Like a dead man
Like A Dead Man
死の定義とはなにか。
肉体の活動停止か。
その後、皆に忘れ去られることか。
ならば、生きながら時の彼方に放り出され、忘れ去られたら、それもやはり死なのだろうか。
しばらくの、後。
ショウに処方された鎮痛剤と代謝促進剤が効いてきたか、セトミのダメージはかなり回復していた。
セトミの膝の上で、今、ミナは眠っている。どうやら、ここまで来るのにやはり疲れていたのだろう。静かに寝息を立てている少女が、先ほどヴィクティムと戦ったなどと、まるで夢にしか思えない。
静かにその髪を撫でながら、セトミは通信機のスイッチを入れる。
「……ドッグ」
「……ああ」
聞きたいことは、すでに理解しているらしい。だがその声色には、信じがたいという表情をした彼を容易に思い起こさせるほどに、疑問の色が満ちていた。
「『ファースト・ワン』……正確には、それは『ヴィクティム#1st』……第一の被害者、と呼ばれている」
「どういう意味?」
胡乱げなその声に、セトミが眉根を寄せる。あまり、いい予感はしない。
「そのままの意味さ。はるか昔――――人類で始めて、ヴィクティム因子の保有者となった人間……そういうことだ」
「……はぁ?」
そういうことだと言われても、間の抜けた疑問の声をあげることしかできない。人類にヴィクティム因子が確認されたのは百年以上前――――その時の人間が、生きているはずがない。
「言いたいことはわかる。だが、とりあえず聞いてくれ。こいつは、伝説みたいな話なんだ。俺だって、信じられねえよ」
通信機の向こうから、ぼりぼりと頭を掻く音が聞こえる。
「ファースト・ワン……それは、人類で最初にして最後の、完全な因子保有者と言われている。通常、ヴィクティム因子ってのは不完全でな。それゆえに、保有したものは怪物化しちまったり、ハーフになったりする。ヴィクティムの連中も、人間の遺伝子が完全に侵食されていないために、人型であることを保っている」
早口で、ショウは続ける。
「だが、ファースト・ワンは元の遺伝子とヴィクティム因子が完全に結合し、共存している。そのため、化け物にも、今で言う第二世代にもならない。そしてその身体は各所に戦うための能力を秘めている、と言われている」
身体の各所に、戦うための能力……先ほどセンチピードにミナが加えた一撃が、脳裏をよぎる。
「それに、もうひとつ。その身体にはヴィクティム因子の秘密が隠されており、ヴィクティム化した生物を元に戻す方法もそこからわかるのではないか、とな」
「ヴィクティムを、元通りに……」
にわかには信じがたい話だ。
「そしてそれは、コールドスリープをかけられて、どこかの研究施設で延々と眠り続けている……ってのが、俺が知っているファースト・ワンの話さ。どうだ? まるで古代の宝物の伝説だぜ。実在するなんて思っちゃいなかったが……」
そこで、ショウは言葉を切る。だが、と続くその言葉尻に、セトミも心の中で同意する。信じられない話ではあるが、どうにもそうでなくては説明のつかないことも多い。シャドウのロックを外せることに、右手が斧に変化したこと――――。
「とにかく、もしミナがファースト・ワンだとしたら、ヴェノムやハウリング・ウルフに狙われる理由は、大体の想像がつきそうだな」
「ろくなことには使いやしないだろう、ってこともね」
皮肉めいたセトミの言葉に、通信機の向こうでショウが同意する。
「だな。となると、やっぱミナをやつらには渡せない。……とりあえず、ミナが言っていた『一緒にいたお兄さん』とやらを探してみるか。人口冬眠中、ミナを守っていた人物だとしたら、何か分かるかも知れん」
「そうだね。でも……とりあえず、少し休むよ。ミナじゃないけど、ちょっと疲れたし。あいつにやられたダメージも、まだ少しあるしね」
言いながら、セトミは優しくミナを床に敷いた、マットの上に寝かせる。そしてAOWを手に、入ってきたドアの電子ロックをかける。センチピードが壁を破壊して入ってきた場所には、簡単なワイヤートラップを仕掛け、その先をAOWのトリガーに結びつけた。
寝ている間に襲われないようにするための、簡単なトラップだ。これで、ワイヤーに敵が足をかければ、AOWのトリガーが引かれる。
実に原始的なトラップだが、自分以外に頼れるものがいない状況では、有効だ。
「これで、よし……と」
セトミはつぶやくと、静かに寝息をたてるミナの側に横たわり、その髪を優しく撫でる。しばらくその寝顔を見つめた後、帽子をアイマスク代わりに、彼女も眠りの中へと落ちていった。
シャドウ、下層部。最奥部に続く、ゲートのある部屋。その場所を包む静寂を、激しく壊すものがあった。突然、部屋へと駆け込んできた、人影だ。
「……ボスッ! ボスぅッ! 目、目、あたしの、あたしの目がァ!」
その人影はぼたぼたと顔面から血を流し、暗く青く輝く、床の機械を赤く染めて行く。ミナの一撃で負傷し、逃走した、センチピードだった。
「ボス、ドクターを、ドクターを呼んでェッ!」
狂乱するセンチピードに、しかしボスと呼ばれた男は身じろぎ一つしない。ただ、静かに件のゲートを見つめているのみだ。
「クレイトなら、そこにいる」
不意に、うっそりと男が言う。それに答えるように、もう一人の男が薄明かりの元に静かに歩み寄った。
丸眼鏡をかけ、白衣を着た、穏やかそうな男。だが、大量に出血するセンチピードを見ても静かに微笑むその様は、どこかその笑みの裏に含んだ何かがあることを、言葉もなく語っていた。
「ああああ、ドクターッ! あたしの目、元に戻してェェェ!」
すがりつくセンチピードを、白衣の男――――クレイトは、両手で静かに制する。
「落ち着いてください、センチピード。大丈夫ですから」
穏やかな声で言うと、ドクター・クレイトは懐から注射器をとりだし、センチピードの腕に打つ。それは鎮静剤だったのか、狂乱していたセンチピードがドクター・クレイトに寄りかかるようにして倒れた。
「――――わかっているな、クレイト」
不意に、リーダーの男がゆっくりと振り返る。
「――――はい。アンタレス様」
ドクター・クレイトが、眼鏡の位置を正しながら、うなずく。床からの光に照らされ、反射する眼鏡は彼の目を覆い隠し、見通すことはできない。だが、その手の合間から除く口は――――ぐにゃりと、嫌らしく歪んでいた。
「我が隊に、戦えぬ者はいらぬ。足手まといは必要ないッ!」
アンタレスと呼ばれた男の重い声に、まだ意識を保っていたセンチピードの瞳が、恐怖に見開かれた。
「ひッ、たす、助け……」
「大丈夫ですよ、センチピード。あなたを死なせたりしませんから」
相変わらず穏やかに見えるドクター・クレイトの瞳が、くっ、と歪む。眼鏡の奥の、微笑んだような細い瞳が。それは、まさに獲物に牙を突き立てる寸前の、毒蛇のごとく。
「元通りに、なんて遠慮しないでください。前より、もっと……もっと、もっともっと、素敵な体にして差し上げますから……」
もはや声も出ないのか、窒息した魚のように口をぱくぱくさせるだけのセンチピードを、ドクター・クレイトはずるずると引きずって行く。
「さあ、オペの時間ですよ。安心なさい、目覚めたら、もうなにもかも、終わっていますから……」
やがてその姿は、部屋の外……この部屋の薄明かりさえ届かない闇の中へ、消えた。
その光景が目に入った瞬間、これは夢だと、わかった。
自分を照らす、まばゆいライト。傍らには、白衣を着た数人の大人たち。その表情はライトの光に阻まれ、うかがうことはできない。
この夢は、いつもこの光景から始まる。もう、その展開まで覚えてしまった。意識では嘆息しながらも、夢の中の幼い自分はその光景に戸惑い、怯えている。
幼い頃の自分が、嘆願するような表情で何かを叫ぶ。確か、おとうさんとか、おかあさんとか、ずいぶんと子供らしいことを叫んでいた気がする。
「大丈夫。怖くないよ。痛くもない。お母さんのところにも、すぐ帰れるからね」
自分を覗き込む、顔の見えない男が、その言葉と笑顔とは裏腹に、ひどく恐ろしかったのを覚えている。
「……適合候補者、#666。施術部位、視神経……。そうか、それを使うのか……」
もう一人、重い声がする。離れた位置から話しているのか、その姿は見えない。
「はい。この子ともう一人しか、今回は適合しそうな者がいなかったもので」
「……そうか。よし、始めろ」
幼い自分がいよいよもって大きな泣き声をあげるが、それも麻酔が効き始めるのとともにかすれていく。そしてまるで、臨終の時を迎えたかのように、その声が、途絶えた。
次の場面は、暗闇。ただ暗闇のみが、延々と続いている。まるでそれは、無間地獄へと続く、黄泉の路。
恐る恐る、幼い自分は走り出す。なにかに追い立てられるように。あるいは、大切な何かの元へ急ぐように。
だが闇は、暗く、どこまでも暗く。
終焉など、ないように思えた。
だが、自分はそこへとたどり着いた。いや――――たどり着いてしまった。いっそその暗闇から出てこなければ良かったのかもしれない。
そうすれば、未だ、幻想を抱いていられたかもしれない。
そんな風にも思ってみるが、やはり、所詮は幻想。幻を想っても、幻しか返してはくれないのだ。
まさに、この、夢のように。
夢の中の自分は、そこ――――幼い頃住んでいた家のドアへと、たどり着いていた。小さいけれど、暖かい、木目調のドア。父が作ったという、木で作られた、ちょっと頼りない家。
――――きっと、おかあさんもおとうさんも、ここにいる。わたしをしんぱいして、まっている――――
そんな安堵の表情とともに、幼い自分はドアを叩く。
それを、今の自分がひどく冷めた目で見ている。
そう、あの時と同じ、この瞳で。
かつての自分の声とノックの音に、家の中から男女の歓喜の声が響いた。ばたばたとあわてて駆け寄る足音とともに、たどたどしくドアが開き、そして――――。
唇を噛みしめ、視線を、落とす。あの時のあの表情は、もう見られない。
「――――ひッ……化け物!」
バタンと閉まる、ドアの音。がちゃがちゃとあわただしくかけられた施錠の音が、声の主の恐怖を残酷に知らしめていた。
――――化け物じゃないよ、わたしだよ!――――
必死だったのだろう。なんとか家に入りたいと覗き込んだ窓ガラスに、幼い頃の自分の姿が映った。
血のように赤い、人に在らざる瞳。猫のように収縮し、見るものを射抜くような鋭さを帯びた、その瞳。頭から生えた突起。
あの、白衣の大人たちにされた『しゅじゅつ』というやつ以来、見ていなかった、自分の姿。
――――ただ、呆然と。自分の姿を凝視した。
その姿の映る窓が、開かれた。その先には、もう顔も思い出せない、ただ、優しくはあったはずの、父の姿。
「この家から離れろ! 化け物!」
入れてもらえると一瞬期待したその視線を、その声と、冷たい鉄の塊が切り裂いた。
――――銃。
――――おとうさん、ばけものじゃないよ! そんなものむけないで!――――
だが、その懇願に答えたのは、ひどく乾いた発砲音。
弾丸が頬をかすめ、自分は反射的に駆け出した。さも、追い立てられるノラ猫のように。
――――そう、あれから私は、ずっとノラ猫だ――――
気がつけば、すぐそこにミナの顔があった。
「……おはよう」
「んん……おはよう」
ひどく場違いな気もするが、珍しくミナから話しかけてきたので、素直に返す。
「おねえちゃん……うなされてた」
「ん……昔の夢を、ちょっとね」
自嘲めいた笑みを浮かべ、セトミは言う。あの夢もしばらく見なかったが、どうも、ミナを見て、昔の自分を無意識に思い出していたようだ。
――――長い年月の間に、どこかに置き忘れてきたと思っていたが、どうやら、記憶というやつは猫以上に奇襲が得意らしい。
「……だいじょうぶ?」
心配そうな瞳でこちらを覗き込むミナに、セトミはいつも通りの笑顔を返して見せる。
「だいじょぶだいじょぶ、ノープロブレム。さて、そろそろ動いたほうがよさそうね」
言いながら、セトミは通信機のスイッチを入れる。
「こちらキャット。ドッグ、そろそろ動くわ」
「あいよ。とりあえず、どうする?」
「ここよりさらに深部へ向かうわ。ミナがファースト・ワンなら、こんな浅い階層で管理されてたってことはないでしょ」
早口で言うセトミに、通信機の向こうでうなずく気配がする。
「確かにな。そんな深さじゃ、とっくにどっかのチェイサーに見つけられちまってるだろうな」
「ただ……その前に一つ、気になってることがあんのよね」
帽子の上から頭を掻きながら、胡乱げな瞳でセトミが言う。
「今回のこの事件……こっちの動きが向こうに読まれすぎじゃない? 入った途端にクリーチャーの襲撃、逃げ込んだ先には待ち伏せ。次に向かったエリアじゃすでに罠が張られてて、向こうはすでに取引の用意ができてる。できすぎてない?」
その言葉に、通信機の向こうでショウが渋面を作った。
「言われてみりゃそうだ。罠を張っていた勢力は恐らく、ハウリング・ウルフだろうが、それを差し置いてもヴェノムの連中には完全に先手を打たれてるな」
そもそも、シャドウを大戦の基地跡と一言で言っても、その現状は蟻の巣もかくやというほど、複雑で広大だ。戦後の混乱期、今よりも各地の勢力争いが激しかった頃、地下での戦闘も幾度となく行われた。
むろん、基地やその他の施設はその度に覇権が移る。結果、脱出のために新たな通路が作られたり、逆に攻め込むための穴が掘られたりと、その全容を歪めていった。
そして、この混沌たる地下が出来上がったのだ。
そんな場所で、同じ組織の人間に偶然、すぐに出会うなどという可能性はかなり低い。
「……もしや、盗聴器が仕掛けられてるんじゃないか? 俺かお前のどちらかに」
「盗聴器ねえ……」
ショウの発言に、セトミは考え込む。もし仮に、ヴェノムに情報が漏れているのだとすれば、この会話が聞かれている可能性が高い。
だが、盗聴器を仕掛けるとなれば、セトミかショウのどちらかに接触する必要があるはずだ。そんなことができそうな人物がいるだろうか?
その考えを伝えると、ショウは腕組みしながら言う。
「俺たちに直接、関わった人間じゃなくてもいいと思うぜ。いつも通り、俺はアリサのバーの二階から通信してるわけだが、ここを知っていれば、部屋に盗聴器をしかけりゃいいことだ」
「……ちょ、それって……」
アリサが情報を流している、と言いたいのだろうか。ショウの真意をつかみかね、セトミは思わず眉根を寄せる。
「まあ待て。俺だって、あいつがそんなことするだなんて思ってねえさ。ただ、ちょっとおかしな点がな。いつもなら、無事かどうか気にしてちょくちょく様子を見に来る彼女が、今日にかぎっちゃ、朝以来、姿を見せない」
「……偶然、でしょ」
「それだけじゃない。いつの間にか、彼女の光学バイクが消えていた。一部とはいえ、街を革命軍が占拠してるって時に、なにをしにでかけてるってんだ?」
ショウの言葉に、セトミが渋面を作る。確かに、普通に考えればそんなときに外出はしないだろう。
だが、アリサが自分たちを売るような真似をするとは、セトミにはどうもしっくりこなかった。こんな世の中だ、騙した騙されたなど吐いて捨てるほどある話ではあるが、どうにも彼女とそれが結びつかない。
「まあ、証拠もなにもあったもんじゃない。そんなこともあるかもしれない……てことさ。とりあえず、俺は部屋になにか仕掛けられてない調べてみる。誰かが侵入してきて盗聴器を仕掛けた、何てことも、無きにしも非ずだからな」
「……わかった。こっちはとにかく、深部を目指して進んでみる。どっちにしたって、ここにずっと隠れてるわけにも行かないしね」
「……………」
通信を切ると、ミナが不安げに、セトミを見上げていた。会話の内容は理解しているのかいないのか定かではないが、なにかしら良くない内容なのはわかったのだろう。
セトミはミナを安心させるように、優しくその頭を撫でた。まるで、親猫が子猫を舐めてやるように。
アリサ・ディーヴァは、バザーにいた。そんな雑踏にそぐわぬ姿で、人の波の中を歩いて行く。まるであつらえたような、ゴシックなドレス姿。普段の、バーで働いている時のエプロン姿とは、違う空気をまとって。
しかし、その表情は普段の彼女と同じく、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
周囲の、急いで自宅へ帰ろうとする人々とは、まるで違う人種であるかのように、その姿は場にそぐわぬものだが、皆が慌てふためく中では、誰も彼女のことを気に留めるものはいない。
――――みんな、自分の家族の元へ急いでいるのでしょうね。……あるいは、財産の元へ。
アリサは、心の中でつぶやくと、くすりと、かすかに笑みを漏らす。
ならば、自分も同じだ。なにも、異質なことはない。人間は、なにか大切なものを失った時、そのなにかのために泣くのではなく、それを失った自分がかわいそうで泣くのだという。だから、そうならないために、皆、家路を急いでいるのだろう。
「……まったく、滑稽なことです。こんな世界、いつ何時、大切なものなど消え去るかわからないのに。誰もが、自分はそうはならないと思い込んでいる」
不意に、アリサの笑みが変わった。ドレスと合わせた、縁の広い帽子に紛れて、その目元はうかがえないが、その口元は、ぎらりと、歯をむき出し獣めいた、醜悪な笑み。
だが、街で起きた占拠事件に、慌てふためく人々は、誰もそれに気がつかない。
こんな自分をさらけ出していいのは、久しぶりだ。非常に気持ちがいい。内に秘めた野性を抑える必要がないというのは、これほどにも気分がいいものだったか。
無意識に、その手が懐へと伸びる。指先に触れる鋼鉄の感触が、ぞくぞくとその心をざわめかせる。
早くトリガーを引きたい。もっともっと、己の内に秘めていた、悪魔のような魂を、解き放ってしまいたい。
その欲望を押さえ込むことに必死で、彼女は気づかない。己を、鋭く見つめる視線があることに。
「あやつ――――確か、あの小娘が世話になっているという、バーの……」
それは、バザーでセトミがいつも銃のカスタムを任せている、ゲンじいだった。
「……たかがバーの娘にしては、ずいぶんと豪奢な姿をしていることじゃの。それに……あの笑み、どちらかといえば、わしらのような、裏道のものに見える」
ゆっくりと、彼はアリサの後を追う。
アリサは、それに気づかず、迷いのない足取りでバックストリートへと入って行く。
その表情は、相変わらず醜悪な笑みが、張り付いたように離れない。
早く、早く、早く早く早く早く。
刹那、その目が、生贄を見つけた悪魔のごとく、動いた。獰猛な猛禽もかくやというすばやさで、革手袋をはめたその手が、それの首をつかみあげた。
チェイサーと思しき、ハンドガンとライフルで武装した、目つきの悪い男。
「――――お久しぶりです」
張り付いた笑みを隠そうともせず、アリサが普段より幾分か低い声で言う。
男は驚愕したように目を見開くが、アリサのもう片方の手が人差し指を立て、『声を出すな』というジェスチャーをしているのを見ると、上げかけた悲鳴を飲み込んだ。
「……いい子です。さて、今日来たのは、他でもありません。久方ぶりに、パーティがありそうですのでね。その招待状を届けに来たのですよ」
眼前に掲げていたアリサの手が、ゆっくりと懐へと消える。
そして、静かに男の目の前に突き出されたそれは、片手で扱える、ガンマレイ出力の小型のサブマシンガン。その手の銃の中では圧倒的に高出力で、敵を倒すことより、ただただ、すべてを破壊するためにあるようなことから『カラミティ』――――疫病神、と呼ばれる銃だった。
ぬるり、と、アリサの舌がその唇を湿らせる。
「お受け取り、頂けますよね?」
その仕草とまるで裏腹な、上品な口調で言う彼女に、かくかくと男はうなずいた。
「――――ありがとうございます。ぜひ、お友達もお誘い合わせのうえ、お越しくださいませね」
男をつかみあげていた手を、不意にアリサは離す。どさりと、男が脱力した様子でしりもちをついた。
「あの銃……まさか、あの娘は――――」
思わずつぶやいたゲンじいの声に、気づいたのかアリサが猛禽のごときその瞳で振り向き、射抜く。反射的に物陰に隠れていなければ、ゲンじいはその視線に貫かれていたことだろう。
「……気のせい、でしたか。もしもその手のものならば、この場で八つ裂き、血祭りの主役として差し上げましたのに」
くすくすくす、と、アリサは隠し切れぬように、牙をむいて笑みを漏らす。
「――――知らせなければ。まさか、あやつが……」
そのかすかな笑い声に突き動かされるように、ゲンじいはその場を忍び足で離れた。
同時刻、シャドウ中層部。
ミザリィという女性は、セトミらよりもより深い階層へと達していた。そこは、大戦時、この都市のヒューマン側の勢力の中枢となった区画――――基地エリア。
これまでの上層階のような、いわば普通の生活圏だったエリアとは違い、光学エネルギーの発生装置が生きているのか、その視界は明るい。
そこは、基地内では正面入り口に当たる場所――――ホールのような場所だった。大戦時は、恐らくここから兵士たちが出発していったのだろう。だが今は、幾たびも戦いの場になったためか、土嚢や遮蔽物が乱雑に設置され、当時をしのぶ面影はない。
もっとも、そのような感慨にふける暇はなさそうだが。
ミザリィは、その土嚢の影からのっそりと姿を現したそれを、色のない表情で見つめる。毛げから現れたそれは、2メートル以上はあろうかという体躯を引きずるようにして、歩く。前身がぬるりとしたい光沢のある粘膜に覆われた、大型の人型クリーチャー。
その武器は、引きずって歩くほど長い、腕。全身がぶよぶよとした脂肪の塊のようなこのクリーチャーは、その伸縮自在の腕を鞭のように操り、攻撃する。
さらに厄介なことに、このクリーチャーの口は、その手のひらにある。つまりは、つかまれただけで、哀れなその生物は、ただの餌へと成り果てる。その手のひらから、『ファングハンド』と呼ばれていた。
だが、その危険なクリーチャーが三体、その姿を現しても、その黒い女性は表情一つ変えなかった。ただ、静かに己の得物である大型の二振りのナイフを逆手に構える。
その姿は、セトミに名乗った二つ名――――『アサシンキャット』を、言いえて妙、と納得させるものがあった。
知能を持たないクリーチャーは、身構えただけの獲物に対し、特に脅威を感じないのか、それぞれのっそりと近づいていく。
後わずかで手を伸ばせば獲物が手に入る喜びの声か、その手の醜悪な口が低く、唸り声を上げた。
だが。
クリーチャーが手を伸ばそうかという瞬間。ミザリィの、サングラスの下の漆黒の瞳が、わずかに揺らいだ。
次の瞬間。
その姿が、消えた。比喩ではなく、まるで、瞬間的にこの世から消え去ってしまったかのように、痕跡すら残さず。
クリーチャーが、困惑に唸る。しかし、その一瞬の後には、その声は絶叫へと変わっていた。
三体のクリーチャーのすべての腕――――彼らにとって最大の武器であるはずのそれが、その一瞬にして、斬りおとされていた。
「……悪いわね。あなたたちは、ただここで生きていただけなのに」
不意に、声が響く。クリーチャーたちの背後――――先ほどまで立っていたはずの場所から遥かに離れ、ミザリィが立っていた。
その手に握ったナイフが、クリーチャーの黒い血でねっとりと濡れている。それはまさにアサシンの業――――暗殺者の、一瞬での、必殺の一撃だった。これが、彼女が『アサシンキャット』たる所以であろうか。
だが、倒れ伏し、かすかに人間の面影を残すクリーチャーの最後のうめきに、ほんのわずかに瞳を曇らせるその様は、冷徹の一言で片付けるには、どこか躊躇させるものがあった。
「せめて地獄で、存分に私を呪うといい。だが、それでも、私はまだ死ぬわけにはいかない」
かすかに感情の揺れを含んだ弔いの言葉とともに、ミザリィはナイフを納める。その瞬間、クリーチャーが傷口から大量に出血し、息絶える。
その様を確認し、彼女は通信機のスイッチを入れる。数回のコール音の後、低い、男の声が応答した。
「……ミザリィか」
「はい、ロウガ様。中層部、正面ゲートまで制圧に成功いたしました。地上部隊が制圧した、基地直送昇降機より、こちらにお越しいただけます」
その事務的な口調に、通信機の向こうの男――――ロウガも、うっそりと答える。
「ご苦労。俺もそちらへ向かう。ところで、あれが目覚めたようだな」
「はい。ヴェノム所属、センチピードとの戦闘中に、激昂したことが引き金となったようです」
「――――そうか。目覚める前に、こちらで保護することは、適わなかったか」
答えるその声は、叱責するようでも、悔恨を含んでいるようでもなかった。むしろ、そこにあるのは、憐憫。
「……申し訳ありません」
「いや……俺はいい。だが、お前が……」
そこで、ロウガが言葉を止める。彼にしては珍しく、躊躇しているような、言葉を選んでいるような――――そんな、気配。
「いえ……徹し切れなかった、私の失態です。覚悟は、できております」
「――――わかった。俺もすぐ、そちらへ向かう」
通信を切り、ミザリィは静かに、一つ息をつく。そして、ゆっくりと――――そのサングラスを外した。
これまで感情を映さなかった彼女のその瞳が、明らかに、愁いに染まった。
「……アルペジア……」
だがそれも一瞬で、ミザリィは、その心持ちを振り切るかのように、再びサングラスで覆い隠した。
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