古巣を訴える気持ちが止まりません
「びっくりしましたよ。点滴が空になった途端におかしなこと言い出すから、幻覚でも見てるのかと思って」
点滴切れたらこのおっさん壁の中に蝶々がいるとか騒ぎ出しまして、と看護師に言わなかっただけで良しとする。ただヒマだったから言葉遊びをしただけだったのだが。
「土屋さんは多分、色々なものに追われておかしくなってるんです。もともとまともではありませんでしたが、細かいことにこだわりすぎて大義を見失ってる愚か者そのものですよ」
否定はしない。もう何を言われてもいい。そのあとしばらく三吉の説教は随分続いたが、大半は聞き流していた。
ただ「仕事以外になにかやることはないんですか。ぼけますよ」という言葉は心に食い込んだ。
いつの間にか、認知症を心配されるような年齢になったのか。
今の今まで若いつもりではいたが人から見れば知命。哀れ仕事に潰され緊急入院。しかも独身。過労死と孤独死の2大コラボに手が届く。
小学校の卒業文集に、気を失うまで馬車馬のごとく働きたいですと書いた覚えはない。
20歳の頃はなんとなく30歳までには結婚できるものだと思っていた。
30歳になったら、そろそろ年収5百万くらい行ってもいいんじゃないかと思い始めた。
何一つ実現していないうえ、50歳になったら入院しました、というのでは目も当てられない。
色々とおかしい。自分の思い通りに動かさずして、誰の為の人生か。
重い決意を言葉に出す。
「退院したら、旅に出ようと思う。
仕事を終えたのちに。バイクで東北あたりに」
「いいですね、僕も行きますよ。免許取っておきます」
軽い相槌が返ってきた。
「お前らのお盆休みは土日合わせて5日だっただろう。わざわざ混んでいる時に出かけるつもりはねえよ」
「お盆でなく、有給を使えばまとまった休みがとれます」
「有給? そんなのあった?」
「できました。最近社員が30人を越えて、いろいろ刷新されてきてます」
「もしかして休日出勤手当とかも?」
「もちろん」
「残業代も出ちゃうの?」
「今では当たり前です」
訴えてやろうかとも思う。
人を安月給でこき使っておきながら、ブラック体質が問題になりそうな時代になればカメレオンのように業務形態を変更する浅はかな会社に恨みはあれど未練はない。
だが、三吉を含む知人がそこで頑張っているとなると話は別だ。
何よりも今は、自分の体調のみを考えよう。
退院後はやはり慌ただしかった。
休んだことにより穴を開けてしまったことから生じる後悔と反省。また入院するのではないかと疑うほどの3週間が過ぎた。
土曜日の深夜、一連のアップ作業を終え、一息ついて首をまわす。
事務所兼自宅の1DKには椅子が一つしかない。仕事が軌道に乗ったらソファくらいは買いたいものだ、と思い続けて1年以上が経過している。
遠い目で9月のカレンダーを眺める。来週、丸々暇になってしまった。
休みができてやったねと思うか、どうやってこれから暮らしていこうと思うかは人それぞれだが、自分は後者の考えにしか至らない。
こういう時は酒を飲むに限る。
医者には当然のことながら止められているが、このままでは眠れもしないのだから仕方ない。
小さいコップになみなみと注いだ、不純なき焼酎甲類がおれの心を慰めてくれる。雑多な化合物のたまものである甲類に不純を求めるあたり、いかに自分の神経がねじくれているかがわかる。
椅子の上で眠りに落ちる寸前、事務所の外を1台のバイクが通った。
あのアメリカンっぽい音はなんの排気音だっただろうか。実家に置いてきたシャドウ400に似ているようなあの音は。不思議と心を落ち着かせてくれる音だった。
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