第二話 朝は幽霊に起こされる
「朝だよケーイチ、起きよう起きよう! 早く起きないと電車に間に合わないよ!」
耳元でわんわん叫ぶ声が聞こえて目が覚めた。
瞼を開くと、目の前に見慣れた幼馴染の顔がある。時が止まったように姿が変わらない、セーラー服の少女。悠宇香は逆さまになって宙に浮き、ベッドの上の俺に対して大声を上げていた。彼女のおかげで、いや彼女のせいで、この五年間ずっと目覚まし時計を必要としていない。
「ううん……あと十分……」
「ダメだって! 今日はレポートを提出する日なんでしょう? 昨日焦って書いてたじゃん」
「いや……それは午後四時半までに提出すれば大丈夫だし、今日は共通講義もない……加えて今はまだ朝の八時前……二度寝の余裕はたっぷりある……」
「課題制作はふつーにあるでしょうが! いくら油画科がフリーダムだからって、サボりはよくないよサボりは。早くアトリエ向かおう」
「しかし……」
「起きないと耳元で歌い続けるよ? それもとびきりロックなやつを延々と」
「くっ」
観念して布団からのそのそと這い出す。悠宇香の言葉は脅しじゃない。こいつはやるといったらやる。無視して二度寝を試みようとすれば一時間でも二時間でも熱唱するだろうし、実際に以前やられた。なにせ彼女の声は他の誰にも聞こえないのだから、俺以外に止められる人物はいない。恐ろしいことだ。
本や画材で散らかった六畳の自室で足の踏み場を探しながら、適当な衣服を見繕って着替えを済ます。毎度のことながら、悠宇香はその間律義に俺から目を背けていた。
「……下に何か食い物あったっけ?」
「さあ。さっきリビング覗いた時は、おじさんとおばさんがトースト食べてたよ」
「んじゃ、俺も今日はそれだな。料理する気力はないし」
言いつつ、カーテンを開く。日光が一気に部屋へ入ってきて、思わず目を細めた。低血圧の身にとっては随分早い起床時間だ。可能なら毎日昼過ぎまで寝ていたい。
「わたしがもっと物に触れたら、コーヒー淹れたり朝ご飯作ってあげたりするんだけどなぁ」
心底残念そうに、悠宇香が言う。
「馬鹿言うなって。毎朝キッチンでポルターガイスト起きてたら、うちの両親驚いてここから引っ越しちまうよ。リモコンのボタンは押せるようになったんだろ? それくらいで我慢しとけ」
「むー。惜しいなぁ」
幽霊である悠宇香は、物体に触れることが出来ない。何もかも彼女の身体をすり抜ける。当然壁抜けだって楽勝だ。
最近、とてつもなく頑張れば(本人の言)小さなものに少しだけ干渉することができるようになったらしいが、それだって些細なものである。テレビのチャンネルを回すか、ティッシュを浮かせて遊ぶことくらいにしか活用されていない。
同じように、ここ五年で色々と分かったことがある。
まず悠宇香の姿は俺以外に見ることができないし、声も聞こえない。
うちの両親にも、悠宇香の家族にも、他の誰にもだ。悠宇香が亡くなった当時、俺は彼女の霊がいることを周りの人間に証明しようとしたが、あえなく失敗した。近しい幼馴染の死にショックを受けて錯乱したのだろうと判断され、本気で心配した両親によって心療内科に連れていかれた。精神的なストレスと診断されて処方箋も出された。あれは本当に辛い。心療内科に行くことで心に傷を負った。
高校生の頃はバイトで金を貯めて、本物と噂される霊媒師たちに会いに行ったこともある。実際凄腕っぽい雰囲気を漂わせていたが、結局誰にも悠宇香を見ることはできなかった。
また、悠宇香は俺の近くから離れられない。
どこかへ飛んでいこうとしても、ある一定以上の距離を越えると急に苦しくなるらしいのだ。日によって変わるが、その限界距離は大体五メートルから十メートルくらい。一応、これでも大分伸びた。五年前はそれこそ三メートル以上は離れられなかったのだ。「霊としてわたしも成長してるってことだね。ふふふ」と悠宇香は言っていた。霊の成長ってなんだよ、と思う。
悠宇香についての大まかな特徴はそれくらいだ。正直なところ、すべて俺の頭の中の妄想なのではないかという説もいまだに捨て切れない。むしろそちらの方が客観的に考えて合理的だろう。
どちらにせよ、この悠宇香が俺の前から消える気配は今のところない。
◇
マーガリンだけ塗ったトーストを胃の中に放り込んで家を出た。
玄関を出た瞬間、熱気がぶわっと肌にまとわりついてきて、大学へ行く前から家に帰りたい気持ちが湧いてくる。今日――七月十六日の空は、見ているだけなら気持ちがいいほどの晴天で、それに伴って気温も恐ろしく高かった。長時間外にいたら身体が溶けてしまいそうだ。
「うーん。わたしが起こしてあげたおかげで大分時間に余裕があるね。褒めてくれてもいいよ、ケーイチ」
俺の左腕に嵌められた腕時計をちらりと見て、悠宇香が得意げに笑う。
「うるせー。俺は耳元でお前のロックフェスティバルを聞きたくないから、しぶしぶ起きただけだ」
俺はポケットから取り出したスマートフォンを耳に当ててから、悠宇香の声に答えた。外で彼女と会話する時はだいたいこうだ。もちろんただ耳に当てているだけで、どこにも繋がっちゃいない。あくまで電話しているフリ、独り言の多いヤバイ奴だと認識されないための処置である。世間はちょっと道理の外れた人間に随分と厳しい。
「しっかし暑そうだねー、ケーイチ。駅着くまでに汗びっしょびしょになるんじゃないかな」
「なるだろうな。悠宇香は浮いててアスファルトからも離れてるから涼しそうだ。なんかゴーストパワーで空気冷やすとか、そういうのないの?」
「残念ながらありませんねー。知っての通り悠宇香さんは無力なんですよ。どうしてもって言うんだったら、怖い話でもしようか?」
「朝から幽霊に怪談聞かされるなんて御免だね――っと、あれは」
丁度通りがかった一軒家から見知った人物が出てくるのを見て、俺は咄嗟にスマホをしまった。うちから三軒離れた緑の屋根の家、すなわち水上家。
玄関ドアからのっそりと現れたのは、今年で五十歳になる悠宇香の父、水上善吾だった。真夏だというのにパリッとしたスーツに身を包んで、分厚いレンズのついた眼鏡の下に生真面目な表情を浮かべている。
「善吾さん、おはようございます」
「おお、恵一君か。おはよう。いやぁまったく、今日は暑いね」
俺が頭を下げると、善吾さんはにこやかに微笑んだ。一瞬遅れて隣の悠宇香も「お父さんおはよー」と声をかける。もちろん聞こえちゃいないだろうが、悠宇香にとっては意味のある行為なのだろう。
「ほんと、暑すぎて溶けちまいそうです」
「今年は猛暑らしいからね。熱中症にならないよう気を付けたほうがいい」
「そんなスーツの人に言われても説得力ないっすよ」
「はは、違いない」
話しながら、隣合って歩き出す。駅に向かうのなら歩く道は一緒だ。悠宇香は悠宇香で善吾さんの背後に浮きながら、「お父さん白髪増えたなー」とぼやいている。やめろやめろ。
「恵一君は、これから大学かい?」
「ええ。うちの学校、夏休みが始まるの遅いんで。善吾さんは対局ですか?」
「そうだよ。順位戦でね」
善吾さんは将棋のプロ――いわゆるプロ棋士だ。大学在籍中に奨励会の三段リーグを突破してプロになり、それ以来ずっと将棋で飯を食べている。世間的にそこまで有名なわけではないけれど、テレビやネットで対局の様子が中継されることは多々あるし、界隈で水上八段と言えば『捌きの鬼』という異名が畏怖の念と共に上がる。
幼い頃は俺や悠宇香も将棋盤を挟んで彼から手ほどきを受けたものだ。俺は真っ先に飽きてしまったし、俺より遥かに才能があった悠宇香もその道に進むことはなかったけれど、今でも時々駒を手に取ることはある。ネット将棋だとか、部屋で悠宇香相手に一局だとか。まあ後者の場合、飛車角落ちでも俺がボコボコに負けるのだが。
「お父さん最近調子良いんだよね~」
心底嬉しそうに微笑みながら、悠宇香が善吾さんの周りをくるくると回る。
彼の戦績はいつもチェックしているので知っている。確かに最近の善吾さんは連勝続きで、猛者揃いと言われる上位グループ、B級1組でも既に今季三戦三勝の高スタートを切っていた。喜ばしいことだ。それこそ五年前、悠宇香が亡くなった当時はひどい連敗が続いていて、プロ存続すら危ぶまれていたのだから。本当に、このままずっと好調であって欲しいと思う。
出来るだけ日陰を歩きながら、大通りに出て駅を目指す。
暑いねと言いながらも、スーツ姿の善吾さんは汗一つかいていない。対して俺は既にシャツに汗が染みてきた。何故だ。身体の作りが違うのか。ひょっとして悠宇香が涼しげなのは、幽霊だからではなく遺伝なのかもしれない。
「そういえば、この間は夕食御馳走になっちゃって、ありがとうございました」
ふと思い出して口を開く。二週間ほど前、都内で対局帰りの善吾さんとばったり会って、結構お高いレストランに連れて行ってもらったことがあった。悠宇香が隣で「羨ましいいいいいい」と歯ぎしりする中、俺は肉汁滴るステーキを夢中になって頬張った。
「あんな分厚い肉、初めて食いましたよ。あの店にはよく行くんですか?」
「まさか。あそこに通い詰めていたら、今頃我が家の家計は火の車さ。随分前、棋士仲間に連れて行ってもらったんだよ。けっこう評判らしくてね」
「うへぇ。俺会計見てなかったんですけど、いいんですかね……」
「気にすることない。たまに行く分にはいいだろう。せっかくだし、成人した恵一君と酒を飲みたかったからね」
「それはどうも。あんまり美味かったんで、帰ってから肉の味について熱弁していたら、両親に文句言われちゃいました」
「ははは。それは、まあ、対価ということでひとつ」
善吾さんが朗らかに笑う。細められた切れ長の瞳が、悠宇香にそっくりだ。
うちの家と水上家はいまだに仲が良いが、昔のように家族ぐるみでどこかへ出かけたり、一緒に夕食を食べたりということはほとんどない。五年前の事故の件が尾を引いているのだ。俺と善吾さんがサシで飯を食うなんてことも、半年に一度あるかないか。
とはいえ、その溝は徐々に埋まりつつある。
「今度また、そっちの家にお邪魔しますよ。線香も上げたいし」
「それはいい。悠宇香も喜ぶだろう」
そう、こんな風に、ごく普通に悠宇香の名前を出せるくらいには。善吾さんも、水上家の他の家族も、過去を受け入れて回復しつつある。だから俺も今更『悠宇香の霊がまだそばにいるんです』なんてことを言い出したりはしない。ひょっとしたら、悠宇香が少しだけでも物体に触れられるようになった今なら、彼女の存在を証明することが出来るかもしれないけれど。結局、そんな行為に意味はないのだ。
「線香なんて上げられてもわたしは喜ばないけどねー。あ、でも悠太には会いたいし、家に行くのは大歓迎だよ」
悠宇香がのほほんとした表情でそう呟いたが、苦笑いするだけに留める。
お前もお前で気楽なもんだ。
駅に着いたところで、善吾さんとは手を振って別れた。
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