アドレナリン万能説

 2ヶ月前、血液検査を受けた結果、ガンマGTPやら白血球の数やらは正常値だった。しかしながら、その裏で肺炎という大きな病気をやらかしており、通りで咳が止まらないなあ、夏の風邪は長引くなあ、とは思っていたのである。のんきという以外に無い。


 困ったことにそういう時にこそ仕事の依頼が重なるもので、病院になど行ける時間が無い。

 というより、ここで稼がなければ病院に行くカネも捻出できない可能性が高いのだ。

 昼食はパンをかじりながら、夜はコンビニのおにぎりをほおばりながらの4週間。

 左手だけで食べられるものを選んでしまうのが3流ホームページ屋の悲しい習性だ。ウェブデザイナーというかっこいい肩書きは、おれには過ぎる。


 咳をしすぎたせいか肋骨を痛めたらしく、遂には痛みで夜も眠れないほどになった。それがひと月ほど前か。日中はアドレナリンが、そう、アドレナリンとやらが大量に、それはもうどばどばと分泌されたため、全く痛みを感じなかったのだろうが


「アドレナリンってそんなに便利なんですか」


 という三吉の疑問も当然といえば当然だ。うるせえよ。


 とうとう明け方に白目を向いて気絶していたところを、週に2回遊びにくる元同僚が発見。救急車を呼んでくれたらしい。締切を前にして、最後の仕上げを前に気絶したのは不覚であるとしか言い様がない。

 が、幸か不幸か客先のゴタゴタで大幅な変更が発生、納期をしばらく伸ばしてもらえることになった。


 通常、何があっても納期は変わらないものだが、今回はコンセプトすらぐにゃりとするほどの「全替え」だったことも関係している。

 ありえないことだが、もしかしたら、電話口で弱々しく咳をしつつ悲壮な声で「お任せください」と受け答えしたのが吉と出たのかもしれない。どちらにせよ、いいお客様なのだった。



「土屋さん」


 三吉が話しかけてきた。無視をした。大事なことならばそのまま続けるだろうし、たいしたことないのならそのまま会話は終わるだろう。三吉との付き合いは長い。


「戻ってきませんか、会社。口きけますよ。他にも戻ってきて欲しいって言ってるのもいますし」


 無視を続けた。思った以上に意味のない問いかけだった。実に意味がない。

 なにより、体調不良のおれに言うべきことではない。

 くらっとくるし、ぐらっともくる。

 国民年金や市民税、安定の給与体系といった、個人事業主には切なすぎる言葉がまぶたにうかぶ。

 会社を辞めてしばらくしてから、市役所の納税課が来て住民税払わないとヒドイよとか叫んでいたことを思い出した。

 義務を怠るつもりはなかったが、長いサラリーマン生活の名残で、自分個人が年金を払うという知識…というか発想が無かったのだ。口の中が苦くなってきた。

 残り少なくなった点滴の袋を見ながら返答した。


「男と女ってさ、あまり違わないよな」


 三吉が顔を上げた気配が伝わってくる。


「外見的には胸があるか、ついてるかどうかの違いだけだろう。もちろん化粧の有無とか服装とかは置いておくとして、なんというかな、その、もうちょっとダイナミックに男女の違いはあっていいと思うんだよ。例えば角が生えてるとか腕がちょっと多いとか」


 三吉は立ち上がった。


「それこそ下半身が馬になってるとか、左手だけは異様に長いとか。そうしないと宇宙人が見た時、困るんじゃないか」


 三吉はおれの頭上にあるナースコールボタンをためらうことなく押した。

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