第七話 素敵な先輩

「見て見てテルくん、あのゆったり泳いでる細長いサメ! 虎みたいなまだら模様をしているからトラフザメって名前なんだけど、私はあの子が大のお気に入りでね。可愛くて可愛くて、毎回見かけるたびにバンバン写真撮っちゃうんだ。ほら今も連写しちゃう」


 ぱしゃしゃしゃしゃしゃ、と。明らかにはしゃいだ様子の五十嵐先輩が床にしゃがみ込み、目の前の大きな水槽に向かって一眼レフのシャッターを切りまくる。


「可愛いかどうかはともかく、たしかに虎っぽい柄のサメっすね。なんだか模様がボヤけてて、解像度が低いテクスチャを無理やり貼り付けたみたいだ」

「言い得て妙だけど情緒がないね? それよりこの子、本当は夜行性だから今動いているのは珍しいよ。アングルも絶妙だし、テルくんも写真撮っておけば? 資料になるなる」

「そうですね。せっかくだし俺も一枚」


 先輩の隣に並んで、俺も自身のスマホを取り出した。ガラスを隔てた向こう側を泳ぐサメにどうにか焦点を合わせて、目の前を通りがかった瞬間にシャッターを切る。

 しかし室内が暗い上、やたら水槽の中が青いので、カメラロールに残った写真はどうにも色調のバランスが取れていないものになってしまった。こういう場所で素人がうまく写真を撮るのは難しいらしい。


「あ、ほら! あっちにはシマネコザメもいるよ! あれなら文句なしに可愛いでしょう! 来て来て早く」

「分かりました、行きます行きます」


 目ざとく別の水槽に目を付けた先輩が、俺の服の裾を引っ張って催促してくる。完全にアウェイだなぁと思いながら、俺は彼女の後を追った。


 ――言うまでもなく、水族館である。 

 二人で出掛ける場所として、五十嵐先輩が指定したのがここだった。サメやペンギンその他魚類はもちろん、派手なイルカショーに爬虫類園、水中トンネルにプロジェクションマッピング施設まで完備した、都内有数の大規模水族館。

 どうやら五十嵐先輩は各地の水族館へ足を運ぶ趣味があるらしく、ここはその中でも特にお気に入りの場所なのだとか。次に描く絵の資料写真集めも兼ねて、俺をここに連れてきたかったらしい。

 先輩をエスコートしようと気合を入れていた俺だったが、逆に館内を案内されている状況である。まあ、彼女のホームグラウンドでエスコートするも何もない。上げ過ぎたテンションを普段通りに戻して、大人しく先輩についていくことにした。

 というか、この状況はそれなりに居心地が良かった。

 元々、俺は動物園や水族館や美術館なんかを見て回ることが嫌いじゃない。柵の中の動物を見ていまだ小学生のように夢中になれるし、巨匠の絵画展なんて何周でも見て回れる。無心で眺めるのが好きなのだ。おそらく、前にそのことを五十嵐先輩に話したことがあったのだろう。だからこそのチョイスだと思われる。

 先輩の案内も絶妙だった。下手な通のように片っ端から解説を聞かせてくることもなく、『この魚はここがかわいい』『こいつはちょっと触りたくないよね』というように私見を交えながら愉快に先導してくれる。ふらっと別々の水槽に夢中になる無言の時間も不快ではないし、何より一緒に楽しんでくれていることが見て取れてすごく気が楽だ。

 誘いのメッセージの文言にあった『大事な話がある』という重そうな件にも全く触れてこないし、いつものように肩の力を抜いて会話していられる。

 デートだとなんだと身構えていたけれど、もっと純粋に楽しんでもいいのかもしれない。悠宇香もまあ、それで許してくれるだろう。


 薄暗い館内を五十嵐先輩と共に進んでいく。時刻は正午過ぎ。既に入場してから一時間半以上が経過していたが、展示が充実していることもあり、まだ三分の一以上も道程が残っていた。


「そういえば先輩。絵の資料集めがしたいって言ってましたけど、次は魚か何かを描くんですか?」


 太平洋の生物が展示されているコーナーを巡りながら、ふと尋ねる。

 五十嵐先輩は夢中になって撮影に励んでいた手を止めると、少し悩んだ様子を見せてから、歯切れの悪い口調で答えた。


「一応、そうしようとは思っているけど……まだ未定かな」


 首に提げた一眼レフから手を放し、アメリカ人のように『やれやれ』というジェスチャーをとる先輩。この人がやるとやけにサマになっているものだから面白い。

 彼女はぐっと身体を伸ばした後、少し真剣な表情で呟いた。


「私、今年は榊展に一枚出そうと思っててさ。でも中々いい案が浮かばなくて悩み中なの。……あ、榊展って知ってるよね?」

「ええ、まあ」


 榊展は、国内の大手画廊が主催している若手作家向けの絵画コンクールだ。歴代の受賞者の中には現在世界的に活躍している画家も多く、業界では一種の登竜門として呼び声が高い。

 正直レベルが高すぎて眼中にもなかったが……そうか、五十嵐先輩ほどの人ともなればあのコンクールも視野に入るのか。


「締め切りは十月だから、あんまり時間があるとは言えないんだよね。テルくんは出したりしないの?」

「まさか。俺なんかが出したって、箸にも棒にもかかりませんよ」

「そうかなぁ」

「当たり前じゃないですか。大体、俺は今月末の課題制作の提出だって危ういくらいの劣等生なんですよ?」

「え、そんなに大変な状況だったの?」


 俺の自嘲気味の暴露に対し、五十嵐先輩が目を見開く。どうやら本当に『課題がヤバイ』という言葉を信じていなかったようだ。


「じゃあ、今日誘うべきじゃなかったかな……大丈夫……?」

「心配ありません。オーケーしたのは俺じゃないですか。一日描かないくらいで終わらないのなら、どっちみち完成しませんよ」

「うーん。まあそう言ってくれるならいいんだけど……ありがとね」


 正確には一日どころかここ数週間ずっと描けていないし、そもそもデートを了承したのは悠宇香なのだが、五十嵐先輩に余計な気遣いをさせる必要もないだろう。言わぬが花だと思って黙っておく。そもそも、絵が進んでいないのは自分自身の責任に他ならない。


「あ、でもテルくん。箸にも棒にもかからないっていうのは言い過ぎだと思うよ。去年の学園祭の時に油画科の展示で見たんだけど、君、相当描けるでしょう。同年代であんなに技術がある学生滅多にいないよ」

「いやいや、世辞はやめてくださいって」

「お世辞なんかじゃないよ。本気だよ。むしろあれだけ描けるのにそんなに自己評価が低いのはどうかと思うな」

「そう言われましても……」


 五十嵐先輩に一歩詰め寄られて、思わず近くの水槽へと視線を逃がす。

 そんなに持ち上げられても、俺は俺の絵を良いものだと思っていない。流されるまま、美大に入ってしまったのだからという理由でなんとなく描いているだけの代物だ。先輩のような本物とは違う。

 彼女は掛け値なしの傑物だ。なにせ天下の東京藝大に現役で合格したというのに、尊敬する教授がいるから、こっちの方が自分に合っていると思うから、という理由だけでうちの美大に進学した唯我独尊の変わり種である。

 実力だって半端じゃない。日本画科に在籍してはいるが、油画もアクリル画も水墨画も、人物画も風景画も抽象画も、絵であればなんだであれ驚異的なクオリティで仕上げてしまう。それこそ、その道一本の人間が見れば頭を抱えたくなるくらいに。しかもどの技法、どの画材を使おうが、彼女が描くテーマは根底で常に共通していてブレがない。だから絵にも先輩特有の雰囲気や世界観が必ず現れるし、それが評価されて何度か大きなコンクールの賞も獲っている。新進気鋭の若手画家たちを紹介する地上波の番組に、美人過ぎるアーティストとして出演したこともあった。

 今俺と一緒に出掛けていることが不思議なくらい、凄まじい人なのだ。 


「……先輩と比べたら、俺なんてホントどうしようもない奴ですから。この前だって教授に『何が描きたいのか全然見えてこない』ってボロクソに言われましたし。あんなに罵倒されたの、同級生の中で俺だけでしたよ」


 半笑いしながら軽く言う。空気が重くなってはたまらない。

 五十嵐先輩は再び自分を卑下する言葉を発した俺に呆れることも怒ることもなく、こちらを向いて穏やかな笑みを浮かべた。


「落ち込むことないよ、テルくん。多分その教授って油画科の菊池先生でしょう?」

「ええ、まあ」

「やっぱり。じゃあきっと、もったいないと思ったから言い過ぎちゃったんだよ」

「もったいない?」

「そ。あの先生、やたら生徒の絵に入れ込んじゃうくせに、言葉足らずなところがあるから。テル君の絵を見て、『こんなに上手いのに、どうして肝心のテーマが希薄なんだ! 芯の部分さえ出来ていれば、素晴らしい絵になったはずだろうに!』って感じたんだと思う」

「そうですかね……?」


 にわかには信じがたい。

 怒号と一緒に唾まで飛ばしてきた、年配の教授の赤ら顔を思い出す。五十嵐先輩の推測が真実だとすれば、確かにとんでもなく言葉足らずな人なだろう。正直、同級生たちの前で激しく叱責されたトラウマしか残っていないし、回想するだけでもお腹が痛くなってきた。


「というか、俺の絵に芯がないという点については先輩も同じ意見なんですね」

「まあね。何というか、テルくんの絵には怖いくらいに欲がないから」


 すぐ隣の水槽を眺めながら、五十嵐先輩が頷く。

 水槽の中では、赤みがかったクラゲたちがふわりふわりと漂っている。泳いでいるのか、ただ流されているのか、それが分からないくらいにゆったりと。


「普通はね。絵には描き手の理想とか、欲望とか、そういうものが少なからず現れるはずなんだよ。たとえ模写だったとしてもそう。こうしたいなぁ、ああしたいなぁ、って意志は必ず画面のどこかに残る。でもテルくんの絵にはそれが微塵も感じられないんだ。すごく無機質で、わざとセーブしてるんじゃないかってくらい熱がない。上手いだけに、その違和感がより際立って見えるの」

「はあ」


 ともすれば、結構ひどいことを言われているのかもしれなかった。

 さっき褒められたばかりなので、上げてから突き落とされたような形だ。

 しかし不思議と腹は立たない。悲しくもない。五十嵐先輩の口調はとても淡々としていて、ただ自分が感じた事実を語っているだけのように思えた。

 そして多分、それは間違っていないのだろう。

 自覚はある――あり過ぎるほどに。

 だからこそ、俺は誤魔化すように笑って返す。


「多分、先輩の気のせいっすよ。なにしろ俺、いつも邪念と欲望ばりばりで描いてますからね。単位欲しいなぁとか、何かの拍子で高評価もらえないかなぁ、とか」

「……そうかなぁ?」

「そうですよ」


 先輩がじっと瞳を見つめてきたので、半笑いのまま表情筋を固定して受け止める。

 痛いくらいの疑惑の視線だ。

 数秒ほどその状態が続いたが、やがて先輩はふっと息を吐いて顔を背けると、


「ま、テルくんがそう言うならいいや。とにかく、そこさえしっかりすれば君の絵は凄くなるって話。私、実は結構期待してるから」


 そう言って屈託のない笑みを浮かべた。

 なんてこった。不意打ちのように励まされてしまった。

 本当にずるい人だ。大袈裟でもなんでもなく、五十嵐先輩にそう言われると思わず顔が綻ぶくらいに嬉しい。多分、他の人に言われてもここまで心が揺れ動いたりしないだろう。


「……って、ちょっと先輩風吹かせ過ぎたかな? なんか恥ずかしくなってきちゃったよ」

「いや、そんなことないですよ。やっぱり五十嵐先輩は偉大です」

「もー、やめてよ」

「本音ですって。今日から大先輩って呼んでもいいですか?」

「それはすごく年輩みたいだから嫌。私たち、歳ひとつしか離れてないじゃない。あんまりからかうと怒りますからね」


 ……尊敬する気持ちは本当なのだが、うまく伝わらなかったようだ。まあ普段は五十嵐先輩の誘いを無下にしまくっている俺なので、それも仕方ない。

 先輩はわざとらしく拗ねた表情を作り、「私、ちょっとお手洗い行ってるから、先にレストランフロアに向かってて。すぐそこだから」と告げて俺に背を向け、通路の曲がり角に消えていった。

 彼女自身が言った通り、若干照れ臭くなってきたらしい。インターバルを挟んで、態勢を整えようという算段だろう。いや態勢と言うと物々しいが。これはデートであって試合でも勝負でもない。


 取り残された俺は、目の前のクラゲの水槽から離れるのが妙に名残惜しくて、少しだけその場に立ち止まっていた。

 そして慣れた手つきでスマホを耳元に当て、そのまま後ろに振り向きながら呟く。


「五十嵐先輩って結構人のこと見てるよなぁ。すっごい分析されちまったよ。どう思う、悠宇香? やっぱりあの人凄い……って……あ」


 口に出してから気がついて、背筋が冷えた。

 後ろには誰もいなかった。

 そうだ。悠宇香は今、俺の近くにいない。数時間も前に、ぶらり幽霊一人旅だのなんだの言ってどこかへ行ってしまっている。

 いや、分かってはいたのだ。それでも無意識で、悠宇香がいる前提で誰もいない空間に話しかけてしまっていた。

 五年間もつかず離れずの距離を保っていたせいか、中々この状況には慣れない。


「あいつ……どこいったんだよ……」


 悠宇香のことだから、すぐ近くで俺と先輩の様子を窺っているものだと予想していたけれど、喫茶店で別れたきり、影も形も見当たらない。あいつに尾行の才能があるとは思えないし、もしや本当にどこか遠く離れたところを漂っているのだろうか。仮にそうだとしたら、後でちゃんと合流出来るのか。

 ――少し心配になってきた。

 探しに行こうかとしばし浚巡する。しかしデートを途中で投げ出したりしたら後でうるさく追及されるのは間違いない。『せっかくセッティングしてあげたのに!』と、朝から晩までがみがみ言われる様子が目に浮かぶし、『たった一日、女の子と出掛けることも完遂出来ないの!?』という幻聴まで聞こえてきた。すごく言いそうだ。

 結局、俺は五十嵐先輩の指示通り、館内のレストランフロアを目指して歩き出した。

 今は先輩との時間に集中すべきだろう。





 それからさらに数時間が経った。

 なんだかんだ言いつつも、デートはつつがなく進行した。

 テーブルの内側が水槽になっているお洒落なレストランで昼食を食べて、館内の展示を巡り切り、ペンギンやアザラシと存分に触れ合った後、二人で並んでイルカショーを見物。

 まさにお手本のような楽しみ方をして、その間特に何の問題も発生しなかった。強いて言えば、俺が何もないところで何度か転んだくらいだろうか。まだ緊張がどこかで残っていたのかもしれない。


「ここのイルカショー、凄かったでしょ?」

「ええ……合羽がなきゃ水しぶきで全身ずぶ濡れでしたよ。あれはもう意図的にぶちまけにきてますね」

「あはは、テルくん、目見開いて驚いてたよね。面白かったな」

「咄嗟に写真撮ってましたよね? 後で消してください」

「やだよー」


 午後四時過ぎ。ショーの感想を話しながら、俺たちは水族館を出た。

 外に出ると、やはり暑い。真夏ゆえにまだ空は明るく、周りにショッピングモールや高層ビルが並んでいるせいか、日差しが照り返してきて熱気が凄まじい。山に囲まれた大学のキャンパスとは大違いだ。今すぐ冷房の効いた空間に駆け込みたくなってくる。

 そしてこの後、一体どうすればいいのだろう。

 五十嵐先輩が提案してきたのは水族館だけだ。だとすれば、このまま解散するのか。あるいは別のどこかへ行くのか。残念なことにデート経験がないので分からない。一般的な若人たちはこういう時にどんな選択を取るんだ? どっかにマニュアルはないのかマニュアルは。

 夕食にでも誘っておいた方が、後で悠宇香が満足するだろうか。

 そんな事を考えていたら、再び麦わら帽子をかぶり直した先輩が、こちらを向いて不意に言った。


「この近くに展望台があるんだけど、よかったら行かない?」

「展望台、ですか?」

「うん。最近できたセンタービルの最上階。今から行けば、丁度夕暮れ時の街並みを見られると思うんだ。人も少ないし」

「なるほど。良いっすね」

「でしょ? それに……さ、その……大事な話もあるし……」

「え……」


 先輩のその言葉で唐突に思い出した。

 素直に楽しんでいたので、これまで失念していた。そうだった。五十嵐先輩からの連絡には、『大事な話がある』と付け加えられていたのだった。

 何の話かは想像も出来ない。

 今日こそ本気で将棋の勝負をしてくれ、なんて言われるのだろうか。よもやマルチ商法や宗教勧誘の類ではないと思うが、いずれにせよ、身構えてしまうことに変わりはない。


「どう……? 行こうよ、テルくん」


 少しだけ俯いて、心なし頬を赤らめながら五十嵐先輩が言う。

 態度のせいか、格好のせいか、今この場の雰囲気のせいか。その姿はいつにも増して魅力的に見えた。

 一瞬、涼やかな風が吹き抜けて、先輩の髪が揺れた。


「…………」


 どうする。どうすればいい。ここは普通に行くべきなのか?

 思わず逃げそうになって足が動く。それはさすがに悪手だろうと気合で抑える。

 そしてその時。オーバーヒートした俺の脳内に、いつもすぐそばにいる悠宇香の幻聴が聞こえた。


『行きなってケーイチ! そんな意気地なしだから駄目なんだよ!』


 そして数秒ほど呼吸を止めて迷った挙句。

 先輩の言葉に、俺は――

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