ACT113.8 まったく、わからないものですね?
「良い話が出来たようですね、お嬢様方」
真白や朱実との大事な話が終わって、三人で公園を出たところで、朱実の母であり――茶々にとっても気の良い友人である、仁科朱莉が出迎えてくれた。
朱実と同じくらい背丈が小さく、なおかつ可愛らしく、彼女特有のゆるふわな笑みは、見ていていつも安心できる。
それは朱実や真白にとっての当然のことながら、茶々とて例外ではない。
「お母さん」
「こんばんは、朱莉さん」
「盗み聞きは感心しないわよ、朱莉」
「そうは言われましても、皆様のお顔を見れば、おおよそのことはわかりますので」
「……むぅ」
朱実達との大事の前に、茶々が彼女に、二人の帰りを送り届けるように連絡を付けたのだが……さっきまで茶々達がしていた話の内容も、朱莉は察しているようである。
本当に底が知れない人だ、などと感じつつも、茶々は彼女のそんなところを気に入っている。
「まあ、いいわ。朱莉、送迎お疲れさま。きちんと真白や朱実を送り届けてあげて」
「仰せのままに。……と、言いたいところなのですが、その前にわたくしからも、茶々様とお話したいことがありますの」
「茶々に、朱莉が?」
「朱実と真白さんは、先に車に乗っていてください。ほんの少しの時間で済みますので」
「ん、わかったよ、お母さん」
「?」
朱実と真白、少々首を傾げながらも、向こうで待たせている赤い車に歩いていくのを背にしつつ、朱莉はこちらに歩み寄ってきてくる。
ゆるふわな笑みは相変わらずだけど、少しだけ神妙な様子でもあったので、茶々は自然と背筋が伸びる心地だった。
「改めて、良い話が出来て良かったですね、茶々様」
「ん……茶々は、茶々の我が儘を通しただけよ。それが良い形になったのも、朱実と真白の優しさのおかげだと思ってる」
「左様ですか。ですが……複数の方を愛するということは、時に、その愛する人を傷つけてしまうことも起こり得ます。わたくし自身、茶々様のこれからに反対はしませんが、茶々様にそのお覚悟はあるかを、お聞きしたいですの」
「っ……」
そして、その神妙の通りに、朱莉は茶々にとっては鋭いことを問いかけてきた。
やはり、傍目から見ると、一途を貫けないのは不誠実なことなのかも知れない。
でも、それでもだ。
「茶々は、誰も傷つけないわ」
胸を張って、言い放った。
「これからもずっと、茶々は朱実や真白のことを祝福するし、同時に愛し続ける。決めたことは、ずっとやり遂げるつもりよ」
「はい。ですが、茶々様が愛しているのは、朱実や真白さんだけですの?」
「――――」
さすがは、仁科朱莉。
茶々のことを、これでもかってくらい察してくる。
だからこそ、茶々はそのゆるふわな彼女の笑みを、正面から見据えて、
「わかってる。茶々は、絶対に手放さないわ」
「……ふふ、そこまで素直になれた茶々様なら、大丈夫ですわね」
満足そうに頷いて、朱莉は背を向ける。
彼女からの大事な話は、これで終わりのようだけど――
「待って」
「?」
咄嗟に、茶々は朱莉のことを呼び止める。
これには、朱莉は疑問符を浮かべつつこちらに振り向くのだけど、茶々はそれも待たずに、
「朱莉も、赤真の他に、愛している人が居るの?」
「――――」
この質問に、朱莉は虚を突かれたようである。
朱莉が自分の夫にして元主人でもある、
彼女が不貞を働くとは到底思えないけど、これは、なんとなく気になっての質問だった。
そんな茶々の疑問に、朱莉のゆるふわな笑みは解けて細い瞳を見開くのだけど……それも一瞬のことで、
「はい。一度、わたくしは彼女のことをひどく傷つけてしまったのですけど……今も、彼女はわたくしを愛してくださってますし、わたくしもまた、彼女をこれからも愛し続けるでしょう」
「……そう」
「失望、しました? 夫が居る身で、こんなことをいうわたくしのことを」
「そんなこと、ない。これは多分、朱莉やその人自身にしか解らない絆なんだと思うわ」
「ふふ、ありがとうございます」
「それにしても、傷つけたって……朱莉にだって、失敗することあるのね。奈央よりも完璧なはずのあなたが」
「誰だって完璧ではありませんもの。わたくしも、朱実も真白さんも奈央ちゃんも、もちろん茶々様も」
「……でも、茶々は前に進むし、手放したくないものは必ず手放さないわ」
「良い決意ですわ」
もう一度微笑んで、朱莉はこちらに歩み寄ってきて、茶々を包み込むかのように優しく抱き締める。
茶々は、これには少しドキリとしたけど……抵抗も躊躇も何もなく彼女のことを抱き返して、その笑みの通りにとても安心できるその何年ぶりかの感覚を甘んじて受け入れた。
「茶々様も、わたくしにとっては大事な大事な娘です。これからも、あなたの良い前進を祈っていますの」
「あなたにそう言われること、とても光栄に思うわ。ありがとう、朱莉」
抱擁は数秒で済んでお互いに笑い合い、『では』と朱莉は背を向ける。
彼女が運転席に乗り、茶々が愛する人達を乗せた赤い車が発車して、夜道の向こうに溶け消えていくまでを見送ってから、
「ふぅ……よし」
茶々は、一つ深呼吸して、すぐそこに見える自宅へと歩き出した。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
「ただいま、奈央」
「おかえりなさいませ、茶々様」
たった今、自宅に帰ってきた茶々様を出迎えた私は、茶々様のその目元に残っている涙の跡に、一瞬胸がざわつきました。
これは、先ほどの涙とはまた別の涙だ、と。
やはり、傷ついてしまったのか、と。
で、あれば、私は茶々様をこれからどう支えればいいか、そして朱実様や真白様とどう接していくか、までを考えたのですが、
「奈央。早速結論から言うけど……万事、上手くいったわ」
「え……?」
私の穏やかではない想像の反面、茶々様のその表情はとても穏やかで、それでいて少しだけ緊張しているようにも見えました。
その意味が、私には少しわかりません。
万事、上手くいったとは、一体……?
「玄関じゃ何だから、夕食をしながら話すわ。支度、出来てるでしょ?」
「あ……は、はい」
少しの緊張を除くと、とても落ち着いている茶々様に、私は狐に頬を摘まれる心地なのですが。
夕食のテーブルを囲みつつ、私は――茶々様が交わした先刻の経緯を、その口からお聞きしまして。
それで、私から漏れ出た一言はと言いますと、
「よかった……」
ただ、それに尽きます。
――朱実様も真白様も、茶々様の想いを拒絶せずに受け入れてくれた。
その結果が、私の胸のざわつきを綺麗に振り払ってくれました。胸をなで下ろす、とはまさにこのことでしょう。
どこまでも、あのお二方はとても友達想いで、とてもお優しい方達です。
改めてそう思うと共に、
「よくよく考えればその結果も考えられたというのに、悪い結果ばかりを考えてしまったのに、私、反省でございます」
「茶々も悪い結果ばかりを考えていたわよ。本当に、ここまで上手くいくとは思っていなかった。朱実と真白には感謝しなくちゃ」
「はい。私も、あのお二方に改めて敬意を払いたいと思います」
「――そして、ね」
と、茶々様は席から立ち、トコトコと向かいの席にいる私の隣席に腰を落ち着けてから。
先ほどから抱いているわずかな緊張と共に、私を見てきます。
いつ見ても可愛らしいそのお顔と、今こちらに向けてくるその瞳の真っ直ぐさに、私は思わず息を呑んでしまいました。
それから、
「ここまで茶々がたどり着けたのは、あなたのおかげよ、奈央」
「茶々様……?」
「あなたが茶々の壊れそうな感情を受け止めてくれたから、茶々はまた立ち上がることが出来た。あなたが送り出してくれたから、茶々は前に進むことが出来た。今、あなたがここに居るから、茶々は……いつまでも、自分らしく居られることが出来ると、確信したの」
「え……」
「だから、言うね」
一つ、深呼吸して、
「愛してるわ、奈央」
「――――」
その言葉が、茶々様の口から飛び出たとき。
私は一瞬、何もかもが停止しそうな心地を得ました。
茶々様が、私を?
今さっき想いを朱実様や真白様に告げてきたばかりなのでは?
……といいつつも、複数の方を愛することに理解を示したのは、間違いなく私自身。
となると、茶々様の愛するその複数に、私も含まれていた……?
否、これは――
「茶々様、これは、ま、また、練習なのでしょうか?」
「練習……あ……」
そう。
二ヶ月前、学校に転入したての頃、好意を告げる練習として茶々様は私に『好き』と言った(ACT77.8参照)のを思い出しました。
となると、これから先、また朱実様や真白様に好意を伝えるのに、私と練習されていると思えば納得――
「ち、違うの! 奈央、あの時のことは悪かったわ。今回のは練習なんかじゃないからっ!」
しかけたところで、茶々様がわたわたと慌てて手を振りながら、言ってきました。
その仕草が、前足をタンタンさせてご主人様に構いたがっているわんこのように見えて、ちょっと和んでしまったのは秘密です。
……それはともかく。
「茶々はね、前々から気付いていたの。あなたが居るから茶々は前に進めるけど、逆に言うと、あなたが居ないと茶々はダメなんだって」
「な……そ、そんなことは」
「あるわ。昔から、茶々のピンチには奈央が駆けつけてきてくれたし、さっき茶々がぐちゃぐちゃになっていた時だって、奈央が居なかったらどうなていたかわからない」
「…………」
「奈央には本当に感謝しているし、それ以上に、茶々は奈央のことを誰よりも手放したくない。奈央には、いつも隣にいてほしい。支えていてほしい。そして――」
一つ、深呼吸して、
「昔のように。茶々のことを、抱き締めてほしい」
その言葉を、告げられたとき。
私は、伏せた目を開けて、改めて茶々様のお顔を見ました。
とても可愛らしく、そして、とても精一杯の勇気と共に、己の素直な気持ちを告げる、そんな彼女のことを。
「――茶々様」
自然と、抱き締めていました。
強く、強く。
「ずっと、初めて出会った頃から、あなたをお慕いしておりました」
「うん」
「ただ、近づきすぎていては主を守れなくなる、という大旦那様の言葉を受けて、いつしか、あなたに一歩距離を置いてしまいました」
「うん」
「あなたが朱実様に恋心を抱いたとき、その言葉の通りに、あなたに近づきすぎてはならない、と心に決めました」
「うん」
「ずっと、あなたのことを守り続けることを胸に、私は今日まで生きていました」
「うん」
「でも……それでも……!」
ああ。
これを告げると、もう戻れない。
でも、この子は前に進むと、もう決めた。
ならば。
隣に立つために、私も。
――躊躇わずに、前に進もう。
「愛してるよ、茶々」
「うん」
「昔も今も、私はずっと、こうやって茶々のことを抱き締めたかったよ」
「うん」
「そして、これからも。私は、茶々を抱き締めたいよ」
「うんっ!」
言い切った後に、茶々様は私のことを抱き返してくれました。
私の力に負けないくらいに、力強く。
それだけで、わかります。
今、八葉茶々は、世界で一番、私のことを愛してくれていることを。
「奈央」
「なに、茶々」
「口調も呼び方も、いつの間にか会った頃に戻ってるわね。さっき茶々が泣いてたときもそうだったけど」
「あ……も、申し訳ございません、茶々様。私、とんだご無礼を」
「いいのよ。お爺様の教えも正しいのでしょうけど、奈央は、奈央のやり方で茶々の隣にいてほしいもの」
「ですが……」
「じゃあ、そうね。茶々と二人っきりの時だけ、また『茶々』って呼んで?」
「!」
「で、その時は茶々のことをいっぱい抱き締めて、そしていっぱいに愛してちょうだいね?」
「…………はい」
「奈央」
「あ……こ、コホン。わかったよ、茶々」
「よろしい」
ついこの間、この子のために自分を偽ろうと決めた私なのに。
自分を偽らず、とってもとっても素直になったこの子は自分の気持ちを表にさらけ出したばかりか、私の本当の気持ちも表に引っ張り出してくれるまでに至るなんて。
少なくとも、私には予想できなかった未来に、このようにたどり着いた今。
私がつくづく思うことは――
まったく、わからないものですね。
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