第三話 手つかずのキャンバス
電車で二、三十分揺られた後、傾斜のある道のりを十五分程歩くと、ようやく俺が通う美大の敷地が見えてくる。周りには山や雑木林がちらほら見えて、本当に都内なのかと疑いたくなる立地だ。学校の敷地自体も広いうえに随分と高低差があり、在学生には『丘』と端的に形容されることも多い。冬に雪が積もれば、比喩ではなくスキーだって出来る。天然のゲレンデだ。だからどうしたという話だが。
俺は汗だくになりながら長い坂を越え、古びた絵画棟の階段を一歩一歩踏みしめて三階まで上がり、ようやく自身のホームグラウンドであるアトリエ――油画科二年の制作室に辿り着いた。登校するだけで一苦労だ。こういう時ばかりは、浮遊して移動できる悠宇香をとても羨ましく思う。
「ふーっ」
ガンガンに稼働している冷房に感謝しながら、扉を開けて足を踏み入れる。
高校の教室の数倍はありそうなだだっ広い室内では、各々の学生の制作スペースが決められており、それぞれのキャンバスやら画材やらがごっちゃごちゃになって混沌の様相を呈している。何に使うんだという程に高く積み上げられた新聞紙の塔や、お遊びで作ったであろうシュールな人型の陶芸、明らかに一人では持て余すどデカいソファーなど、上げていけばキリがない。
うちの学科の制作時間は一応午前九時からとなっているが、出席を取るのは正午だし、そもそも自宅で制作を進める者もいるため、この時間帯にアトリエにいる学生は少なかった。悠宇香に叩き起こされていなければ、俺ももっと遅く登校していただろう。
俺は自分のスペースに敷かれたブルーシートの上に胡坐を組んで座り、壁に立てかけられた五十号のキャンバスに向き合う。
「難航してるねー」
背後で悠宇香が他人事のように言い、俺は苦い顔で頷いた。
抱えるのも難しい程大きいそのキャンバスには、まだほとんど手がつけられていない。半ば衝動的にずばばっと全体に下塗りをしただけなので、画面は橙色の波が通り過ぎたようなよく分からない状態になっている。とりあえず見切り発車でスタートし、下塗りが乾ききる内に何を描くか決めようと思っていたが、やたら思い悩んでしまってこの停滞ぶりだ。
今回の制作の締め切りは今月いっぱい。今から全力で描いても納得いく完成に至れるとは思えない。
目下のところ、この絵を描き上げられるかどうかが俺の一番の問題だった。
「前回ぼろくそに言われたもんね」
隣にしゃがみ込んで、空気を読まずに悠宇香がまた余計なことを言う。いや、まあ事実なのだが。
前回の課題の講評会で学科の教授に言われた事を思い出す。
『何を描きたいのか全然見えてこないんだよね。全部小手先っていうかさぁ』
完全に図星だった。
それだけに、この言葉が脳内で何度もリピートされてその度にメンタルがごりごり削られていく。
理想がなく――空っぽで。流されるままに手を動かすだけ。
その通り、そもそも俺には描きたいものなんてないのだ。
美大に入ったのだって成り行きだ。昔から絵を描くのは好きで、悠宇香が善吾さんに将棋を教わっている横でよく熱心に落書きをしていた。中学生の時もゲームをするのと同じくらいの頻度で鉛筆を取っていた。
そういう子供には珍しく、漫画っぽい絵よりも写実的な絵画の方が好みだったからだろう。デッサンは我ながら得意で、高校の頃美術教師に美大への進学を勧められ、なんとなく予備校に入ってなんとなく頑張っていたら偶然現役で合格してしまった。
運がいいというかなんというか。一時期、いつもそばにいる悠宇香をスケッチしまくっていたからかもしれない。人物描写だけはかなり自信があって、丁度入試の油画課題のモチーフも人物だったのだ。
もっとも何年か前、スケッチブックいっぱいに書かれた悠宇香の絵を母親に見られ、真っ青な顔で再び心療内科に連れていかれた事があるので、それ以来悠宇香を絵の題材にするのはやめた。確かに、死んだ幼馴染の絵を何枚も何枚も描きまくるだなんて行為、端から見ればヤバイ奴のすることだ。
「参ったな……」
一応筆を手に取ったはいいものの、さっぱり何を描くか決められない。思わずぼやきも漏れてしまう。
「わたしはケーイチの絵、けっこう好きだよ。前描いた風景画とか凄い迫力あってさ」
「……悠宇香に褒められてもなぁ」
フォローするように呟いた悠宇香の言葉に対し、俺はいつものようにスマホを耳に当てて、通話しているフリをしながら返答した。
「でも、最終的に絵を見るのは素人なわけでしょ?」
「単位をくれるのは教授だよ」
「えぇ~。いつも言ってるけど、単位がそんなに大事?」
「大事も大事。超大事だね。これこれこういうのを描いたら評価しますよ単位あげますよ、って言われたらその通りの品を上げてやるさ。今回みたいなテーマ自由じゃなくて、もっとバリバリ指定された方が断然楽だ」
「そもそも、そういう考え方をしてるからダメなんじゃないの?」
「…………お前たまに痛いとこ突くよな」
見た目中学二年生の悠宇香に言われるとより凹む。
励ましたいのか叱咤したいのかどっちなんだ。どっちもか。
◇
「また誰かと電話してんのか、テル?」
「どわっ」
十数分後。
キャンバスには一向に手がつかないまま、悠宇香と話しつつクロッキー帳にエスキースをしていたら、後ろから突然肩を叩かれて情けない声が漏れた。
振り向くと、同じ学科の竹内が陽気な顔で立っている。頭爆発したんじゃないかと思うくらい弾けた天然パーマと、真っ赤なアロハシャツが目を引く男だ。筋肉質で背も高く、間近に立たれると威圧感が凄まじい。
その隣では悠宇香がにししと笑っていた。ちくしょう、こいつ気づいてたのに黙ってたな。
「マジで心臓に悪いからやめてくれ、タケ。というかサンダルなのに足音ひとつ聞こえなかったとはどういう事だ」
「いやぁ、クセになってんだ。音殺して歩くの。なんならオレ、下駄でも無音で歩けるぜ」
「暗殺者か。暗殺者なのか」
「恨みがある奴がいたら教えてくれ。テルなら三割引きで請け負うぞ」
軽口を叩きながら、竹内は俺の隣の制作スペースに置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。彼とは入学したての頃からの付き合いだ。
なお、テルとは俺のあだ名である。いつもスマホ片手に悠宇香と話しているものだから、四六時中電話してる奴→TEL→テルという流れで定着してしまった。不本意ながら、今では学科外の人間からもそう呼ばれる始末。独り言の激しい頭のおかしな奴と思われるよりはマシなので、渋々容認している。
「いやー、今回は大分ヤバそうだな」
俺のキャンバスをちらと見て、竹内が呟いた。声色に含まれる感情の比率としては、呆れ二割、心配五割、同情三割といったところだろうか。
「ああ、大分ヤバイ」
「……終わんの? これ」
「今まで締め切りに間に合わなかったことはない。ただの一度もだ。つまり確率的に言って今回も間に合わないわけがない。大丈夫だ」
「それ論理としては破綻してるの分かってて言ってるよな?」
「そうだよケーイチ、屁理屈はいけないよ」
「…………まあ。そっちは順調そうだな」
竹内と悠宇香に同時に溜息を吐かれて、俺は逃げるように竹内の制作範囲に目を向ける。
そこには俺の領土のように真っ当な画材やキャンバスは置かれていなかった。
端的に言えば、彼の周りには『竹』がうず高く積まれていた。それも、尋常じゃない量だ。どこから伐採してきたのか、十数種類もの竹が様々な長さで輪切りにされて組み合わされ、バベルの塔のように異様な構造体を形作っている。
竹内の創作テーマは、入学当初から一貫して『竹』――正確には『
それも名字に竹が入っているからという浅はかな動機ではなく、山奥で生まれ育ったことから竹林に対して本気の愛を抱いているらしい。どういうことだと思うかもしれないが、うちの学科の連中は頭のネジが外れた人間ばかりなので、これくらいは珍しくもない。同様に、油画学科なのに油絵じゃないのかとつっこむ必要もない。制作課題にもよるが、今回形式は問われていないのだ。四年間、一度も油画を提出せずに卒業する剛の者もいる。
「相変わらずすげえよ。まだ途中だってのに圧が凄い」
素直に褒める。実際、竹内の無限にも思えるバイタリティとその創作物には尊敬の念を抱かざるをえない。
「そりゃありがとう。まだ理想には程遠いんだが、これはけっこう良いものになりそうな気がしてる」
「今回は何を表現しようとしてるんだっけ?」
「竹林が内包する形而上世界の代替的表現の一手段としての構造物」
「さっぱり分からん。ものが凄いことしか分からん」
「わたしにも分からない。凄いことしか分からない」
俺と悠宇香は顔を見合わせて言った。竹内からしてみれば俺が意味もなく変な方向を見たように見えただろうが、まあこれくらいは構わない。
そして聞いておいてなんだが、説明されて俺たちが理解出来なくてもいいのだろう。言葉で伝えきれないからこそ、それを翻訳して何かを作る意味がある。
竹内は俺の反応に「へへっ」と笑うと、そのあらゆる方向に跳ねた天パを荒々しく掻き上げて、本格的に竹の塔(仮称)の制作に取り掛かり始めた。スイッチが入ってきたのだろう。目の色が違う。
邪魔をしてもなんなので、俺も再び自分のキャンバスに向き直る。相も変わらず、下塗り段階で止まったままのひどい画面。何も始まっちゃいない。あるいは既に終わっているのか。
俺と違って竹内は常に前を向いている。その姿がいつもほんの少しだけ眩しい。
◇
結局制作はほとんど進まないまま、午後四時になった。
アトリエは一応午後七時まで開放されているが、今日はレポートの提出もあるし、これ以上ここにいてもひたすら悶々と悩むだけだろう。筆だけ洗って、そそくさと帰ることにする。
「タケ、俺今日はこれで帰るわ。お疲れさん」
「じゃあねー竹内くん」
「おー。おつかれおつかれ」
俺(とついでに悠宇香)が声をかけると、竹内は
感心しながら背を向け、悠宇香と共に歩き出す。
「あ、ちょっと待った」
と、そこで竹内が急に声を上げた。
「? どした」
振り向くと、竹内は思いのほか真剣な表情をして、
「頼む。そこの自販機でウィルキンソンのジンジャーエールを買ってきてくれ。俺は今この場から一歩も動きたくないんだ。釣りはいらん」
と百円玉を二枚放り投げてきた。
のけ反りながらも、ギリギリでキャッチする。
「オーケー。というかそんなマジ顔で言う事かよ」
「マジな事言ったほうが良かった?」
「いや良くないけど」
「何か悩みがあればいつでも相談してくれよ。テルのことは親友だと思っているからな」
「本当にマジな事を、しかも面と向かって言うな恥ずかしい。大体親友って、まだ知り合って一年ちょいだろ」
「いやいやいや、オレたちは固い絆で結ばれているね。なにせオレの名前は竹内、お前は林道。頭文字を合わせると”竹林”になる。なんて素晴らしい」
「ただのお前の趣味じゃねーか」
苦笑しながらアトリエを出て廊下の自動販売機でジンジャーエールを買い、十数回振って竹内に渡してから、今度こそ絵画棟を後にした。アトリエのある方向から『ギャーッ! 泡が!』という叫び声が響いてきたが、聞こえなかったことにする。今度また奢るから、どうか些細な悪戯を許していただきたい。いや、あいつなら次会った時にコーラか何かでやり返してくるかな。警戒しておこう。
午後四時を回っているとはいえ、七月の空はまだまだ明るい。
暑い外気に辟易としながらも早足で中庭を越え、レポートを提出するために中央棟へ向かう。
「いやー、男同士の友情っていいね!」
道中、悠宇香がスカートをなびかせながらキラキラとした目線を向けてきた。
「何がだよ。普通だろ?」
「普通じゃないよーいいものだよー。気軽に、それでいて真面目な話もできるなんて、いい関係じゃない」
「そうかなぁ」
「そうだよ。それにケーイチ、高校の頃はあそこまで距離の近い友達とか、一人もいなかったじゃん。学校では会話するけど、放課後とか休日に遊ぶほど仲が良い子は皆無、みたいなさ」
「……まあ、その通りだな」
一日中離れられないのだから、当然悠宇香は俺と一緒に高校にも行っていた。この五年間で俺が経験してきたことは、大体彼女も知っている。
高校生の頃の俺は、客観的に見ても人付き合いに無気力で友達が少ない人間だった。自分でも理由はよく分からない。面倒だったのか、煩わしかったのか、単に俺が他人に好かれない奴だったのか。あるいはその全てか。もっとも、そのおかげで美大に合格するほど絵に時間が割けた、というのもある。今となってはどうでもいい話だ。
「ケーイチにいい友達ができて、悠宇香さんとしては嬉しいですねー。へへへー」
悠宇香がにやにやしながら本気で嬉しそうに言う。ついでにやたら慈愛に溢れた目線も向けてきた。ぞわっとするのでやめてほしい。
「お前は俺のオカンか」
「ま、家族みたいなものだからね。どうぞ存分にバブみを感じてください」
ぴょんと地面から飛び、絶妙に俺より高い目線まで浮いてから、数メートル前方でいつでもカモンと言わんばかりに両腕を広げてくる。いやセーラー服の女子中学生の胸元になんぞ飛び込めるか。そもそもすり抜けるわ。
「冗談やめろ。というかどこでそんな言葉覚えたんだよ……」
「夜のバラエティでやってたよ。最近のネット流行語解説コーナーってやつ」
「ふむ、幽霊がリモコン操作出来るのも考え物だな……教育に悪いぜ」
「ケーイチだって母親面してるじゃん」
「あっ確かに」
どっちもどっちだったという結論が出たところで、中央棟に到着した。
ガラス扉を開いて冷房の恩恵に預かり、正面の階段をスルーして一階の廊下を右側に進む。すると壁際にレポート提出用のポストがずらりと並んでいるので、そのうちの該当するひとつに昨日書いて印刷したマイレポートをぶち込めば任務完了だ(もちろん折れ曲がったりしないように丁寧に投函した)。これで俺のレポートがあまりにも悲惨なものでさえなければ、前期分の西洋美術史の単位は保証されるだろう。されるといいな。
「じゃ、帰るか」
踵を返して中央棟を出ようとする。
「ちょ、ちょっと待ったー!」
が、その歩みは出入口の前に立ち塞がった悠宇香によって阻まれた。
「何だよ急に。扉の前で意味もなく立ち尽くすやべー奴だと思われちゃうから、そこどいてくれ」
無視してすり抜けてもいいが、やっぱり見えているものを通り抜けるのは気分が悪い。
「いいやダメです、わたしはどきませんよー。なにせケーイチは今日の大切な用事を忘れてる」
「大切な用事? これから家帰って寝る以上に重要な事なんてあったっけ?」
「あるよ! 今日は火曜日、ボードゲーム同好会の活動がある日でしょうが!」
「あぁー……素で忘れてた」
週に一回、この中央棟で行われている同好会の活動日のことを、俺は本気で忘れていた。
「行かなくてもいいんじゃないか? 別に強制参加じゃないし、会長も怒らないだろ。そもそも、そういう緩いサークルだから入ったんだ」
「だーめーだーよ。そうやってなんでもかんでも面倒臭がるのはよくないよ。せっかくだから行くべきだって」
「ううん……制作もまともに進んでないのに、ボードゲームでわいわい遊ぶ気分にはなれないんだけどなぁ……」
ほぼ白紙同然のキャンバスを思い出すと頭が痛くなってくる。
「祝日だからって、昨日映画館に行ってばりばり楽しんでた人間の言える台詞じゃないね」
「……お前だってはしゃいでたくせに」
「わたしはいいの。とにかく、ほら、行こう? どうせ家に帰ったって『絵が進まないーどうしようー』って悩んで、機嫌が悪くなって暴飲暴食して、夜更かしした挙句に『どうして俺はあんな遅くまで起きていたんだ……死にたい……』って次の日の朝にぼやくことになるんだから」
「…………」
完全に見抜かれていた。
さすが、生まれてこの方ずっと一緒だっただけはある。先程の母親面だってまんざら笑い飛ばせない程の心理把握ぶり。間違いなく実の親より俺の行動パターンを理解しているだろう。
もちろん、だからといってバブみなど抱いたりはしないが。
「ちくしょう、わかったよ。行くよ」
「やったー」
反論しても勝ち目がなさそうなので、渋々頷いた。
仕方がない。悠宇香だって、俺とずっと家にいるより外にいた方が楽しいはずだ。帰宅は中止、反転して中央棟内の同好会活動場所へ向かうことにする。
同好会には苦手な人がいるから、あまり足を運びたくはなかったんだが。
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