第六話 オブザーバーは寄り添わない
とんでもなく美人で常に優しく、時々子供っぽい純真さと負けん気も垣間見せる。そんな魅力的な先輩とデートに出掛けたことはあるだろうか。俺はない。
それどころか、俺はいまだかつてデートというものを体験したことが一度もなかった。合コンが都市伝説だと固く信じている層と同様に、異性と二人きりでお出掛けなんて空想の域を出ない遠い世界の出来事だった。悠宇香とは常日頃二人でいるけれど、それは勘定に入らないだろう。
だから、五十嵐先輩と出掛けることになった七月二十日の土曜日。
動物病院に連れて行かれた子犬のように、俺は心底緊張していた。
端的に言えばブルっていた。
「やべぇよやべぇよ……」
大学の最寄りから何駅も離れた、JRと私鉄の各線が集まる大規模なターミナル駅の中。改札を出てすぐのところにある喫茶店の一席で、俺は身震いしながら五十嵐先輩の到着を待っている。
時刻は午前九時四十五分。待ち合わせの十五分前。
目の前のテーブルにはさっき注文したブレンドコーヒーが置かれているけれど、まったく手を付ける気になれない。飲んだら腹を壊してデート中に長時間トイレに籠ってしまい、五十嵐先輩に無用の気遣いをさせてしまうのでないか、などと余計な想像をしてしまう。そもそも朝起きた時から呂律が回っておらず、アイスと間違えてホットを注文してしまっていた。炎天下の中ここまで来たというのに。
親しくなろうという意志がないにもかかわらず、嫌われたり軽蔑されたくないとは思うなんて、我ながら身勝手な奴だと思う。
「け、ケーイチ……ふふっ……緊張し過ぎだって……ふふふふふっ……」
隣の席では、悠宇香が俺のあまりの緊張ぶりに笑いをこらえていた。
「ちょっと、笑いすぎじゃないか?」
「いや、だって……くすっ……生まれたての小鹿かなってくらい足とか震えてて……もう……ふふっ……」
「もっと幼馴染として良心を見せてくれよ……」
例によって、スマホを耳元に当てながら言葉を返す。
しかしひどい言われようだ。そもそも五十嵐先輩に勝手に返信をしたのは悠宇香なのだから、もう少し慮ってほしい。
沈んだ気分で下を向くと、確かに膝が震えていた。……本当に小鹿みたいだな。
「ま、まあ、もっと気楽に構えていいと思うよ……ふふっ。服だってちゃんと私が選んであげたんだから、自信もってどうぞ……くすすっ」
「笑いながら言われてもまるで説得力がないんだけど」
「大丈夫だって。ちゃんとナウいヤングしてるよケーイチ」
「表現が不安過ぎる。昭和のコーディネートか?」
「死人だから死語使ってみたの」
「ゴーストジョークかよ。死活問題なんだよこっちは」
ナウいかどうかはともかく、確かに今日の俺の服装は悠宇香のコーディネートによるものだった。普段は適当なシャツとジーパンで済ませるくらいのズボラなのだけれど、悠宇香に一日中口うるさく言われたため、お洒落なメンズファッションブランド店で新調してきたのである。
白いロングTシャツの上に七分丈のサマージャケットを羽織り、下はやたら細身の黒いスキニーデニム。靴もその辺のちょっとイケてる大学生が履いているようなものを買ったし、左手首には父親から借りたお高い腕時計を巻いている。完全武装と言っても過言ではない。
正直言ってこの数日、服を買いに行ったり緊張しっぱなしだったりでほとんど何も手につかなかった。今俺がもっとも向かい合うべきはアトリエに置いてある五十号のキャンバスのはずなのに、火曜日の惨状からまるで進行していない。何故絵筆を握らずに喫茶店で震えているのか疑問に思えてきたくらいだ。
というか『課題制作がヤバイ』と言ったのにそれでも誘ってくる五十嵐先輩は相当図太い精神をしている。もしかすると、俺がいつも適当な言い訳でお茶を濁すものだから、それも大袈裟な発言だと受け取られたのか。あるいは制作を同時並行で進めるような才人である先輩には『締め切りを破る可能性がある』という概念が理解出来ないのかもしれない。
「なぁ悠宇香」
「何?」
「逃げてもいいかな? 急に体調が悪くなったってことにして、後で誠心誠意謝罪すればどうにか――」
「ばっかじゃないの!?」
「おわっ!」
冗談半分で敵前逃亡を提案したら、グーでぶん殴られた。反射的に目を瞑り、椅子を揺らしながらのけ反る。
もちろんその握りこぶしは俺の顔面をすり抜けて、脳に何のダメージも与えずに後頭部から突き抜けていったけれど、そんなことをされたら驚くに決まっている。
周囲の客からの好奇の視線に羞恥を覚えつつも体勢を整えると、悠宇香は目の前のテーブルの上に膝を組んで腰かけ、憐れむような眼でこちらを見ていた。
「いい? 前にも言ったけどケーイチはもっと女性経験を積むべきだと思うのです。でなければ童貞をこじらせて独身街道まっしぐら。歳を重ねるごとに女性への幻想を強め、四十代になってから結婚相談所に飛び込むもとうに手遅れ、どうしてあの時頑張らなかったのだろうという後悔に苛まれながら、泣く泣く二次元の恋人を愛で続けることになるのです。ああ、未来が見える。見えてしまう」
「杞憂が過ぎるよ。どうなっているんだよ俺の人生は」
「シャラップ! 十分あり得る可能性だよ。だからこそ不肖このわたし、ゴーストオブザーバーこと水上悠宇香が君の未来のために気の利いた助け舟を出してあげたわけじゃないですか!」
「あの五十嵐先輩への勝手な返信ね。結局本当に一言も謝罪してないよな」
「大義のためなら多少の過ちも許される! とにかく、ケーイチはわたしの慈愛に満ちた気持ちを汲んで、きちんと五十嵐先輩とのデートを真っ当していただきたい! いや真っ当しろ!」
「近い近い。あとやたら熱い。テンション高いぞ今日」
またいつもの母親面みたいなものだろうか。まあ確かに、彼女なりに俺のことを案じてくれているのだろう。それはビシバシと伝わってくる。気は乗らないし相変わらず緊張しっぱなしだが、そこまで言われればこちらとしても素直に頷くしかない。
「分かったよ。ちゃんと今日のデートは腹を括って完遂する。幸いというか何というか、結局後ろにはずっとお前がいるわけだからな。先輩とのデートに年下の幼馴染を連れてくるなんて母親同伴並みの気恥ずかしさがあるけど、頼りになることは確かだ。俺がやらかしそうになったら助言頼むぜ」
オブザーバーを自称するのであれば、それなりに頑張っていただこう。二人分の頭脳があれば、五十嵐先輩との時間をそつなく過ごし切り、今日一日を無事に終えることだってきっと難しくないはずだ。
それに、悠宇香はなんだかんだ言って俺の窮地をただ漫然と眺めているような真似はしない。高校受験や大学受験の時だって、他人の答案のカンニングはしないまでも、背後から「頑張れ~頑張れ~」とひたすらエールを送ってくれていた。邪魔ではあったがそれ以上に勇気づけられた記憶がある。
「え? 何言ってるの? わたしは今日ついて行かないよ?」
しかし俺の淡い期待は、悠宇香のその一言によって粉々に打ち砕かれた。
「……は? ついてこないってどういう事だよ?」
思わず口をあんぐりと開けて聞き返す。
テーブルから立ち上がった悠宇香はいつもの表情のままで、
「だってわたしがいたらデートの意味ないじゃん。本当の意味で二人っきりでなきゃ、女性経験を積むも何もないもんね。だからケーイチがデートをしている間、わたしはどこかその辺をぷらぷら漂うことにしました。ぶらり幽霊一人旅です」
そう言って俺の席からすーっと離れていく。
「い、いやいやいや! お前俺から大して離れられないだろ! 前に頑張っても精々十メートルくらいって言ってたし!」
思わず立ち上がり、周りの視線を気にしながらも制止しようと手を伸ばす。
「霊としてわたしも日々成長してるって言ったでしょ? 今ならキロ単位も余裕だよ余裕」
「うっそつけお前おい! つい最近リモコン使えるようになった程度なのに、そんな急激に進化するかよ!?」
「するものなんです。第二次霊魂成長期です」
「五年前と変わらずまな板みたいな胸して何言ってやがる」
「ま、まな……!? 言ってはならないことを……戦争……いや、とりあえず今は水に流しておげましょう……。とにかく! わたしのことは気にせず、デートをしっかり楽しんでください。ちゃんとエスコートしてあげないとダメだからね?」
「あ、ちょ! 待てって!」
「ではでは~~」
笑顔で手を振りながら、悠宇香は喫茶店の入口と逆方向の壁を抜けてどこかへ消えて行ってしまった。
てっきり冗談だと思って数秒ほどその壁を見つめていたが、戻ってこない。
……え? 本気? 本気なのか? どこかへ行ったと見せかけて天井から顔だけ出すゴーストマジックとか、凄いスピードで後ろに回り込んで背中から腕を貫通させる暗殺者ごっことか、そういう彼女お得意の戯れではなく本気?
近くに隠れたんじゃないかと店内をきょろきょろ見渡すが、まったく気配が感じられない。おいおい嘘だろ。これまで悠宇香の姿を確認できない状況は何度かあったけれど、それはあくまで同じ建物内の別の部屋にいるような場合だけだし、気配でなんとなく『隣の部屋にいるな』『今リビングにいるのか』と察する事が出来た。
今のようにふらっと遠くへ行ってしまい、どこにいるのか分からないという事態は一度たりとも記憶にない。
冷房が効いているにも関わらず、汗がすうっと垂れてきた。
どうする? 追いかけるか? あれだけ豪語していたのだから何の問題もないのかもしれないけれど、さすがに前例のないこの状況は不安になってきた。今から周囲を探せばあるいは――
「あっ、テルくーん!」
その時、背後からかけられた和やかな声が、万華鏡のようにぐわんぐわんと回っていた俺の思考を急停止させた。
一瞬、息が止まり、その後すっと空気を吸ってから振り向く。
「ごめん、待ったかな? 十分前を目安に来たんだけど、テルくん来るの早いねー」
どこぞの芸能人かと見紛う程のすごい美人――御存じ五十嵐先輩が、俺の目の前に立っていた。
◇
「あれ? どうしたの呆けちゃって。もしかして相当待ってた?」
「……いや、さっき来たばかりなんで大丈夫っす。ほら、コーヒーだってまだ一口も飲んでないですし」
「あ、本当だー。それなら良かった。しかし、真夏にホット頼むなんて意外だね。今日も外凄い暑かったのに」
「ええ、まあ、俺ホット好きなんで」
平然と嘘を吐きつつ、息を整える。
喫茶店に現れた五十嵐先輩は、いつも以上にお洒落な出で立ちをしていた。
普段はポニーテールで通している綺麗な茶髪を軽く編み込み、左耳の後ろの方で結んでふわりと垂らしているほか、頭には夏らしい麦わら帽子。ハナミズキの柄が入った濃紺のサマーワンピースは不思議な上品さを漂わせており、ヒールサンダルの足先に覗く鮮やかなネイルまで隙が無い。肩から提げている武骨な革のショルダーバッグですら洒落たものに見える。
要約するといつもの二割増しで可愛らしかった。そりゃ混乱している時にこんな綺麗な人が視界に飛び込んできたら呆けた顔にもなる。
「えーと、じゃあどうしよっか。コーヒー残ってるみたいだし、飲み切るまで待とうかな」
「いやいいですよこれくらい一息で飲めます俺ホット好きなんでがぼがぼ……げほっ! げほっ! ぶっふぉん!」
「ちょっ!? 大丈夫!?」
そろそろ冷めているかと思ったが、数分前に頼んだコーヒーは意外にもそれなりに熱く、一気に飲んだことで盛大にむせた。完全に気が動転しているようだ。
俺は心配そうにハンカチを差し出してきた先輩を制し、カップを下げて這う這うの体で店を出た。
人波激しいターミナル駅の中、有名なトリートメントの広告が貼られた柱を背に、二人の間に妙な沈黙が下りる。
「…………」
「…………」
尋常じゃなく気まずい。
くそ、悠宇香はどこに行ってしまったんだ。どうすればいいんだこの状況。俺はこのままデートに行っていいのか。本当にあいつはその辺をぶらぶらしてるのか? 分からん。もう何も分からん。
「その、なんだかやたら疲れてない? 大丈夫? やっぱり無理に誘って悪かったかな……」
五十嵐先輩がこの世の終わりみたいな顔で呟いた。比喩ではなく相当参ってしまったような顔をしている。こんな可愛い人をこんな顔にしているのはどこの誰だ。俺か。どうしようもなく俺だな。
もうしょうがない。腹を括ると決めたのだった。悠宇香の『デートをしっかり楽しんで』という言葉を信じて、俺は今日一日をしっかりやり切るしかないのだろう。
二、三咳払いをして、気持ちを切り替える。
脳内のどこかにあるスイッチを無理やり押し込んだ。ばちん。行くぞ。
「ははは。大丈夫です。誘いを受けたのは俺ですから。ちょっとカフェインが喉に詰まっただけです」
「カフェインが喉に?」
「あーげふんげふん! はいもう治りましたバッチリ元気。一年に一度あるかないかというくらいの好調ぶりっす。全身が今まさに動きたがってる。さあ行きましょう先輩! ええ、楽しまなきゃ損ですからね!」
「そ、そっか。そうだよね。ありがとう?」
首を傾げつつも笑みを浮かべてくれた五十嵐先輩と共に、駅の北口へと歩き始める。どうせ悠宇香は心配性だ。きっとぎりぎり目につかないような遠くから、俺たちの様子を盗み見ているに違いない。
ならば俺に出来ることはひとつ。そつなく先輩をエスコートしてみせることだ。
見ていろ悠宇香。甚だ自信はないけれど、ヤケになった俺はそれなりにやる男なのだ。多分。
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