The unholy war begins
The Unholy War Begins
誰が不浄なるものか? 誰もがそうであり、そうではない。
エデンの各所に、シャドウの入り口はある。それはかつて、地下鉄や地下道のの入り口だったり、下水施設の入り口だったりしたものだ。
主な入り口は、張り巡らされた地下鉄の入り口。だがその多くは大戦時の崩落により大部分が埋没しており、今はほんの数箇所しか地上に露出している場所はない。
その入り口の、もっとも多人数が通れる大きな入り口――――そこに、ハウリング・ウルフのリーダーである青年と、それに従ずる者たちはいた。
エデンの中でも比較的、破壊の少なかった道路を、車やバイクで封鎖し、ガンマ・レイで武装した、数百人規模の集団。防弾ベストや防刃レザーと装備はばらばらだが、その様がかえって、反乱軍という彼らの肩書きを物語っているようにも思える。
その集団の先頭に、彼はいた。
ハウリング・ウルフ、リーダー、ロウガ。防弾ベストと毛皮のアーマーに身を包み、灰色の長髪をたなびかせる姿は、『吼える狼』を意味する集団をまさに象徴する存在といえた。
「……ロウガ様」
その傍らに、一人の女性が歩み寄る。夜の闇のように真っ黒な防刃コートに、黒のスカートとタイツ。黒いレザーブーツを履いた、女性。その姿は、ボブカットに整えられた髪まで、全身が黒一色だ。顔でさえもサングラスで覆い、黒以外の色素は顔の露出している部分しかない。
「シャドウへの、すべての入り口を占拠することに、成功いたしました」
その声は、静かでありながら、どこか聞くものの心をざわつかせる――――例えるなら、幽鬼のような、どこか不穏な空気を纏っていた。
「……そうか。ご苦労、ミザリィ」
うっそりと、ロウガが言う。その女性――――ミザリィを見る目は、どこか彼が他の者を見る目とは違い、かすかに憐憫のようなものを含んでいた。
「例の鍵はどうしている? 『ヴェノム』の者との交戦中という報告があったが」
「未だチェイサーキャットの手の内にあるようです。『ヴェノム』のブルースの死亡も確認した、と」
「……そうか」
淡々と報告するミザリィに、ロウガはまゆ一つ動かさない。その表情は、大方、予想通りであったということを、その言葉以上に語っていた。
「ミザリィ、先行して鍵を奪還せよ。切り札の使用法を知らぬ者が、己が手の内にあるものに気づく前に取り返すのだ。さすればお前も――――苦しい戦いをせずとも済む」
ロウガの言葉に、ミザリィが一瞬だけ、かすかに険しい表情を作った。だが、読み取れるのはそこまでだ。そのサングラスの下に隠れた瞳に映ったのが、驚きか、怒りか、あるいは――――安堵か。
それは、ロウガの眼力を以ってしても、見抜くことはできなかった。
「――――了解しました。チェイサーキャットと接触、その後、鍵を奪還いたします」
抑揚の薄い声で言い放つと、ミザリィは踵を返す。入り口を封鎖している兵と二言三言、言葉を交わすと、彼女は足早にシャドウの中へと消えた。
「……復讐心とは、まこと恐ろしきものよ。はじめはかすかなその黒い炎は、やがて大きなうねりとなって、その者を包み込む。そして――――その姿を、あそこまで変えてしまう」
一人ごちるロウガの言葉の端々にあるのは、ミザリィに対する憐憫と、そんな気持ちを抱く己に対する、皮肉。
「……俺も、お前と同じなのだ……」
セトミとミナツキは、神殿エリアを抜け、新たなエリアへと足を踏み入れていた。
狭い廊下に、立ち並ぶ個室。その、決して大きくはない一部屋一部屋に、さび付いた簡素な二段ベッドがいくつか置かれている。そのような部屋が多く密集していることや、非常食の残骸やそれを納める倉庫などが存在していることから、大戦時の避難所と考えられていた。
「で? そっちは何とやりあってたんだって?」
デヴァイスから、ショウの声が響く。
「ブルースとかいう、イカレ野郎よ。なんだか知らないけど、私を殺してミナを連れて行くのが目的だって言ってた」
アサルトスタイルにカスタムしたAOWを油断なく構えながら、セトミが答える。
「ブルース……もしかして、ハウリング・ウルフのやつだったってことはないか? たしか、リーダーのロウガってのも、ミナを追ってたんだろ? それで、取り返しに来たのかも」
「あー、それはないね」
しばらく考え込んでいた様子のショウの言葉を、セトミがざっくりと両断する。
「なぜだ?」
「そのイカレ野郎、ヴィクティムだったから。自称高等種族様が、反ヴィクティムの反乱軍には入らないでしょ」
セトミの返す言葉に、ショウがふたたびうなる。
「ま、あいつがなんだったにしろ、進むしかないでしょ。入り口が封鎖されてるんじゃ、退路はないわけだしね」
言いながら、セトミは立ち並ぶ部屋のドアを次々と開けていく。元は避難所――――シェルターと考えられている場所だけあって、物資は豊富だ。長期戦の様相になりつつある今、使えるものは回収していったほうがいい。
すでにいくつかの部屋で、セトミは弾薬、銃の予備部品などを手に入れていた。
「おっ、ここは……」
そのセトミの表情が幸運に破顔する。ドアを開けた先から、つんとした消毒液のにおいが漂ってくる。白く、清潔であっただろう壁やベッドは、破壊とカビに侵食され、今はもう見る影もない。
そう、そこは医務室だったと思われる場所だった。
早速、セトミは薬品棚と思われる棚を調べる。そこに残っている薬品は、代謝促進剤だった。代謝促進剤は、読んで字のごとく、新陳代謝を活性化させる薬で、ケガの治りを早くする効果がある。
「おっ、ラッキー。後は、食料と水が確保できればいいんだけど」
そう言って、それを手にした瞬間だった。
突如、部屋の片隅にあった通信機が、電波を受信したことを知らせるアラームを響かせた。
「ん……?」
それを聞いたセトミの心を、疑念がよぎる。シャドウに潜る際、そこの通信機器を使う人間など、ほぼ皆無だ。自分のように、デヴァイスに仕込んだり、持ち運びできる通信機を携帯するのが普通だ。
したがって、シャドウの通信機器が使われる状況というのは、大方が非常事態だ。
セトミは、無言で通信機のスイッチを入れる。
その向こうにいるであろう相手も、言葉を発することはない。奇妙な沈黙が、じわりと場の空気を蝕んでいく。
「……セトミ・フリーダムだな」
不意に、通信機の向こうの人物が声を発した。それはヴォイスチェンジャーでも使っているのか、奇妙に歪んだ声で、男女の区別もつかない。
それよりも、セトミには気になる点があった。
「……あんた、誰? 私の本名を、どこで知ったの?」
そこだった。『チェイサーキャット』という通り名を知っているものは多いが、セトミ・フリーダムという名まで知っているものは少ない。依頼主や仲介人など、直接仕事で関わった人物しか知らないはずだ。
名前を知っている人物といってまず頭に浮かぶのが、ショウやアリサといった、普段から仕事で関わっている人物だということからもそれはわかる。
「それは、お前が知る必要はない。手短に、用件を伝えさせてもらう」
「ちょっ、あんた……」
強引に話を通そうとする相手に食い下がるが、その間も相手は話し続けている。ともすれば、その言葉を聞き逃しそうだ。仕方なく、セトミは言いかけた言葉を飲み込む。
だが、その相手の次の言葉に、セトミは驚愕した。
「お前は、この件から手を引け」
「はあ!?」
この相手は、今の状況が分かっているのだろうか。入り口はハウリング・ウルフに封鎖されているし、シャドウ内は普段よりも凶暴化したクリーチャーがいる。さらには、先ほど戦ったブルースのような、正体不明の連中もまだいるはずだ。ここまで深入りして、手の引きようすらない。
「我々の目的は、『鍵』だ。貴様に用はない。おとなしく鍵を渡すなら、貴様が脱出できる手段を用意しよう」
「フン――――やっと話が見えてきたじゃない。私の命と、ミナの身柄を取引ってこと? だったら、そっちが信用できるか、こっちもちょっと試させてもらわないとねぇ」
セトミの表情に、かすかに笑みが浮かぶ。無論、ミナを渡すつもりなどない。だが、相手の欲するものがこちらにあることはわかった。
ならば、うまくすればこいつから情報を引き出せるかもしれない。
だが、セトミのその言葉に、通信機の向こうの相手がかすかに笑った気配がした。
「――――いや。貴様には、我々を信用するしか道はない」
「……なんですって?」
相手の余裕に、困惑と怒気をはらんだセトミの言葉にも、相手は動じる気配はない。どうやら、はったりではないようだ。
「貴様のいる区画は、シェルターエリアだな? そのエリアのすべての出入り口には、赤外線センサーを取り付けさせてもらった。センサーの先には、高性能指向性対人地雷を仕掛けてある。出ようとすれば、木っ端微塵だ」
「なっ……!」
「そのエリア内の、中央に位置する集会所に来い。話はそれからだ。安心しろ。このエリアにクリーチャーはいない。だが……ヴェノムの連中には気をつけろ」
またしても相手は一方的にまくし立てると、即座に通信を切った。
「ちょっ……クソ、なんだってのよ」
仕方なく、悪態をつきながらセトミも通信機から離れる。すぐ側では、ミナが不安げな表情で彼女を見上げていた。
その表情を見、セトミは思わず破願して、ミナの頭を撫でた。かつて出会った頃、ショウが自分にしたように。
「大丈夫。どこの馬の骨ともしれない連中に渡したりしないからさ」
その時、不意にショウから通信のコールがかかった。
「はいはい?」
「はいは一回でいい。それより、今の通信……こちらでも傍受させてもらったんだが、ちょっとばかり、情報が手に入ったんでな」
ショウの言葉に、セトミの目が不意に剣呑な色を帯びる。今のこの状況、情報は重要だ。相手の正体もわからない上、こちらは袋のねずみならぬ、袋の猫なのだ。
「もったいぶらないで教えて。なにがわかったの?」
「さっきの野郎、最後にちょっとばかり口を滑らせただろう? ヴェノムの連中とかなんとか」
確かに、早口ではあったが、先ほどの相手はそう言っていた。
「でな、こっちでヴィクティム軍のデータベースにハッキングを仕掛けた」
「軍の?」
「ああ。ブルースってやつとやりあった時に、そいつはえらい厚い弾幕を仕掛けてきたんだろ? それほどの弾薬を動かせるなら、個人単位の組織じゃない。軍か、あるいはそれに匹敵する規模の武装集団――――だとすれば、どちらにせよ、軍のデータベースにはなんらかの情報があるはずだ」
ショウの言葉に、セトミは納得したように口角を上げる。
「なるほどね。さすがドッグ、鼻が利くじゃない」
「……お褒めに預かり光栄だよ、子猫ちゃん。尻尾でもふりゃあいいか?」
「それは遠慮しとく。それより、わかったことを教えて」
皮肉げな調子で返すショウに、セトミはにべもない。
「へいへい。どうやらヴェノムってのは、軍の特殊部隊だな。専門はヒューマンのデモや不法占拠に対する鎮圧行動……対テロ、対ゲリラ部隊ってとこか」
胡乱げなショウの声色に、セトミの瞳がにわかに剣呑な色を帯びる。
ヒューマンに対する鎮圧が専門……しかし、それで合点がいった。あのブルースとかいうヴィクティムなら、人間の壁が相手となれば、喜んで弾丸をぶちこんでいたことだろう。
「でも、わからないね。そんな部隊がなんでまた、シャドウなんかに潜ってるわけ?」
「さあな。だが、ハウリング・ウルフが出てきたとなると、想像がつかなくもないな」
「……軍を動かしているヴィクティムが、やつらが出てくることを予測していた……? あるいは……」
セトミは、そこで言葉を止める。
「わかっていたか……だな」
その後を引き継ぎ、ショウがこぼすように言う。
「そして、そのどちらもがミナを狙っている……か。こいつは、とんだジョーカーをひいちまったのかもしれないな」
セトミたちのいるシャドウの比較的浅い階層よりも、数段深い場所。電気が通っている浅い階と違い、最低限の電力しか通っていないらしいその場所は、周囲の機械のランプやスイッチのみが光源の、ひどく暗い場所。
その暗さゆえに、どのような場所なのかは不透明だ。ただ、その場所の中央に位置する円柱状の機械のみが、透明な水色に輝き、辺りを照らしている。
その水色の光に照らされて、何人かのヴィクティムのシルエットのみが、ぼんやりと陽炎のように映し出されていた。
「……ボス、報告があるのだけれど」
不意に、その円柱にもっとも近い位置にいた男――――人間の体躯を遥かに超えるヴィクティムの中でも、ずば抜けた巨躯のヴィクティムに、話しかける声があった。
「――――なんだ」
まるで、山が声を発したかのような、重々しい声だった。それだけで、普通の人間ならば、びりびりとした威圧感に気圧されてしまいそうな、そんな声。
声の持ち主は、腕組みをし、円柱を見たまま、話しかけた者のほうを見ようとはしない。
「タランチュラ――――ブルースが、負けちゃったみたいよ。メディカルデヴァイスの反応が、消えたわ」
対するもう一方の声は、女言葉ではあるが、その声色は男のそれだ。なよなよとしたその声も、光に照らされて浮かぶひょろ長いシルエットも、もう一人とはまるで正反対である。
「……そうか」
ボスと呼ばれた巨躯の男は、その言葉を告げられても微動だにしない。
「あら、それだけ? 部下が死んだって言うのに、ずいぶんなリアクションじゃないの?」
女言葉を使うもう一方の男が、暗闇で体をくねらせて言う。言葉とは裏腹に軽薄な響きを帯びたその声からして、どうやら笑っているようだ。
「……予想通りだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「とすると、やっぱりあれは最初から捨て駒だったわけね。まあ……怖い怖い」
「次はお前が行け。センチピード」
静かに告げる巨躯の男の声に、センチピードと呼ばれた男の声色が変わった。
「あら……いいの? やっちゃって。子猫ちゃん、おいしくいただいちゃうわよ?」
軽薄なその口調は変わってはいないが、その言葉の端々には、まるで舌なめずりするかのような、獰猛な気配が渦巻いている。
「……それで終わるならば、それが、あの娘の運命だ」
巨漢は相変わらず、光を放つ円柱にその視線を注いだまま、動かない。
「ずいぶんと、子猫ちゃんのことを買ってるのね。嫉妬しちゃいそうだわぁ。……まあ、いいわ。あたしもあの子猫ちゃんには興味があるもの。例えば……あたしの獲物でかわいがってあげたら、どんな声で鳴いてくれるのか……とかね」
ねっとりとした声で言いながら、センチピードと呼ばれた男が、両腕を振りかざす。途端、その足元を何かが、ピシッと鋭く弾いた。
「……では、ボス。任務を遂行してまいります。クフフフフ……」
くぐもった笑い声を残し、センチピードはその場所を去っていく。
「……セトミ=フリーダム。果たしてお前は、再び私の前に生きてその姿を現すのか……」
巨躯の男は、その言葉とともに、何かに思いを馳せるかのように、その瞳を閉じた。
シェルターエリア、中央集会所付近――――セトミは、油断なくアンセムを構えながら、そこを進んでいた。
切れかけた、暗い蛍光灯のみがかろうじて辺りを照らし出している通路。まだ電源が生きているのか、猛獣の唸るような、低い機械音が警戒心をざわつかせる。
気配を探る限りでは、人間やクリーチャーのいる様子は感じられないが、油断はできない。元々、危険の巣窟のような場所であるシャドウが、今ではヴィクティム軍の特殊部隊と革命軍の戦場でもあるのだ。
通路の奥になにもいないらしいことを確認すると、セトミはミナの手を握り、歩き出す。そのひどく冷たい手が、セトミの体温でじわりと温まっていくのを感じた。
「――――お姉ちゃん」
不意に、ミナが口を開いた。始めはただ無機質な声に聞こえていたそれも、どこか、感情の色が見え隠れするようになった気がしていた。
それは、ミナがセトミに心を開いてきたのか、セトミが彼女の声を聞き分けられるようになったのか、あるいは、その両方か。
「どうしたの?」
「――――なぜ?」
ひどく端的なその言葉に、『なぜ自分を助けてくれるのか』というニュアンスが込められているということに、しばらくかかった。
ふう、と小さく嘆息してから、セトミは不意に笑みを浮かべる。
「――――そうしたかったから」
ミナの言い方に引けを取らない端的さで、セトミは答えた。
「ミナはね……私と同じに見えたんだ。突然、家族から引き剥がされて、なんだかよく分からない事情で、利用されていた私と」
とつとつと、しかし、顔には自嘲するかのような笑みを浮かべ、セトミが言う。その顔を、ミナはただ、不思議そうに見ている。
「私、小さい頃の記憶ってなくてさ。物心ついたときには、ある施設で暮らしてた。孤児院とかそういう、家族のいない子供のための施設じゃなくて、ヴィクティムの能力の研究所。ほら、私、こんなだからさ」
そう言ってセトミは、魔女のような帽子を取る。そこには、例の猫の耳のような突起がある。
「なにに使うつもりか知らなかったけど、そこでの私は『重要な研究サンプル』でしかなかった。人のぬくもりなんか知らなくて、ただ飼われてるだけの、サンプル」
再び、セトミはその帽子を被る。
「その頃の私と、ミナはどこか似てる。なにかに利用され、ただ翻弄されて、どうしたらいいかわからない――――そんな思いを、内に秘めてるような」
半分、己に語りかけているかのように相手を見ず、セトミは話す。その彼女を、ミナは相変わらず、不思議そうな表情で見上げていた。
「――――ま、なぜって聞かれたら、そんなところ。別に、おもしろい理由じゃないでしょ?」
またしても自嘲めいた笑みで笑うセトミに、ミナがふるふると首を横に振った。
「……んーん、おもしろい。おねえちゃんの昔、ミナ……もっと知りたい」
その言葉とともに、握られた手にくっ、と力が込められたのがわかった。
意外そうにセトミはミナを身、今度は少しうれしそうに笑う。が、直後、その顔は険しい視線で正面を向いていた。
「ごめんねぇ、絵本の続きはまた今度、読んであげる。どうも、そろそろ大人のお話をしなきゃいけないみたいだから、ね」
その視線の先にあるのは、旧式の電子ドア――――そこにはかすれた文字で『中央集会所』と書かれていた。
ゆっくりと、セトミはそのドアに近づく。その歩みに合わせるかのように、電子ドアは音をたてて自動的に開いた。やはり、まだこの地区は電源が生きているようだ。
その内部は、通路とは違い、煌々と灯りの灯された部屋だった。大戦時の避難所として使われていたエリアだけあって、小さな公園ほどの広さがある。ここで、多くの人間に状況を説明したりしたのだろうか、最奥部は一際高く壇状になっており、まるで簡素な舞台のようだ。
辺りを警戒しながら、セトミは中へと入る。握った手のひらにすがりつくようにして、ミナが身を寄せたのが、わかった。
部屋の中央まで進んだところで、セトミは足を止める。かすかに、物音がその耳に届く。なにかをこするような、引きずるような、そんなずるずるという音。
それは、上から聞こえていた。
それに気づいた刹那、油断なくアンセムを構えながら、セトミは天井を鋭くにらんだ。
「……ふふ、さすがにいい勘をしているな……。チェイサーキャット」
天井に張り巡らされたダクトから、その声はしていた。己に向けられた銃口などまるでお構いなしに、その声色には余裕がある。
やがて、天井の一部を外し、ダクトから一人の女性が部屋の中へ下り立った。
「……あんたが、さっきの通信の相手?」
鋭くにらむセトミに、女性はどこか余裕げな空気を崩さない。それは、まるで表情を読み取らせない、真っ黒なサングラスのせいかもしれない。
「――――そうだ」
感情の片鱗すら感じさせない冷たい声で、その女性は言う。
濡れた黒猫のように光沢のある、ボブカットの黒髪。身を包む防刃コートと、スカート、タイツ、ブーツに至るまで、申し合わせたように、すべてが黒。感情を感じさせない声と相まって、それはさながら、きっちりと整った喪服のようだった。
「あなた……何者?」
警戒を解かないまま、セトミは問う。
その声に、相手の表情がかすかに変わった。ほんのわずかに口角を上げたその表情は――――笑み。だが、その笑みの意味するところが嘲笑か、優越か、あるいは自嘲か。そのサングラスに阻まれて、読み取ることはできない。
「そうか……やはり、わからないか。私が、誰なのか……」
相手の意図がつかめず困惑するセトミをよそに、その黒い女性はいまだ微笑を浮かべたまま、彼女を見ている。
「だが、それでいい。それで……」
「あんた、何言ってんの? さっぱりわからない。何者なのかって聞いてんのよ、こっちは」
相手の食えない態度に少々イラつきながら、セトミが再び問う。その声に、相手の表情がまたも消えた。
「私は、革命軍ハウリング・ウルフ副長、ミザリィ。『アサシンキャット』――――と巷では呼ばれている」
「ハウリング・ウルフの……? アサシン……? ふざけないで。からかってるわけ?」
同じ『猫』の名を冠するという目の前の相手に、再び困惑する。
「ふざけてなどいない。それが私の通り名だ。もっとも、あなたのおかげで二番煎じのような扱いを受けるのは、残念なところではあるがな」
ふふ、と、ミザリィと名乗った女性は声を出して笑う。
「さて、それよりも……さっさと取引に入ろうか。あまり、時間をかけていられないものでな」
ミザリィの視線が、セトミの背後に隠れたミナへと注がれる。その視線から庇うようにして、セトミが一歩、前へ出た。
「どいつもこいつも、よってたかってこんな小さな子になんなわけ? 『鍵』だとかなんだとか、一体なんなのよ?」
セトミの怒気をはらんだ声に、かすかにミザリィの口元に驚きのような色が加わる。
「……そうか、お前は、知らなかったのだったな」
「だから、何が?」
「その子が『鍵』と呼ばれるのは、文字通り、その子が鍵となるからだ。このシャドウの、な」
腕組みをしながら、ミザリィが語り始める。その真意がつかめないことに、セトミは心の中で歯噛みする。ハウリング・ウルフの人間で、しかもミナを必要としているなら、セトミが情報を得ることは歓迎すべきことではないはずだ。
一体、何が狙いなのか。警戒するセトミをよそに、ミザリィは語り続ける。
「シャドウには、今まで、絶対に開かない扉が存在した。最奥部に存在する、青い光を放つ円柱。それを操作端末とする、巨大なゲートだ。今まで何人ものチェイサーやヴィクティムがハッキングを試みたが、誰一人として開けられなかった扉――――。この子は、その扉を開くことができる、唯一の存在なのだ」
「扉を開くことができる……?」
オウム返しに、セトミがつぶやく。
「そうだ。お前も見たはずだ。この子が、ハッキングもなしに扉のロックを解除したのを」
確かに、ブルースと出会う直前、強固なロックをミナは解除して見せた。あれが、ミナが狙われる理由だというのか。
戸惑っていないと言えば、うそになる。だが、これでわずかながら、話が見えてきたようにも思えた。
「……それで、ハウリング・ウルフも、ヴェノムも、この子を狙ってるってわけ? ……その扉の向こうにあるものを手に入れるために?」
「……そうだ」
ひどく端的に、ミザリィは言う。
「その扉の向こうにあるっていうものは……一体なんなの?」
「……それは――――」
ミザリィがその先を口にしかけた時――――その音は響いた。
反射的に、三者が反応した。セトミとミザリィはそれぞれの得物を手に身構え、ミナは驚きにセトミに身を寄せる。
それはつまり、その音がそういった警戒の動作を起こさせる類の音だったからだ。それは――――爆発音。それも、かなり大きい。
「なに!?」
「――――これは、私の仕掛けた指向性地雷の爆発音!?」
ミザリィの表情が、始めて大きく変わる。それは、サングラスの上からでも分かるほどの、驚愕。
「誰かがそれにひっかかったってこと?」
「いや――――違う」
その言葉に、セトミの表情も変わる。確かに、未だ続くその爆発音は、単純に何者かが罠にかかったそれとは違う。
徐々に、こちらへと近づいてきている。
「チィ……こんな時に!」
ミザリィが悪態をつくのとほぼ同時に、その爆発音が止んだ。それとともに、かすかではあるが、何者かの気配がその場に伝わる。
足音、呼吸、そして――――笑う、声。
やがてそれは、二人の前に、ゆっくりと姿を現した。
「あらぁ? 子猫ちゃんをお迎えに来たら、猫ちゃんの集会の真っ最中だったかしら?」
男の声ながら、女言葉で話すその人間――――前髪を長くたらし、片目だけを露出させた男。長身で細身の体型ながら、その身体は引き締まっている。それを誇示するかのように、服装も裸身の上半身をさらけ出し、下半身の黒いズボンだけという奇抜なスタイルだ。
「……はぁ。今、忙しいんだけどね。変態さんのお相手してる暇はないんだけど」
セトミのその言葉に、男はくすくすと笑みを漏らす。
「あらあら、つれないわねェ。これでもあたしは、案内人なのよォ? あなたたちをふさわしい場所――――地獄へ案内する、ねェ。あたしは、センチピード・ジェシー。ヴェノムの、構成員よ」
笑う男に、セトミは瞳を凝らす。その男の身体――――それは、ひょろひょろとしていながら、異様なまでにくすんだ色をしている。それは、まるで錆びついた金属のよう。
――――こいつ、ヴィクティムか。ということは、恐らく、ミナを狙う、特殊部隊――――ヴェノムの一員という言葉は、嘘ではない。
セトミは、内心舌打ちする。隣にいるミザリィと名乗る女の正体も知れないうちに、敵と思わしきものが現れるとは――――。最悪、二体一の戦いになることもありえる。
が、その思考は、ミザリィによって奇しくも打ち砕かれた。
「……チェイサーキャット、お前は、奴に一撃加えることだけを考えろ」
「……はあ? あんた、なに言ってんの?」
小声で言葉を交わす二人に、センチピードと名乗った男は、にやにやと笑みを浮かべたまま、こちらを見ている。
「子猫ちゃん同士、仲がいいのはいいけれど……残念ねェ。あたし、どっちも殺さなきゃいけない立場なのよねェ……」
その言葉とともに、センチピードは両腕を振り上げる。その動作の意図がつかめず動けないセトミに向かって、その男は両腕を振り下ろした。
「シャアアアアアアアアッ!」
刹那、光学兵器特有の、超音波のような高い音がセトミの耳を裂いた。
「……チィッ!」
次にセトミの耳に届いたのは、ミザリィの舌打ち。
――――気がつけば、ミザリィがセトミを押しのけるような形で、二人は地に倒れていた。
思わず視線を先ほどまで立っていた場所に送る。そこは、まるでクレバスのごとく、巨大な剣が振り下ろされたかのように、切り裂かれていた。
「……セトミ、ぼうっとするな!」
「……あんた、なんで……?」
それは、セトミを庇うような行為だった。一歩間違えれば、自分が攻撃を受けていたはず。
「……………」
だがセトミのその問いに、ミザリィは答えず、立ち上がる。
「……私が、そうしたかっただけだ。勘違いするな」
その言葉に、セトミは困惑しながらも立ち上がる。ミザリィと名乗ったこの女の意図は汲み取れないが、今はそれを気にしている余裕はない。
「……しっかり、後で借りは返すわ。とりあえず、今、あんたが私を殺す気はないってのは、わかった」
「……それでいい」
セトミとミザリィ――――両者が、背中を合わせてそれぞれの武器を構える。セトミはカタナ、ミザリィは二振りの大型のナイフ。
「おおっと、そっちがそう来るなら、こっちもこうしなきゃ、ねェ!」
その言葉と同時に、センチピードがまたしても腕を振るう。同時に、部屋の中にクリーチャーたちがなだれ込んだ。
「ちょっ、どういうこと!?」
「……ヴェノムの連中が、クリーチャーの指揮系統のコードを乗っ取ったという情報は、正しかったか……」
周囲を囲まれ、ミザリィが歯噛みする。ぽつりと漏らしたその言葉に、セトミが険しい表情を作った。
「……やれやれ、なにも知らずに、とんだ魔王の城に迷い込んだものね」
皮肉めいた言葉とともに、セトミがクリーチャーを見る。それは元は人間であったであろう、ヴィクティムの第一世代。ヴィクティムのように人間としての意識を残せず、ただ怪物へと成り果てた、それ。
それはヴィクティムと同様、人間よりも一回り大きな体躯をしている。ただれたように黒ずんだ肌は、まるで焼死体のようだ。だが、焼死体のそれとは違うのは、身体の一部が異様に発達していること。
ある者は爪が強固なカタナのように巨大化し、ある者は口から鋭い牙が生えている。そして、そのどの個体の目にも、意思の光はまったく感じられない。
「クリーチャーは私がやる。お前は、あのヴィクティムを狙え」
答える暇も与えず、ミザリィがクリーチャーの群れに突撃していく。彼女の意図は相変わらずつかめないが、こうなった以上、話に乗るしかない。
「ドッグ、話は聞いてた?」
通信機に声が届くように、セトミが言う。
「ああ。なんだ?」
「さっき、ヴェノムのデータベースにハッキングしたって言ったわよね。センチピードってカマ野郎のことを調べて」
早口で言い切ると、セトミは右手にカタナ、左手にアンセムを構える。敵の攻撃の正体がつかめない今、遠近両方に対応できる、この装備の方が適しているだろう。
「あらァ、子猫ちゃん……あたしと遊びたいのォ?」
男にしては妙に甲高いセンチピードの声が、不快に耳に刺さる。歪んだ、にやにやとした笑みも、セトミの気分を逆なでする。
「うるさいよ、この変態カマ野郎。あんたみたいなのがいると、小さい子に教育上良くないから、さっさと消えてくれる?」
「あら、ふふふふ……つれないのねェ。でも、子猫ちゃんの大好きな、とっておきの猫じゃらしが……」
ねっとりとした声で言いながら、センチピードがその両腕を振り上げる。先ほどの攻撃も、この動作の後に来た。となれば、これが攻撃の予備動作のはず。だが、光学兵器を使っているらしいこと以外は、未だ分からない。
「あるってのにねェ!」
再び、センチピードが両腕を振り下ろす。高い金属音とともに、鎌首をもたげた蛇のように、それがセトミを襲った。それは、光学兵器を鞭状に出力した武器――――ショックウェイヴと呼ばれるものだった。
「チッ!」
後ろへと跳躍し、攻撃を避けながら、セトミはアンセムを発砲する。
「おっとォ!」
刹那、センチピードは鞭状のそれを引き戻すと、すばやくその手を横に振るう。ショックウェイヴが今度はまるで盾のように展開し、アンセムの弾丸を弾いた。
どうやら、出力の仕方を変えることで、ウェイヴの形態も変えることができるようだ。
「ほらァ、次ぎ行くわよォ!」
相手の出方をうかがうセトミに、今度はセンチピードが両腕を突き出す。刹那、ウェイヴがまっすぐにセトミへと伸びる。鞭にまるで節足動物のような突起が無数に生えたそれは、まさにムカデ――――センチピードとはよく言ったものだ。
その直線的な攻撃を、今度は横に動いて避ける。
「ほらァ、まだまだァ!」
だが、続けてセンチピードが腕を横に振るう。それに合わせて、ウェイヴがその名の通り、大きく波打つ。そしてまさに獲物を狙うムカデのごとく、横薙ぎにセトミに迫る。
「くっ!」
その動きを視界の端に留めたセトミは、バク転の要領で大きく下がってかわす。だが、その脇腹にはかすかに血がにじんでいる。
うまくかわしたつもりだったが、ウェイヴの突起のような部分を引っ掛けられたようだ。
「どうしたのォ、子猫ちゃん? 遠慮しないでもっとじゃれついていいのよォ?」
その様を見、センチピードが挑発する。が、その様子からして、まだ隠し球がありそうだ。
その時、メディカルデヴァイスの通信機が鳴る。
「セトミ、聞こえるか?」
「ドッグ、なにかわかった?」
ショウの声に、セトミが早口で返す。恐らく、データベースのハッキングに成功したのだろう。なにか情報が分かれば、戦いやすくなるかも知れない。
「ああ、そいつは、センチピード・ジェシー。ヴェノムの構成員だ。武器は高出力のショックウェイヴ。鞭、盾、剣の形状に瞬時に変形させることができる。リーチと攻撃範囲に優れ、かなりやりにくい相手だろうな」
鞭に盾、剣。恐らく今までのパターンから言って、遠距離では鞭、近距離では剣、盾で防御といったところだろう。先ほどのやつの防御反応からして、銃器ではダメージを与えることは難しいかもしれない。
かといって、リーチと攻撃範囲に優れる鞭をかいくぐって接近戦を挑むのも難しいだろう。確かに、やりにくい相手だ。
ならば、こうするしかない。セトミはすばやく、アンセムとカタナを納めると、背負ったAOWを抜く。だが、まだ撃たない。ブルースと戦った際に装着したままのアサルトアタッチメントを外す。
その動きになにか考えていると悟ったか、センチピードが動いた。先ほどと同じく、いったん鞭を引き寄せると、両腕を振り上げる。
「イイイィィィイィヤァァァァ!」
奇声を上げながら、センチピードは再び両腕を突き出す。ウェイブが再び、まっすぐにセトミへと迫る。
「なめんなッ!」
だがそれを先ほどの動作と同じと見切ったセトミは、さっきよりもわずかに早く反応した。ぎりぎりでかわした先ほどより見切って動いた分、余裕がある。
横に動いてウェイヴをかわし、セトミはAOWのアタッチメントを取り出し、装着した。地下鉄エリアでクリーチャー相手に使用したアサルトアタッチメントだ。
間髪いれず、セトミはセンチピードに向けてフルオート掃射を試みる。
「甘い甘い、甘ァいわァ!」
伸びきったウェイブをすぐさま引き寄せ、センチピードは射撃を防ぐ。それを見、セトミは掃射を続けたまま、前へと駆ける。弾が切れればすぐさまリロード、センチピードが反撃する間を与えず、強引に距離を詰めて行く。
だがそこで、センチピードが気づいた。
「……それが、狙いッ!?」
至近距離まで詰め寄ったセトミが、AOWを背中に戻す。次の瞬間には、その手は腰のカタナへ伸びている。
刹那、セトミが加速した。カタナの鞘と柄をつかんだまま、前へ滑るようにステップを踏む。同時に鞘とカタナ本体を同時に引き、居合いの要領で横薙ぎに薙いだ。
「くぁッ!」
すんでのところで、センチピードがウェイヴを剣状に変換、その眼前で止めた。
止められたと見るや、瞬時にセトミはカタナを引く。舞うような動きでいったん後ろに下がると、大きく一歩踏み出しながら、右のハイキックを繰り出す。
「ひぎゃッ!」
ウェスタンブーツのつま先が、センチピードの鼻頭を強打する。セトミは蹴りの勢いを殺さず、そのままもう一歩踏み出すと、回転の勢いをのせた後ろ回し蹴りを放った。
「…………ッ!」
息を飲むような気配と、確かな手ごたえ。鋭角に入ったことを確信し、セトミが笑う。
その蹴りで吹き飛ばされたセンチピードは、倒れこみながらも、首を振って立ち上がる。蹴られた鼻頭を押さえ、出血していることに気づくとにたりと歪んだ笑みを浮かべた。
「子猫ちゃあん……いたずらがすぎるわよォ……?」
不意に、ぞくりと。
不気味な悪寒が、セトミの背をかけた。ひどく不快な、異物感。まるで、他人に首筋でもつかまれているかのような。
だが、それは……首筋ではなく、先ほど蹴り上げた左足だった。
そのことに気づいた瞬間、セトミの身体を今までにない衝撃が駆けた。
「あっ……ああああぁぁぁあぁっ!!」
光学兵器のエネルギーの奔流。まるで電撃のような痛みが、全身を駆け巡る。足の異物感――――それは、セトミの足に絡められた、センチピードの鞭だった。
「……くっ、あ……。どうして……」
センチピードは、さっきまでウェイヴを剣に変えていたはずだ。顔面を蹴られながら、その操作ができるとも思えない。
がくりと膝をついて、セトミがセンチピードを見る。
「くふふふふ……これ、両手で一本、使ってるんだと思ったでしょォ?」
そう言いながら、センチピードが片方の手を上げる。そこには、ウェイヴの剣がある。そして、もう片方の手には、鞭が握られていた。つまり、やつの使う武器はもう一本あったのだ。
意識の朦朧とするセトミに、センチピードが剣を振るう。同時にそれは鞭に変形し、動けないセトミの身体をぐるぐる巻きに拘束する。
「……くっ!」
「くふふふふ……さあ、おしおきよォ?」
刹那。
「うっ、ああ、ああああああぁぁぁぁっ!」
再び、衝撃がセトミを襲った。身体をがっちりと拘束されたせいか、先ほどよりもそのダメージは重い。ほんの数秒、そのエネルギーを受けただけでその身体からは力が抜け、セトミはへたり込んだ。
「あ……ああ……」
その衝撃に、その瞳から、光が消えかける。
ゆっくりと、動けないセトミにセンチピードが歩み寄る。そして、そのむき出しの腹を踏みつけた。
「……ぐっ! げふっ!」
思わず、痛みに身をよじる。ウェイヴのそれとは違う重い衝撃に、飛びかけた意識が強引に引き戻された。
「……………っ!」
そのとき、ぼやけた視界の端に、それが映った。離れて事態を見守っていたミナが、こちらに駆け寄ろうとしていた。
「……来ちゃ、だめっ!」
だが、その言葉にも、ミナは止まらない。
「あら、そっちの子猫ちゃんも遊びたいのかしらァ?」
センチピードの目が、セトミからミナへ移る。
しかし。
その瞳が、驚愕に開かれた。つられて、セトミもミナを見た。
それは、始めて見る、彼女の姿だった。いつも表情の薄かった顔は憤怒に染まり、セトミですらも、一瞬、ぞくりと戦慄させた。
見えたのは、そこまで。それは、おおよそ、小さな少女のできる動きではなかった。シルエットがやっと確認できるほどの速さ。
セトミがその表情に驚愕したその直後には、その姿はセンチピードの眼前に迫っていた。
「……おねえちゃんを、いじめるな……!」
「……え?」
不思議なものでも見るかのように硬直したセンチピードの顔面に、ミナの右手が振り下ろされた。
それは、人にあらざる力だった。ミナの、折れてしまいそうなほどに細いその右手の、拳。それは、ひどく無骨で巨大な、両刃の斧へと変わっていた。
「……は? え?」
そしてそれは、事態が飲み込めていない様子のセンチピードの左目付近に、深々と食い込んでいた。
震える手でその食い込んだ斧に触れ、ようやく事態に気づいたらしいセンチピードが、半狂乱で絶叫する。
「ぎ……ぎひいいいいぃぃぃッ! 目、目、めめめめめめええええええェェェッ!」
ミナが冷徹な瞳でその右腕を抜き取ると、センチピードは狂った山羊のような声をあげて駆け出す。狂乱していながらも命を守る意識だけはしっかり残っているのか、元々彼が現れた方角から、部屋の外へと姿を消した。
それを見、ミナが駆け出そうと身構える。
「ミナっ!」
その服の裾を、セトミがつかんだ。そしてそのまま、ぐっと彼女を抱きしめる。
「もういい……。もういいの。そんなもの振り回さなくて、いいから……」
ショウの驚く声が、デヴァイスから響くが、よく聞こえない。
不思議そうな顔でこちらを見るミナに、セトミはかすかに潤んだ瞳を向けた。
本当は、わかっていた。この子は……人間ではない。ヴィクティムか……あるいは、ハーフ。それも、普通のそれらとさえ違う、なにか、特殊な。
だが、それを、現したくはなかった。こんな小さな子が内に秘めた悲しみを、暴いてしまうようで。まるで、かつての自分が、サンプルとして扱われていた時、晒されていた好奇の目に、晒してしまいそうで。
「……目覚めたようだな。『ファースト・ワン』が」
その冷静な声に顔を上げると、そこにはクリーチャーを無事片付けたらしい、ミザリィの姿があった。
「え……?」
困惑に顔を曇らせるセトミに、ミザリィが言う。
「その子だけが、このシャドウの扉を開くことができると言っただろう? それは、その子が『ファースト・ワン』だからだ」
無機質に思えるその姿に、しかし、その声はどこか得体のしれない澱みをたたえている。まるで、哀れむような。
「どうやら、無理にその子を連れて行こうとしても、旗色が悪そうだ。しばらく、預けておく」
「ちょっ、待ってよ! 『ファースト・ワン』ってなんのこと!?」
不意に踵を返し、立ち去ろうとするミザリィを追おうとするが、センチピードの攻撃のダメージがまだ残っている。立ち上がることもできない。
「……デヴァイスの向こうにいる男にでも聞くがいい」
わずかにこちらを振り返りながら、早口に言うと、ミザリィはもう足を止めることなく、部屋から姿を消した。
「……ドッグ……」
うめくように声をあげたセトミに、その意図を汲み取ったらしいショウが、深く息をつく。
「……まずは、お前の治療が先決だ。体力の回復を待ちながら、話そう」
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