エピローグ

 夏は終わり、また新しい季節がやってくる。


 五十嵐先輩とデートをして、悠宇香が俺の前から姿を消そうとしたあの日から、もう三カ月以上が経過した。

 残暑もとっくに過ぎ去り、木の葉が徐々に落ち始めた秋の暮れ。

 十月二十四日。俺と悠宇香は、都内のとある美術館に足を運んでいた。何年か前に建設された、かなり大規模な美術館だ。

 何か展示を見に来たというわけではない。もっと他に、ここへ来なければならない理由があった。それもスーツ着用で。


「なんかえらいことになったな……」

「そうだねー……」


 床も壁も天井も、すべてが白で統一された、だだっぴろいギャラリーの中。

 静謐な雰囲気すら漂う室内で、俺たちは展示スペースの一角に飾られた一枚の油絵の前に立っていた。周囲の作品よりも、少しだけ目立つように配置された場所だ。

 五十号のキャンバスを縦長に使用したその絵の脇には、タイトルと作者名が書かれたプレートが貼られている。


『題:「七月二十五日」 作:林道恵一  榊展特別賞』


 ――言うまでもなく、俺の絵だ。


 三カ月前の七月。

 あの夜、悠宇香を描くことに決めた俺は、まだほとんど進んでいなかった制作途中のキャンバスに手を付けた。それはもう怒涛の勢いで描き始めた。学校へ行く時間さえ惜しいとキャンバスを家に持ち帰り、一日中部屋に籠ってひたすら筆を動かした。あまりにも精力的過ぎて、逆に悠宇香が心配するほどに。両親にも精神状態を案じられたし、事情を教えておいた竹内からは『ちゃんと飯食えよ?』と何故かLサイズのピザが三枚配達されてきた(現金払いだったので俺が支払う羽目になった)。

 とはいえ、死力を尽くしたおかげで締め切りに間に合ったかといえば、そうではない。課題制作の提出期限である七月末までに、俺はその絵を完成させることができなかった。人間、作業量の限界というものは存在する。十日弱で一気呵成に仕上げられるほど、五十号というサイズは甘くない。

 そんな訳で、結局未完成のまま提出することになったのだけれど――意外にも、教授は俺の絵に好意的だった。

 前は散々怒鳴られたのに、今回は『青臭いところがすごくいい。一体どうしたんだ? 早く描き上げてくれ』と褒められた挙句に催促されたのだ。正直単位を落とすくらいの心意気で臨んだのだが、肩透かしもいいところである。

 俺は首を捻りながらその後の一カ月を使ってどうにか絵を仕上げ、夏休み明け、再び教授に提出した。

 そうしたら今度は絶賛されて、『榊展に出してみないか?』なんて仰られる。

 榊展――五十嵐先輩が絵を出すつもりだと言っていた、あの公募展だ。

 おいおい冗談だろと思いつつも細かい調整を繰り返し、実際に出品してみたら、こんな風に賞のひとつを貰って作品展に飾られることになった。

 特別賞。

 最も優れた作品に与えられる賞ではない。上には大賞や優秀賞、都知事賞に榊記念賞なんてものもある。

 しかしこの競争率の激しい公募展で名前付きの賞を貰うなんて、今までの俺には考えられなかったことだ。周りに並んでいる七十数点の入選作たちを差し置いて、俺の絵が選ばれていいのだろうかという気さえする。


「ケーイチ、また『俺なんかが』って思ってる?」


 俺の思考を先読みしたのか、隣でふわりと浮いている悠宇香が呟いた。


「……いや、まあ、ちょっとだけな」

「もー、自信持ちなって。モデルになったわたしが言うのもなんだけど、この絵はやっぱりすごく良い絵だと思うよ」

「そうかな?」

「うん。今までケーイチが描いてきたどんな絵より、わたしは好きですねー」


 微笑みながらそう言われて、俺は再び目の前の油絵に目を向ける。

 まあ正直、賞なんてどうでもよかった。

 誰かの評価なんかよりも、この絵を描き切れたことそれ自体に意義がある。


 俺が描いたのは、純度百パーセントの妄想であり、願望だ。

 舞台は夏の――あの五年前の夜の河川敷。

 べったりと塗り込まれたどす黒い夜空の中には、不格好に捻じれた大きな花火が幾つも幾つも打ちあがり、眩しいくらいの鮮やかさで画面の半分以上を埋め尽くしている。

 そしてその下には数えきれないほどの見物客がいて、一番手前には一人の少女。

 座り込んで花火を見ながら、こちらに笑いかけている彼女こそ――悠宇香だ。

 そこに描かれた悠宇香は普段見慣れたセーラー服ではなく、桔梗の柄が入った薄紫色の浴衣を身に着けていた。さらに首元まで伸ばした黒髪を軽く後ろでまとめ、かんざしめいたピンで留めている。手には林檎飴を二本も持っていて、その両方に一口齧られた跡があった。

 ――要するに、これはみっともない後悔であり、執着の発露なのだ。

 あの夜叶わなかった夏の夢。俺がただ一言『いいよ』と悠宇香の誘いを受けていれば実現したのに、それでも掴み損ねた蜃気楼のような幻想。

 多分俺の両親や水上家のみんなに見られたら、また頭がおかしくなったんじゃないかと思われるだろう。

 ただ、それでも俺はこの情景を描きたかった。

 過去を乗り越えるためでも、受け入れるためでもなく。

 後悔したまま、執着したまま、縋ったまま、この先を生きていくと決めた証として。

 そしてそのついでに、こんな女の子がいたんだと、今も存在しているんだと、この絵を見た人たちに僅かでも感じてもらえれば幸いだと思う。

 そういう意味も込めて、実はこの絵の一部には悠宇香の手が加えられている。

 手を加えたというより――文字通り、手形だ。

 リモコンやスマホを触るのと同じように、パレットに広げた真っ赤な油絵の具を触ってもらい、出来うる限りの力でキャンバスに叩きつけてもらったのだ。力士の張り手みたいな勢いで頑張ってくれた。

 それだけ聞くと『幽霊の手の跡がついたいわくつきの絵』だと思われるかもしれないが、その心配はない。

 悠宇香がキャンバスにつけた手形は、その後に描く花火の起点にした。だからこの絵に描かれている花火は、どこか歪で捻じ曲がっているし、それがある種悠宇香の存在証明になっている。

 まあ俺たちの自己満足の範疇に過ぎないけれど、こっそりほくそ笑む分に構わないだろう。


「……うん、我ながら良い出来かもな」


 目の前の絵をじっくり見直した俺は、嘘偽りない気持ちでそう呟いた。

 それを聞いて、悠宇香が嬉しそうに笑う。


「そうだね、きっと将来高く売れるよ。そのお金で私のお墓を増築しよう」

「お前冗談でもそんなこと言っちゃ駄目だろ」

「へへへー、ごめんなさい」

「相変わらずジョークの垣根を悠々と飛び越える奴だな……」


 悪びれずにその場をくるくる回る悠宇香を見て、軽くため息を吐く。

 と、その時――後ろから唐突に肩を叩かれた。

 それも、痛いくらいに結構強く。


「よー、テル、おめでとさーん!」

「おお、なんだ竹内か……」


 振り向くと、同学科の友人、竹内がすぐ後ろに立っていた。

 相も変わらず、場の雰囲気にそぐわない真っ赤なアロハシャツ姿を着ていて、癖の強い天然パーマはあらゆる方向に飛び跳ねている。

 というか十月下旬にアロハシャツって。去年は冬もアロハで通していたし、本当に一年中服装が変わらない男だ。身体構造が同じ人間だとは思えない。

 さらによく見ると古風な下駄を履いていることに気づいて、俺は絶句した。


「タケ、お前本当に足音立てないな……どういうことだよ……。驚いたどころじゃないぞ」

「前にも言ったろ? クセになってんだよ、足音殺して歩くの――ってこの下りはもう飽きたな」

「俺としてはもう少し突っ込みたいところなんだけど……まあいいか。で、今日はどうしたんだ? 来るなんて聞いてないぞ」


 首を傾げながら尋ねると、竹内は胸を張ってにやけた笑みを浮かべた。


「いやいや、親友の晴れ舞台にオレが来ないわけないだろ? 授賞式に忍び込んで、緊張しきったテルの姿を撮りまくろうと思ってな。色々予定を無視して駆けつけた」

「ありがたいんだか迷惑なんだか分からないな……」


 苦笑いして頬を掻く。堂々と恥ずかしい言葉を吐くなぁ、こいつは。


「ケーイチケーイチ! 照れてないで、ちゃんとお礼言わなきゃダメだよ! 竹内君だってけっこう忙しいはずなんだから!」


 会話を見守っていた悠宇香が横から割り込んだ。分かってる分かってる。

 竹内は近々交換留学生として海外に飛ぶらしく、その準備で忙しいのだとか。口調は軽いが、本当に貴重な時間を割いて足を運んでくれたのだろう。


「……まあ、その、サンキューな。素直に嬉しいわ」

「お、テルから礼を言われるなんて珍しい。どっか頭ぶつけたか? 包帯なら持ってるぞ? 三ロール分」

「いやぶつけてないし何で持ってるんだよ。恥ずかしくなるから茶化すなよ」

「ははは。とにかく、おめでたいこったな。家に引き籠って学校来なくなった時はどうしたもんかと心配したが、まさかこうなるとは。特別賞だっけ? すげえよ、テル」

「いやお前の方がもっと凄いと思うけどな……」


 心底そう思いながら、俺はまた照れ臭くなって顔を背けると、


「それに、やっぱり五十嵐先輩には敵わなかったよ」


 自分の絵が展示されているスペースの向こう側。数メートル離れた壁に飾られた、とてつもなく巨大な日本画と――その前で来賓に囲まれている五十嵐先輩の姿を指差した。

 そう。三カ月前に水族館で宣言した通り、彼女は榊展に自作を出品して、まるで当然のように最優秀賞をもぎ取っていったのだ。結果を知った時は驚きを通り越して唖然とした。本当に恐ろしい人である。


「ああ……確かに五十嵐先輩はやべーな。うちの学校の話題を独占するのも仕方ない」


 五十嵐先輩の方を向いて、さしもの竹内も戦慄したように呟く。


「あの人は本物だね。余計な感情とか全部切り離して、表現したいもののために徹底的に突き詰められるタイプの人間だ。しかも遊びはないのに絵は面白いっつーか、隙が無いにも程がある」

「そうなのか……?」

「そうなの?」


 やたら真面目な顔で考察されたけれど、俺も悠宇香もピンと来ない。天才肌同士、分かるものがあるということなのだろうか。


「ま、テルは分かんなくていいと思うぜ。多分、この前みたいにがむしゃらに描いてた方が上手くいく」

「うーん……得心が行かないけど、お前がそう言うんなら参考にしよう」

「おう、どんどん参考にしろ参考に。さらに言えば、テルの場合――っと。すまんメールだ」


 俺と悠宇香がうんうんと頷いている最中、唐突に竹内のアロハシャツの胸ポケットから振動音が響いた。

 彼はそこから自身のスマートフォンを取り出すと、画面を一読して「あ、やべ」と声を漏らし、


「すまん、ちょっと急用が入っちまったらしい。悪いんだけど、オレはここでお暇させて頂くわ」

「ああ、別に構わないけど……俺の方こそ悪いな、忙しいのに来てもらっちゃったみたいで」

「いいってことよ。授賞式でテルの阿呆面を撮れないのは残念だがね」

「さっさと帰れ」

「おー怖い怖い。んじゃ、また今度な」

「ああ、じゃあな」


 そんな風に少しだけ会話を交わして、竹内は本当にすぐさま去っていった。

 とんぼ返りというか、立つ鳥跡を濁さずというか、とにかく忙しない。


「本当に良い人だねー竹内君は。ケーイチ、もっとありがたがるべきだよー? 大事にしていかなきゃ、ユウジョウ!」

「いや、友情て。いいんだよ。そんな普段から面と向かって感謝の言葉とか口にできるか。これくらい適当なくらいで丁度いいの」

「親しき仲にも礼儀あり、って言うじゃない?」

「礼があり過ぎたらもはや他人になっちまうだろ。距離感は大事だ」

「なるほど、一理あります」


 悠宇香がすっと手を上げて頷き、授業中の生徒のように頷いた。セーラー服の彼女がそんな仕草をすると、中学時代の教室を思い出して懐かしくなる。

 とはいえ俺の思考はそんなノスタルジックな回想に飛ぶことはなく、代わりに後ろから近付いてきた足音に気を取られた。

 一瞬竹内が戻ってきたのかと思ったが、あいつは足音を殺している(らしい)ので別人だろう。

 振り向くと、何のことはない。

 来賓の輪から抜け出した五十嵐先輩が、俺の方へ歩いてきていた。


「やっほー、テルくん。受賞おめでとう!」


 快活に微笑みながら、先輩は俺の前で足を止める。

 この後に授賞式が控えているからだろう。スーツ姿の俺と同じく、彼女はいつもよりフォーマルな格好をしていた。普段ポニーテールで通している髪を後頭部でアップに編み込み、成人式で着るような白っぽい振袖に身を包んでいる。

 もっとも、声色自体はいつもと変わらない。気さくで、話しやすくて、少し距離が近い。そんな口調と雰囲気だ。


「先輩こそ、最優秀賞おめでとうございます」

「おめでとうございます、五十嵐さん!」


 俺と悠宇香は口を揃えて言った。もちろん、向こうに聞こえているのは一人分の言葉だけだが。


「あはは、ありがとう。いやー、本当はもっと早くテルくんと話したかったんだけど、お偉いさん方に囲まれちゃってね。こっちに来るのに手間取っちゃった」

「無理もないですよ。先輩は今日の主役みたいなもんですから」

「それは言い過ぎ。受賞者も入選者もみんな主役だからね。もちろん、テルくんもそう」


 すぐ横に飾られた俺の絵を指差して、先輩がにっこりと笑う。


「本当、私の見込んだ通りだったよ。まあ、こんなに早く芽が出るとは思わなかったけどね。一体どこにこんな情熱隠し持ってたのさ?」

「いや、情熱というか……ただ自分の願望を正直に描くことにしただけです。そもそも先輩が俺の絵について話してくれていなかったら、こんな風に描けばいいって気づきませんでした」

「ああ……水族館の時のあれかな。先輩風吹かせ過ぎたかなぁって後悔してたんだけど、何かヒントになったなら良かった」

「ヒントどころか突破口でしたよ。やっぱり先輩は偉大です。大先輩です」

「ちょっと、だからからかわないでって」


 本当に照れた顔つきで、五十嵐先輩は目を逸らした。うん、いつも尊敬の念が伝わらないなと思っていたけれど、これは俺のせいかもしれない。ついつい真っ向から言うのが気恥ずかしくて、少し冗談めいた言い方をしてしまう。

 変な空気になったのを振り払うように、先輩はこほんと咳払いをすると、表情を戻して話題を変えた。


「というか、この前はありがとうね、テルくん。水上八段を紹介してくれて」

「え? ああ、あの件ですか――」


 水上八段。すなわち悠宇香の父親、水上善吾さんのことである。

 数週間ほど前、俺は五十嵐先輩に彼のことを紹介した。いや、紹介したというよりも、少しだけ会わせたと言った方が正しいか。

 話は先月まで遡る。 

 デートをしたあの日、展望台に行こうという先輩の誘いを断った俺は、翌日すぐに謝罪のメッセージを送った。しかし悠宇香が『それじゃ足りないよ』と強く言うので、絵を描き上げ、夏休みが明けた九月、ボードゲーム同好会で会った時に再び詫びを入れたのだ。菓子折り――東京銘菓のひよこを片手に。

 まあ結局、先輩は『そんなに謝らなくていいのに』と笑って許してくれたのだが、そこで同時に、あの日聞かされるはずだった『大事な話』とやらの真相を知ることになった。


『実は……その、私……テルくんに水上八段を紹介してもらいたいの!』


 何分間も言い淀んだ挙句、ついに発せられた先輩の言葉は、告白でもなんでもない予想外の頼み事だった。

 正直本気で告白を覚悟していた俺と悠宇香は、思わず顔を見合わせて激しい羞恥心に見舞われた。完全に誤解して決めつけてしまっていた。

 何でも無類の将棋好きである五十嵐先輩は、それこそ幼少期の頃から、振り飛車の第一人者である水上八段――善吾さんの大ファンだったらしい。聞くところによれば、先輩は高校時代に全国高校将棋竜王戦に出場するほどの実力者であり、ずっと善吾さんに一目会う機会を窺っていたのだとか。絵が恐ろしく上手いくせに、将棋もそこまでのレベルだなんて尋常ではない。悠宇香が『強い』と言うわけだ。

 とはいえ、善吾さんはベテランのプロ棋士としては公開対局が少ないし、指導対局なんかもほとんど行っていない。いくら将棋が強いとはいえ、アマチュアである先輩が彼に会える機会は恐ろしく少ないだろう。

 しかし仕方がないと諦めていた矢先――七月の頭、先輩はとあるレストランで俺と善吾さんが親しげに会話している姿を発見した。そう、俺が善吾さんに分厚いステーキを御馳走してもらった夜である。

 とてつもない偶然だが、あの店はそもそも棋士の間で有名であり、コアな将棋ファンの中にはわざわざ出向く人間もいるらしい。五十嵐先輩もその筋だったのだとか。低い可能性とはいえ、一応有り得る邂逅だったわけだ。

 俺と善吾さんがまるで家族のように親しいことを知った先輩は、激しく悩んだ。

 本当に少しだけ、一言会話するだけでもいいから、会ってみたい。ただそれは友達に芸能人を紹介してもらうような、アンフェアで無作法な行為であり、実際に頼むには相当の胆力が必要だった。それこそ、わざわざ二人きりの時間を作って場を整えるほどに。

 まったく、とんだ勘違いだったということだ。俺に多少の興味を抱いてくれていること自体は事実なのだろうと思うけれど、少なくともあのデートに関してはそんな目的があったらしい。

 なお、五十嵐先輩の頼みを聞いた俺は『あ、いいっすよ』と二つ返事でオーケーし、後日人の少ないファミレスで二人を引き会わせた。そんなロケーションで大丈夫なのかと感じるかもしれないが、それくらい気軽な方がいい。善吾さんだってただのおじさんだ。

 先輩は今まで見たことがないくらい緊張していたけれど、善吾さんは優しく対応してくれたし、タブレットの将棋アプリで軽く対局なんかもして『筋が良い』と褒められていた。かなり満足してくれたと思う。俺も悠宇香も微笑ましい気分でそれを見守っていた。


「あれくらいどうってことないですよ。近所のおじさんに会わせただけです」


 心底そう思いながら、俺は言う。


「うーん。プロ棋士に個人的に会いたい、ってお願いがどれだけ図々しいものなのか、テルくんは正しく理解していないみたいだね……」

「……そんなもんですかね?」

「……そんなもんかなぁ?」


 善吾さんに対する認識が『お父さん』『幼馴染の父』である悠宇香と俺は、揃って首を傾げた。なんだろう、彼に関してはテレビに出るような凄い人というよりも、気のいい普通の人だという印象の方が強い。

 先輩はその反応に対してしばし「むーっ」と唸っていたが、結局いつもの表情に戻って肩の力を抜いた。


「ま、いいか。とにかくありがとうね。今度水上八段に会ったらよろしく。一生の思い出になったよ」

「そんな大袈裟な」

「私にとっては大袈裟な話なの。榊展の最優秀賞受賞者として今この場にいる、ってことと同じくらいね。……そうだ、テルくんも何か頼みがあったら聞くよ? 何でもとは言わないけど、大抵のお願いなら聞いてあげる」

「わー。そりゃ、すごい権利っすね」


 学部の連中に自慢したら、嫉妬と憎悪で市中引き回しにされそうなほどの役得だ。

 悠宇香なんて隣で「ひゃ~」と顔を赤くしている。いやいや、俺が何かやらしいお願い事でもすると思っているのかお前は。


「ま、そうですね……今度良い画材屋でも紹介してください。それくらいで十分です」


 結局、大して迷いもせずに俺はそう答えた。


「そんなことでいいの? というか、画材屋なら駅前の世界堂でいいじゃない」

「もっとコアなところが知りたいんですよ。先輩なら色々知ってるでしょう? 今回の絵に使ったパネルだって特注品みたいだし」

「うん、そうだけど……もっと大きな頼みでも……」

「ギャルのパンティーおくれ、とか?」

「それ、元ネタ知ってなかったらセクハラだよ? どっちにしろ無理だし」

「残念です」

「…………。最近のテルくんは会話に壁を感じることが少なくなって嬉しいよ。まあ、君がそう言うならそれでいいか。今度、面白い画材屋さんに連れて行ってあげる」

「よっしゃ。楽しみにしておきますね」


 うん、普通に嬉しい。

 俺と先輩の距離感としては、これくらいが丁度いいところだろう。

 ちょっと親しい、けれど恋人以上には決してならない。そんな関係。

 それでいいし、それがいい。悠宇香を選んだ俺は、多分他の女の子に本気で好意を寄せることはもう二度とないのだと思う。誰かと付き合ったりもしないし、結婚なんて以ての外。それが過去に囚われることを肯定した俺の選択であり、これから変わることのない生き方だ。


 会話の区切りがいいところを見計らったわけでもあるまいが、そこで俺たちの耳に館内アナウンスが鳴り響いた。


『来館の皆様にご連絡申し上げます。この後午前十一時より、地下一階大広間にて、第三十八回榊展授賞式を行います。ご出席の方々は指定の席に座ってお待ちください。繰り返します――』


「あ、もうそんな時間か! 私、壇上に上がる前にちょっと準備があるから、先行くね! ごめんテルくん!」

「いえ、全然構わないですよ。俺はぎりぎりになったら行きますから」

「うん、じゃあまた後で!」


 五十嵐先輩は割と焦った様子で、しかし館内を駆けたりはせずに俺の前から去っていった。完璧なようで案外抜けている人である。

 俺はふっと息を吐くと、再び目の前の自分の絵に向き直った。


「ケーイチは急がなくていいの?」


 五十嵐先輩に手を振って見送った悠宇香が、すとんと床に足を付けて尋ねる。

 浮遊していないと、俺との目線の差が随分と大きい。まるっきり、中学二年生の女の子の背丈だ。


「ああ。もちろん遅刻するつもりはないけど、少しくらいならいいだろ」

「そっか」


 授賞式に出席するためか、ギャラリーからはどんどん人が消えていく。

 ただでさえ私語が少なかったのに、こうも人が減るとまるで教会みたいな静けさが漂ってくる。

 悠宇香は俺と同じようにじっと花火の絵を――あの夏にあるべきだった光景を見つめて、ぽつりとこちらへ問いかけた。


「五年前のあの日の事、後悔してる?」

「してる」

「忘れようとは思わない?」

「思わない」

「やっぱりわたしがいなくなった方がいいとか――」

「一ミリも考えない」


 強い口調で即座に返答する。最後の方は悠宇香の言葉に被せ気味になった。

 既に決めたことを蒸し返す奴だ。あるいは、この問答は確認作業なのだろうか。これからも悠宇香はこんな風に、俺に対して『まだ間に合うよ』と意地の悪い手を差し伸べるつもりなのかもしれない。人生の節々で、選択の機会を与えてくるのかもしれない。

 甘く見られたものだ。

 俺の執着は、たかが人生一回分の間に断ち切れるほど脆い代物じゃない。

 この絵だってほんの氷山の一角なのだ。

 これからも俺は悠宇香のことを描くだろう。本来なら一緒に人生を歩むことができた幼馴染の幻として。死んでなお、隣にいてくれる儚い幽霊として。

 本当は間違っているのかもしれない。悠宇香の言う通り、忘れて受け入れて前を向いた方が正しいのかもしれない。

 ただ、人は後ろを向いても歩いていける。前方不注意で何かにぶつかることはあるかもしれないけれど、それでも前には進んではいける。

 だから多分、大丈夫なのだ。


「それじゃ、行こうか。悠宇香。これからの第一歩を踏みに」

「うん。まずは授賞式でパイプ椅子使って大暴れして、画壇にパンクな鮮烈デビューを飾りましょう」

「いや、だから冗談でも言っていいことと悪いことがあるって」

「ええー? じゃあ受賞者インタビューで一曲歌おうよ。林道恵一で天城越え!」

「お前好きだなそれ。歌わないよ。仮に歌ったとしても越えられるのは変人認定のハードルだけだよ」

「あははー」

「こんにゃろう……」


 互いに笑い合いつつ、俺たちは歩き出した。一歩一歩、丁寧に。


 あの夏を抱えながら。

 ずっと先まで続いている未来に向かって。



(了)

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ゴーストヒューマンディスタンス 針手 凡一 @bonhari333

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