーはわずかにクレイトの身体を焼くものの、それはすぐに修復されてしまう。さらに今の射撃でこちらの位置に気づいたか、突如現した触手を鞭のごとくしならせ、振り下ろしてきた。


「チッ!」


 舌打ちとともに、セトミは跳びすさってその攻撃をかわす。着地と同時に顔を上げ、クレイトだったそれをみると、今までただの肉の壁がそびえていたそこには、巨大な目と口、何本もの触手が形成されていた。


 とにかく、距離を保ちながら射撃での攻撃を続ける。あの触手に捕まりでもしたら、その後はどうされるのか、それは火を見るより明らかだ。


 だが、光学兵器での攻撃に対しては耐性があるのか、やはりその身体をわずかにこがすだけで、その傷もすぐさま修復されてしまう。これではまるで埒があかない。


「カタナならあるいは……? でもあれに近づくのは危険だし……」


 考えている間にも、クレイトの触手がセトミを捕らえようと、そのグロテスクな魔の手を伸ばす。その数も、長さも時間の経過とともに増加しているように思える。これも、因子が秒単位で肉体を変換していっていることの証明か。


「……ほんっと、胸糞悪いよね、あんたさァ……!」


 迫る幾本もの触手を、セトミはAOWの掃射で撃ち落としていく。その時とともに人間離れしていくクレイトの肉体が、嫌が応にも自分にも同じ因子があることを、言葉以上に饒舌に語りかけてくるようで、ひどく不快だった。


 こいつの身体を、欠片も残さずぶち壊してしまいたい。己が狂ってしまってもかまわない。とにかく、この不快な野郎を消し去りたい。


 そんな狂乱していく思いに呼応するかのように、その紅い瞳がその色を濃くしていくことに、セトミは気づかない。


 ただ目の前に迫るクレイトの触手を、ひたすらに撃ち落とすことに夢中だった。気がつけば、クレイトの触手の9割がたを撃ち落としていた。


 だが、それでもそれは早くも再生を始め、本体は傷一つついていない。


「このイカ野郎……うざったいたら……」


「セトミ=フリーダム!」


 歯噛みするセトミに、凛とした声が語りかける。背後からのその声に振り返ると、そこにいたのは、ハウリング・ウルフの副長だというあの黒服の女性……確か、ミザリィとかいったか。


「なに? 私は今、忙しいの。こいつだけでも邪魔くさくて仕方ないんだから、引っ込んでてくれる?」


「……愚かな。憎きものを目の当たりにして、因子の奔流に飲まれかけているのか。それではそのクリーチャーは倒せんぞ」


 諭すようなその口調に、今のセトミは冷静でいられる余裕がない。威嚇するように牙をむき出し、吼える。


「うるさい! 邪魔するなら、あんたから片付けようか!? ええ!?」


 だがその言葉に、ミザリィは首を横に振る。


「勘違いするな。私がここに来たのは、お前と戦うためではない。私も、そのクリーチャーには恨みがある。手を貸してやろうというのだ」


「あんたの手なんか……」


「どうかな? それだけ奴に弾丸を叩き込んで、本体には傷一つつけられていないではないか」


 あくまで冷静なミザリィの言葉に、セトミが言葉に詰まる。だがそれゆえに出てきた言葉は、己を貶めるかのような、吐き捨てるような言葉。


「うるさいって言ってんでしょ! 大体、化け物同士の戦いで、ニンゲンが何をできるっての!?」


「化け物……か」


 しかしセトミのその言葉に、ミザリィは静かに首を振る。その行為の真意は、セトミが化け物であることを否定したかったのか、それとも。


「……お前が化け物であるというのなら……。私も、同じだ」


 自身が人間であることを、否定したかったのか。


 ゆっくりと、ミザリィはいつもかけているサングラスを外す。その下に隠れていた青い瞳が、その視線が鋭くなっていくのに伴い、紅く収縮していく。そう、まるで……獲物を狙う猫のように。


「……あんた……あんたも、まさか……」

「言ったろう。私の二つ名は、『アサシンキャット』だと」


 その前頭部には、いつのまにか、セトミと同じ、猫の耳のような突起が顕現していた。


「……やつは光学兵器では傷つかん。だが、身体の内部を焼かれれば話は別だ。

私がこれでやつの体表に風穴を空ける。お前はその一点を狙ってAOWを撃て」


 そう言ってミザリィが取り出したのは、大口径実弾型の対物ライフルだった。


「……フン。足手まといには、ならないでよ」


「ああ、気をつけよう」


 それぞれの銃を構え、二人のハーフがもはやクリーチャーと化したクレイトに向き直る。

それを待っていたかのように、クレイトの触手が前よりも数を増やし、再生した。


「はっ! また炙ってほしいわけ? 殊勝な心がけじゃない。戦いの酒の肴にぴったりよ!」


 いつものそれよりも深く、重く紅いその瞳をぎらつかせ、セトミがAOWを連射する。その瞳が紅さを増していくに従い、その反応速度も、射撃の精度も上がっていく。


 AOWを撃ちつくすと、セトミは武器をアンセムとカタナに持ちかえた。同時に触手との距離を詰めると、左手のアンセムを連射、右手のカタナで触手をなますと切り刻む。


 決して、触手が鈍重なわけではない。むしろ、その動きは並みの人間の目には留まらぬほどの速度を誇る。それでも、暴走するかのようなセトミの前では猫に遊ばれるねずみに等しかった。


 切り裂け、切り裂け、きりさけ、キリサケ!


 撃て、撃て、撃て、うて、うて、ウチコロセ!


 それはクレイトが憎き故か、普段よりも因子の歯止めが効かなくなっている。だが、それを気に留めようとしない自分も、確かにそこにいた。

 気がつけば。


 あれほどセトミを捕らえようと増え続けていた触手は、無惨な肉の塊と成り果てて、ただ累々と地を埋め尽くしていた。


「……フン、お遊びにもならないじゃない?」


 地面を埋め尽くす肉片を蹴り飛ばし、壮絶な瞳で笑うセトミの目は、徐々にその紅さを強め、その色はもはやどす黒くさえなりつつあった。


「セトミ! 退避しろ! 本体を倒さぬ限り、触手はまた復活する!」


 遥か後ろで地面に伏せ、対物ライフルで狙いをつけるミザリィが、鋭く言う。


 セトミと同じく紅い瞳でクレイトを狙うその様は、まるで遠距離から獲物を狙う黒猫のごとく。確かに『アサシンキャット』の名は言いえて妙だった。


 そのミザリィの声に一つ舌を打つものの、セトミはおとなしく後ろへと下がり、AOWとアンセムのリロード行う。


 その間に、ミザリィが対物ライフルを発射した。続けざまに、一発、二発、三発。その紅い瞳で狙い済ました弾丸は再生された映像のように、まったく同じ箇所へ命中する。


 刹那、クレイトのぶよぶよとした身体が、電撃に撃たれたかのようにびくり、と動いた。重く硬いライフルの弾丸が、その軟体をぶち破り、炸裂したのだ。


「もらったァ!」


 勝利を確信したセトミが、AOWのフルオート掃射をクレイトの破れた肉壁へと叩き込む。今度は手ごたえがある。先ほど体表部分に行った射撃よりも、確実にダメージは通っている。セトミの表情に、会心の笑みが浮かんだ、そのときだった。


 不意に、視界が反転した。


「なっ―――――!?」


 突如、足に巻きついた何者かにバランスを崩され、彼女は転倒する。反射的につかまれた足を見ると、そこにあるのは、先ほど自分が斬りおとしたはずの触手だった。


「くっ、なに、これ……!」


 しかもそれは、いつのまにか本体と結合し、元通りの触手となっている。それはやがて数を増し、セトミのもう片方の足と、両手を瞬く間に絡め取った。


「この、くそっ……ふざけんな!」


 なんとかAOWを触手に向けようともがくが、その軟体動物のような身体は引こうが押そうが、伸縮して放す気配がない。


 やがて触手は、セトミをクレイト本体の目の前へ、まるで罪人を突き出すかのように引っ張り込んだ。


「ヤア……サイコウケッサク君。ゴキゲン、ハ、イカガカナ?」


 不意に、クレイトの元の顔の部分であったらしい数本の亀裂が、口のように動いて言葉を発した。


 その姿に、セトミが顔をしかめて答える。


「さっきから未知との遭遇ばっかりでね。とりあえず金輪際、イカは見たくもないわ」


「クククク、マダ、ヨユウガアルヨウダネ? ソノクライノ、ホウガ、コチラモ、ツゴウガイイ」


 顔らしい亀裂が、まるで笑みを漏らすように、ぐにゃりと歪む。その様子に、セトミの表情が険しく変わる。


「……なに、を……?」

「クフフフ、ハジメカラ、コチラハ、コウ、スルツモリ、ダッタノダ」


 クレイトの触手の一つが、突如として先端を鋭く針状に変化させる。その触手の色は……どす黒い、緑。問わずとも、それが何なのかは、嫌でも理解できてしまう。


「……っ、まさ、か……」


 ゆっくりと、その針が自分の腕へと近づいてくる。必死に手足をばたつかせて逃れようとするが、結果は先ほどとまったく変わらない。


 やがて、それが腕に触れた気配がした。セトミは思わず、目をつぶる。痛みはない。ただ、異物感が――――全身の神経を逆撫でするような異物感だけが、蟲のように体中を這いまわっている。


 間違いない――――注射されたのだ、ヴィクティム因子を。


「フフフフ、アトハ、ケッカヲゴロウジロ、デス」


 完全に因子を注射し終わったのか、クレイトはセトミを放り投げるようにして手放した。


 その身体がクレイトから離れ、床に転がる。


「ぐっ!」


 その痛みに思わず目を開けると、視界に入ったのは、うっ血したように紫色に変色し始めた、自分の右腕。それの意味するところを悟り、セトミは絶叫した。


「う……うああああぁぁぁぁぁ……っ!」


 ぎりぎりと右腕が音をたてて軋む。それに引っ張られるようにして、全身の骨格が関節を極められているように痛んだ。


 ――――このままじゃ――――。


 セトミの脳裏に、様々な言葉が駆け巡っていく。


 ――――本当に。本物の。


 その心に浮かぶのは、あの日の両親の表情。


 すぐに閉ざされた、ドア。

『――――化け物!』


 ――――化け物に。


 向けられた、冷たい銃口。

『――――化け物!』


 ――――なってしまう。


 やがて視界が白く閉ざされかけたその時――――誰かが、セトミの顔を覗き込んだ。逆光になっているせいで、その表情はうかがえない。


 ただわかったのは、脳裏に浮かんだ両親の表情よりも、よっぽど無表情なのに、なぜかそれは優しさをもっているのだと、見るものに思わせてしまうような、そんな奇妙な感覚を感じさせた。


「――――違う」


「……え?」


「おねえちゃん、化け物、違う」


 その声が聞こえて、やっとわかった。自分はなぜ、気がつかなかったのだろう。そもそも、自分はこの少女を守りたかったのではないか――――。


「……ミナ」


 ――――だが。


 セトミがミナに伸ばしかけた手を。その思いを、あざ笑うかのように。切り刻むように。ざくざくと、刃物を抉りこむような痛みが両目に走った。


「あ……あああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」


絶叫をあげながら、セトミは両目を押さえ、前のめりに肘をつく。


「おねえちゃん! お薬!」


 ミナの声にかろうじて顔を上げるが、その痛みに、まともに声は出ない。食いしばった歯の奥から、獣がうめくようにして、慟哭にも等しい声を出す。


「ミナ……ニゲ、て……もう……間に……」


 かろうじて意味のある言葉を紡ぐのがやっとなセトミと、ミナの取り出した因子抑制剤を目の当たりにしたクレイトが、げらげらと下卑た笑いを響かせた。


「クハハハハハ! イマサラ、ナニヲする気かとオモエバ! ソコマデ因子ノ侵食がススンデ、ソンナものが効くはずがナイデショウ!」


 だがそのクレイトの声に、今までにないほど、ミナは力強く、その幼い視線を返した。


「……やってみなくちゃ、わからない!」


 だめだ、逃げろと声を出そうとしても、もはやそれすらもセトミには叶わなかった。呼吸するたびに焼けるように肺が痛む。それに炙られるようにして、のどはがさがさに乾燥しきっていた。


「……な、ぜ……」


 なぜ、逃げないのか。それを意味する言葉のほんの必要最低限の一言だけが、やっとそののどから出た。

 そんなセトミをよそに、ミナは取り出した因子抑制剤のアンプルを、セトミの右腕に近づける。


「……おねえちゃん、ミナと似てるって言ってくれた。だから、ずっと守ってくれたって。だったら、ミナもおねえちゃん守る。何かのために、自分で決めて力を使うなら、ミナたち、兵器とも、化け物とも違う」


 いつになく饒舌なミナにあっけに取られているうちに、因子抑制剤が身体を巡り始めた。だが、腫れ上がったセトミの腕が元に戻る気配すらない。


「ホウラ、イッタトオリデショウ?」


 くすくすと笑い声を漏らすクレイトを無視し、ミナは腫れ上がったセトミの手を、ぐっと握った。祈るようにその手を額へとつけ、ただ――――セトミが元にもどるよう、祈った。


「……あ……?」


 刹那、じわりと。痛みに支配されていた身体に、かすかに暖かさが戻る。ミナが手にした右手を中心として、徐々に身体に伝わっていくそれは、まるで、ミナの体温のよう。


 つぶっていた目を恐る恐る、開く。右腕を始め、感覚の消え始めていた部分が、ミナのそれが伝わって行くと同時に、わずかずつながら、自分の身体の感覚を取り戻しつつあった。一部にいたっては、紫色の腫れが引き始めた箇所もある。


「……これ、は……どうして……?」


 なんとか身体を起こし、セトミは自分の身体を見る。全体的に見ても、腫れは徐々に引き始めていた。


 しかし理解できない。先ほどクレイトも言っていた通り、今さら因子抑制剤を打ったところで間に合うような状況ではなかったというのに。


「バ、バカナ!」


 そう考えたのは、当のクレイトも同じようだった。狼狽し、混乱する様はその触手があちこちに舞う様からも見て取れた。


「ハ……ソウカ! それがファースト・ワンにノミ許された力……因子の活動ヲ停止させる能力……!」


「因子の活動を……停止させる?」


 ぜえぜえと、まだひどく息は荒いが、なんとか上体を起こし、セトミが言う。頭がぼんやりとして、まだなにがどうなったのか、落ち着いて整理できない。ただ、身体をさいなんでいた痛みはそのほとんどが消えていた。


「……コレハ、少々ブガ悪い。セッカク、ココマデ進化サセタ身体を、ナカッタコトニサレテハ困る」


 言うが早いか、クレイトはその軟体のような身体を小さく収縮させていく。どうやら、その半分液体のような身体を利用して、排水溝から逃げようとしているようだ。


「待て、この……!」


 セトミがなんとか立ち上がろうとするが、やはりそれはまだ叶わない。再び倒れそうになるのを、あわててミナが支えた。


「おねえちゃん、まだ無理。少し、休む」


「フフフフ、ではまた次の舞踏会でお会いしましょう……」


 やがて、クレイトの姿は半液体のように、どろりと排水溝から、どこかへと流れ去った。


「……ミナ」


 それを見届けたセトミが、大きく息をつきながら、ミナを見た。その瞳の色は、あの紅ではなく、本来の彼女の、涼やかな青色だった。そこに浮かんだ笑顔とともに、まるでそれが本来の彼女であることを主張するように。

「……ばか。どうして来たのよ……」


 そういいながらも、彼女のその右手は優しくミナの頭を撫でている。ミナの、その手に撫でられ身を寄せる様は、まるで肩を寄せ合う、二匹の猫だった。


「……ミナ、おねえちゃんの紅い目見たとき、びっくりした。でもそれ、きっと、おねえちゃん、傷ついた。だから、ごめんなさいって、言いたかった」


 落ち込んだような顔で身を縮めるミナに、セトミは驚いてその顔を見返した。そんなことのために、この子は命がけでここまで来たのか。だとしたら、本当に謝らなければいけないのは……。


「おい、ミナ、無事か?」


 そこまで考えたとき、不意にショウの声が響いた。どうやら、ミナがデヴァイスをここまでもってきてくれたようだ。


「うん、無事。おねえちゃんも」


「よし、ミナ。デヴァイスをセトミに渡してくれ。それと、耳がやばいからちょっと離れてろ」


 早口で言うショウに、見えもしないのにミナが律儀にうなづき、デヴァイスをセトミに押し付けるように渡すとすばやくそこから離れた。


「……? なにやってん……」


「この!! バカ猫娘ェ!! いきなり暴走しやがって、無意味に心配かけんじゃねェ! この……バカ猫!!」


 デヴァイスから響いた、音波兵器かと勘違いしそうな大音量のショウの声に、セトミが耳を押さえて悶絶する。


「こっ、この……二回もバカ猫って……」


「おお、何回でも言ってやる。このバカ猫! バカ猫! バカバカ大バカ猫娘!」


「ムカっ! ちょっと、いくらなんでも言い過ぎじゃない!?」


 思わず怒鳴り返すセトミに、いまだ鼻息の荒いショウの声が返ってくる。


「何度言ったって言い過ぎなんてことがあるか! 俺のことはどうだっていいが、ミナのことを考えやがれ! ここに来るまでにえれぇ目に合ったんだぞ! 『どうしてきたの』じゃなくて、もっとほかに言うことがあんじゃねぇか? ん?」


「わっ、わかってる! 言おうとしたとこにドッグがしゃしゃり出てきたんでしょ! もう!」


 珍しく赤顔しながら怒鳴り返すセトミに、ミナが微笑む。


「……よかった。いつものおねえちゃんにもどった」


「……ミナ」


 その言葉に、セトミが再び微笑む。


「……ありがとう。ごめんね」


 そして再び、彼女はミナの頭を撫でた。


 だがその二人に、音もなく歩み寄る影があった。『アサシンキャット』――――ミザリィの姿だった。


「感動の再会を邪魔してすまないが、こちらも話に混ぜてもらってもいいか?」


 その鋭い瞳は、クレイトとの戦闘中とは違い、底の見えないような、漆黒の黒だ。そして、その後ろには。


「――――また会ったな、チェイサーキャット。まあ、その少女を連れている限り、相見えるは道理だが」

 その青年の姿に、ミナがぴくり、と反応した。


「……ロウガ」


 セトミがいまだふらつく足取りで、ミナを後ろに庇う。


「単刀直入に言わせてもらう。いい加減、決着をつけよう。俺たちは、その少女の力を必要としている。ヴェノムのヘッドにして、ヴィクティムを統率する総統――――アンタレスを倒すには、その娘の力が必要なのだ」


「ヴェノムのヘッドが……ヴィクティムの総統……?」


 セトミの疑問符に、ロウガが意外そうに眉を寄せる。


「知らなかったのか? ヴェノムのリーダーであるアンタレスこそ、この街――――エデンを治める、総統の座にいる男だ。やつはその娘を使い、ヴィクティム、ヒューマン双方の種としての進化……やつらの言う、人類の革新とやらを行おうとしている」


 人類の革新。先ほど戦った、ドクター・クレイトが言っていた言葉だ。あの男がこの事件に関わっているということは、この事件は、自分が因子を埋め込まれた事件とも関わりがあるのだろうか。


 となれば、人類の革新とは……人類すべてを、自分のようなハーフや、クレイトがなったような、化け物に変えてしまおうということなのだろうか。


「……あなたなら、わかるでしょう? その言葉の、意味するところが」


 セトミの心を、その黒き瞳で見透かしたかのように、ミザリィが言う。


「で……? あんたたちはなに? それじゃあ、その悪の計画を止める、正義の味方さん、とでも言うつもり?」


「……いや。これは、あくまで私怨だ。公共の正義など、俺には背負えん」


 そう言うロウガの静かな声からは、その『私怨』がどのようなものか、うかがい知ることはできない。だが、このような世界だ。誰が誰に、どんな恨みを持っていようと、不思議なことは何もない。


「……俺はアンタレスを殺し、ヴィクティムを滅ぼす。そのために、その娘を使わせてもらう」


「つまり、結局はミナを兵器として見ている……ってわけね」


「……そのとおりだ」


 言葉とともに、セトミの視線が鋭く、剣呑になるに連れ、それを受けるロウガの瞳も強い色を帯びる。


「俺たちは、この奥にあるヒューマンの軍事訓練所跡で待つ。そこで決着をつけよう。ここから先へ進み、アンタレスと戦うのは、俺たちか、貴様らか」


 その言葉を残し、ロウガとその腹心、ミザリィは、さらに先へと続くドアの向こうへと消えていった。





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