第一話 あの夏の夜の出来事
五年前の話をしよう。
あいつが死んだ夏。二度と忘れることはない、あの七月二十五日のことを。
◇
その日は朝から外に出るのも嫌になるくらいの猛暑で、コバルトブルーの絵の具をべったりと塗りたくったような雲一つない青空が頭上に広がっていた。
今となっては思い出すのも懐かしい、三年二組の教室。
四時間目の授業を終えた昼休み。まだ十五歳の中学三年生だった俺は、窓際で仲の良いクラスメイト二人と机を合わせて、益体のない話をしながらのんびり弁当を食べていた。
「はーっ。教室にクーラーついてからホント快適になったな」
「確かに。去年はずっと扇風機で過ごしてたとか信じられん」
「どうせなら俺たちが一年の頃に設置されてくれれば良かったのになぁ」
「わかる」
「ほんとそれ」
「つかそれ何食ってんの? ジャムパン?」
「いんや、練り梅ソースパン。
「遠慮しとく」
「俺も」
「うちの購買ってたまに変なパン売ってるよなぁ。お前みたいのが買ってるわけか」
「んだよ悪いか」
脊髄反射で繰り出される男子中学生の会話ほど、毒にも薬にもならないものはない。ただ何年か経ってみると、そんな無駄話が無性に恋しくなったりもする。不思議なものだ。
当時、俺たちだけでなく教室内全体が弛緩した雰囲気に包まれていた。
中学生活最後の夏休みを数時間後に控えたこの金曜日。来年には高校受験が待っているとはいえ、この時期、進学校でもないうちの中学で深刻な危機感を抱いている者は少なく、純粋な長期休みへの期待がクラスメイトたちを支配していた。目を凝らせば「そわそわ」「わくわく」といった擬音が教室に浮かんで見えるんじゃないかと思うほどに。
もっとも俺は表面上呑気にしていたものの、数日前から近所の塾で行われている夏期講習に通っていて、意外と堅実に受験への準備を整えようとしていた。我ながら抜かりのない奴だと褒め称えたくなるけれど、「帰宅部なんだから塾くらい通っておけば?」と母親に夏期講習実施のチラシを突きつけられていなければ、真剣に受験勉強に取り組むのはもう少し先になっていたことだろう。
「こんにちはー。
悠宇香が三年二組の教室にやってきたのは、和やかな昼休みが十分ほど経過した時だった。
白い半袖のセーラー服に、二学年であることを示す赤いリボン。華奢な身体つきや黒髪の長さまで、五年後の俺が見ている姿と寸分違わぬ水上悠宇香。ただひとつの違いは、この時の彼女はまだ生きていた、ということだ。
「おい恵一、嫁が来たぞ嫁が」
「早く行ってやれよ」
にやにやと笑いながら囃し立てるクラスメイトに促され、俺は母親と二人で出かけているところを目撃されたような、心底恥ずかしい気分で席を立った。
近づいてきた俺に気づいて、教室内を見回していた悠宇香が笑みを浮かべる。
「あ、ケーイチ。あのねあのね、話があるんだけど」
「お前なぁ、ちょっとこっち来いこっち」
「えー?」
こんなクラスメイト達の視線を目一杯浴びる場所で話していられるか。そんな憤慨とともに、俺は悠宇香を連れて教室を出た。クーラーの効いた快適な室内から離れるのは名残惜しかったが、それよりも羞恥心の方が上回っていたのだ。
早足で廊下を歩き、
「あのさ、悠宇香。わざわざ押しかけてくるなってこの間も言ったよな? 配慮をしろ配慮を。距離感ってもんがあるだろうが」
「だから林道先輩、って呼びかけたじゃん。若干の配慮と敬いを見せたよわたし。怒られる筋合いはないと思うな」
「そういうことじゃなくてさぁ……」
一学年下の悠宇香が大した用事もなく俺の教室を訪れるのは、普段から珍しいことではなかった。
彼女はどうも、中学生の男女間の適切な距離を理解していない節があったのだ。
確かに俺と悠宇香は幼馴染である。
うちの父親と悠宇香の父親が古くからの友人であり、かつ互いの家が十数秒で行き来できるほどに近かったため、俺たちは生まれた時から家族ぐるみの付き合いがあった。それこそ毎日のように会うものだから、幼い頃は悠宇香が本当の妹だと勘違いしていたくらいだ。
小学生になっても兄妹のような距離感は変わらず、俺たちは五年間毎朝一緒に登校していた。朝食を共にすることもあったし、特に理由もなくどちらかの家に泊まることさえあった。
悠宇香がいつも男子に混じって遊ぶような活発な女の子で、かつ俺よりもひとつ年下であることが幸いしたのだろう。恋愛がらみの噂やからかいはほとんど発生しなかった。今思えば、奇跡的なことだ。
しかし、中学に上がってからはそうはいかない。小学校よりも格段に生徒数が増え、精神も中途半端に成熟し、制服という堅苦しい代物で男女の差はより明確にされた。告白や交際もごく身近に存在する現実的な出来事になっていった。要するに、男子と女子が「仲が良いから」という理由だけで常日頃一緒にいられるような空気ではなくなってしまったのだ。俺も当然のようにそんな風潮に支配された。いや、支配されたというか、馴染んだのだ。ごくごく自然に。
けれど、一年遅れて中学校に上がってきた悠宇香はそうじゃなかった。
あいつは小学生時代のノリと距離感をそのまま携えてきた。朝は当然のように一緒に登校しようとしたし、校内で俺が男友達と会話していても普通に話しかけてきた。俺がどれだけすげなく対応しても、だ。鋼の精神を持っているとしか思えない。
正直なところ、俺にはそれが恥ずかしくて仕方なかった。当然だろう。事あるごとにからかわれ、囃し立てられ、気になっているクラスの女の子からも「悠宇香ちゃんって可愛いよね。大切にしてあげなきゃダメだよ?」などと生温かい目で見られる始末。もう少しだけ精神的に大人だったなら平然と流せていたのだろうけれど、残念ながら大した度胸も経験もない十五歳の俺にそんな対応は不可能だった。
わざわざ教室から離れた理由も、これでお分かりいただけただろうか。
「それで、一体何の用だよ。大した要件じゃなかったら怒るからな」
「ええー? 短気だなぁ。今夜の花火大会、二人で行こうねって話だよ」
「花火大会? 川沿いの?」
「そうそう、毎年やってるアレ。先週も電話して約束したじゃん。その念押しに来たんだよ。すっぽかされたら困るからね」
「そんな約束したっけか……」
ぐいぐいと詰め寄ってくる悠宇香だったが、正直まったく記憶になかった。おそらく家でゲームにでも熱中している時に電話がきて、話半分に返答してしまっていたのだと思う。オンラインのFPSは健全な男子中学生からそれ以外の集中力を奪い去るのに十分な魅力を備えている。
一応、その夜に花火大会が行われること自体は知っていた。毎年地元で一番大きな川の近くで行われる恒例行事。河川敷は大勢の人で埋め尽くされ、ここぞとばかりに多くの屋台が立ち並ぶ。小学生の頃はうちの一家と悠宇香の一家で共に出かけ、狭いブルーシートの上でぎゅうぎゅう詰めになりながら夜空を見上げたものだ。
もっとも、それは昔の話である。
「……悪いけど約束した覚えはないし、行くつもりもない」
「ええ!? うそでしょ!?」
信じられない、という顔つきで声を上げた悠宇香に対し、俺は言い訳がましい口調でまくし立てた。
「嘘じゃねーよ。大体、なんでわざわざ一緒に花火大会なんだよ。俺が中学上がってからは、家族ぐるみで花火見るとかなかっただろ。実際去年も友達と行ったし」
「たまにはいいじゃん。ケーイチ来年卒業しちゃうし、今年の花火大会はちょっと豪華だって聞くし」
「理由になってないだろ」
「理由がなきゃいけないのか! 浴衣だって用意しちゃったんだよ! 薄紫色で桔梗の柄が入った可愛いやつ! 責任取ってくれるんですかおら!」
「い、いきなり大声を出すな……友達とでも行けばいいだろ……?」
「今年はケーイチと行くって決めてたんだよ」
何やら悠宇香の中でそれは確定事項になっていたようだった。しかし校内で一緒にいるところを目撃されるだけでも恥ずかしいというのに、同級生が多数やってくる花火大会に二人で行くだなんて考えられない。誘いを受けるつもりは毛頭なかったし、その日はちょうど断るのに最適な口実もあった。
「俺、今日は夕方から夏期講習あるんだよ。受験生だから勉強しなきゃならんわけ。終わるのは八時半過ぎだし、花火大会には行けない」
「サボろう」
「いや速攻で無断欠席を提案すんな。無理だから。悪いけど他の奴を誘ってくれ」
「ええ、でも、ケーイチ」
「でもじゃない。知らん。俺はもう行くぞ。弁当がまだ残ってるんだ」
「そんなぁ~~」
未練がましく制服の裾を掴んできた悠宇香の指を振りほどいて、俺はそっぽを向いたまま教室に戻った。正直、夏期講習という言い訳があってほっとしていたところもある。うまく難を逃れることが出来たとすら思っていた。
まさか後にこんな些細な選択を悔いることになるだなんて、微塵も想像していなかった。
◇
午後八時半過ぎ。
俺は予定通り近所の大手学習塾でその日の分の授業を終え、小奇麗な学習室の一席で凝り固まった肩を伸ばしていた。苦手科目である数学の教師の指導方針がかなりのスパルタで、ついていくだけでも相当の苦痛だったものだから、悠宇香の言った通り本当にサボって花火大会に行っていたほうが良かったかもしれないな、などと冗談半分に思いながら。
室内は人がまばらで、そのほとんどが帰り支度の真っ最中。
花火大会のせいか、元々その日の授業を取っている生徒は少なく、同じ学校の同級生にいたっては俺以外に一人もいなかった。大抵が進学校の生徒か、花火大会なんてどうでもいいくらいに真面目な人間だったのだろう。授業中に遠くからドン、ドンと花火が打ち上げられる音が聞こえても、反応する生徒は皆無だった。
学習塾内に設置されている自動販売機でペットボトルのコーラを買い、乾いた喉を潤しながら学生鞄を背負って塾を出た。外は暗く、同時に制服のワイシャツ一枚でも汗をかきそうなくらいの熱帯夜だった。花火大会の会場から流れてきたであろう屋台料理の香りが鼻孔をついて、やたらお腹が空いたのを今でもよく覚えている。
塾の看板の前に見覚えのある女子生徒が立っていることに気づいたのは、家までの徒歩十五分を惜しんで早足で駆け出そうとした時だった。
「悠宇香? お前何やってるんだよこんなところで」
「あ、ケーイチ……」
俺が声をかけると、それまで俯いていた悠宇香はゆっくりと顔を上げた。服装は昼に学校で会った時と変わらない、白いセーラー服のまま。彼女にしては珍しくぼんやりとした表情で、声に覇気もなく、いつもの快活さは欠片も感じられなかった。思えばその時点で異常事態だったのだ。けれどその時の俺はただ単に不機嫌なだけなのだろうと早合点していた。きっと花火大会の誘いを強く断ったことに腹を立てて、面と向かって怒るために塾の前で待っていたのだと。
「花火、見に行かなかったのか?」
「……うん。結局やめた」
「なんだよ、今日の事怒ってるのか? だからってわざわざ塾の前で待ち伏せることないだろ。こんな蒸し暑い中ずっと立ってるのもキツイだろうしさぁ」
「…………」
「話聞いてるか? いいからもう帰ろうぜ。悠宇香んちの母さんだって心配するだろ」
「……うん」
悠宇香の反応は本当に薄かった。家に向かってゆっくりと歩き出し、数歩離れてついてくるのを横目に見ながら、俺は彼女をいまだかつてないほどに怒らせてしまったのではないかと冷や冷やしていた。もしかして今夜のことは悠宇香にとって余程大事な事だったんじゃないか、俺はもう少し適切な対応をするべきではなかったのかと。
そのまま五分ほど無言で歩いた。道中、花火大会の帰りなのか、浴衣を着た家族連れや学生たちが俺たちの横を通り抜けていった。
尋常じゃなく気まずい空気に耐え切れず、大通りを曲がって住宅街に続く路地に入ったところで、俺は申し訳なさそうに口を開いた。
「……あー、その、さ。今日は本当悪かったよ。先週約束しちゃってたんだったら、反故にした俺が謝るべきだよな」
「…………」
「ちょっと遠いけどさ、来月電車乗って隣町の花火見に行こうぜ。そっちならうちの学校の連中もほとんど来ないだろうし。用意したっていう浴衣もその時に着ていけばいいだろ? な?」
「……うん」
「良かった。なんならお詫びに何か奢るからさ。パーッといこうパーッと。悠宇香、林檎飴とか好きだったよな? 小学校低学年くらいの頃だっけ、顔べっとべとにしながら食べてたのまだ覚えてるよ」
「……あー、懐かしいね」
いまだ悠宇香の口数は少ないままだったが、微かに微笑んだのがちらりと見て取れて、俺はひとまず安心した。学校ではいつもぞんざいに対応してしまっていたけれど、なんだかんだ言って俺も幼馴染の悠宇香のことが大切だったのである。彼女に嫌われることを本能的に忌避してさえいた。だからこそ、こんな風に言い訳がましく失態を償おうとしたのだ。
もっとも、そんな自分の精神性に気づいたのは随分後になってからだが。
「……今日、ケーイチの家に寄っていってもいいかな?」
悠宇香がそう切り出したのは、ちょうど俺の家の前に到着した時のことだった。青い屋根をした二階建ての一般住宅。俺は既に玄関ドアに手をかけ、悠宇香に「またな」と告げようとしていた。彼女の家は三軒隣、目と鼻の先だ。わざわざ送る必要はない。
「うちに? もう九時前だぞ? 母さんはむしろ歓迎するだろうけど……」
「ダメかな?」
「……ま、いいか。それじゃ上がって行けよ。悠宇香んちには一本電話入れればいいし。俺、晩飯まだだから、悠宇香も腹減ってたら一緒に食えばいい」
悠宇香の申し出に一瞬迷ったが、結局すぐに頷いた。当時、主に俺が距離を置いていたせいで、悠宇香が家に上がることはほとんどなくなっていたけれど、花火大会の誘いを断った負い目もあった。それに、いまだ悠宇香の顔色が暗いことも気になっていた。
◇
「ただいまー。母さーん、悠宇香も上がるけど、いいよなー?」
悠宇香と二人で玄関に上がった時、既に妙な違和感はあった。
それはいつも『おかえりー。ご飯温めるー?』とリビングから聞こえてくる母親の声がなかったからかもしれないし、家の中が妙に静かだったせいかもしれない。
「あれ? 聞いてないのかな」
首を傾げながらも靴を脱ぎ、玄関先に学生鞄を放って廊下を進んだ。塾の休憩時間に菓子パンを食べたきりだったから、正直かなり空腹だった。キッチンからは今日の夕食であるカレーの香りがじんわりと漂ってきていて、それが俺の足を少し早めた。ただこの先に待ち受けていることをその時の俺が知っていたならば、空腹なんて無視してすぐに足を止め、回れ右して逃げ出していただろう。
「母さん、いる? 悠宇香が来たんだけどー」
リビングのドアを開けた時、まず最初に頭に浮かんだのは『誰もいない?』という疑問だった。しかしそれは勘違いで、一歩室内に踏み込むと、壁際に設置されている電話機の前で母親がへたり込んでいるのに気が付いた。崩れ落ちている、という表現でも大げさではない程の姿勢。顔は見えないが、嗚咽しているのは明らかだった。
「母さん!? どうしたんだよ!」
すぐに駆け寄り、肩を掴む。見たところ貧血で倒れたわけでも、何らかの発作を起こしているわけでもない。母は受話器を握りしめたままただただ泣いていて、俺が来たことに気付くと、振り絞るように口を開いた。
「あのね恵一……今、病院から……病院にいる水上さんから、電話があって……」
「病院? 誰か怪我でも……」
「悠宇香、ちゃんが――」
悠宇香ちゃんが。
「は?」
交通事故に遭って。
「なんだよそれ」
病院に運ばれて。
「おかしいだろ」
今さっき、亡くなったって。
俺の耳は母の言ったことを間違いなく聞き取っていた。一字一句漏らさず、正確に。それでもなお、その内容の意味をうまく理解することが出来なかった。何か言い間違えたのではないかと本気で思った。
「だって、悠宇香はここに――!」
俺は振り向いて、後ろからリビングに入ってきていた悠宇香の肩を掴もうとした。
おいおい母さん、馬鹿な冗談はやめろよ。目の前に当人がいるんだぞ、変なこと言ってまた怒らせたらどうするんだよ、と。
「……あ?」
けれど、俺の指はむなしく空を切った。悠宇香の華奢な身体をすり抜けて、何もない空間を引っかいた。
意味が分からなかった。混乱したまま、俺は両手で何度も何度も悠宇香の身体に触れようとした。その全てが無駄だった。悠宇香は確かに俺の目の前に、リビングのドアの前に立っているというのに。こんなにくっきりと姿があるのに触れられないという事実があまりにも異様で、気味が悪くて、急激に吐き気が込み上げてきた。
「あぁ……やっぱり、夢じゃなかったんだ」
その間ずっと黙って俯いたままだった悠宇香は、やがて独り言のようにそう言って。
次に、俺の目を見て気まずそうに笑った。
「ごめん、ケーイチ。わたし死んじゃったみたい」
二度と思い出したくない笑みだった。
◇
後から聞いた話によると。
その日学校から帰ってきた悠宇香は、友人と花火大会に行くこともなく、用意していた浴衣に袖を通すこともなく、制服のまま着替えもしないで何時間も部屋でぼーっと過ごしていたそうだ。
しかし花火の打ち上げられる音が断続的に家まで届いてきて、どうしても気になってしまったのだろう。花火大会終了直前の午後七時半過ぎ、彼女は音に引き寄せられるようにして家を出た。
俺たちの家の近所には小奇麗で背の高いマンションが何棟も建っていて、とても見通しが悪く、夜空を見上げるのに適した場所とは言えない。花火どころか、星ひとつ探すのにも苦労するほどだ。だから悠宇香はもっと開けた場所まで行こうと考えて――とある通りの交差点まで歩を進めた。
そこは特段、危険な交差点という訳ではなかった。北には評判の良い整骨院、東には小さな公園、南にはスーパーマーケット、西側にはテナントの入っていない古びたビルが面していて、小学生の通学路にもなっているごく普通の交差点だった。少なくとも、それまで大きな事故があったという話は聞いたことがない。
本来なら、悠宇香も特に気にすることなくこの交差点を通り過ぎていただろう。
ただ、この時は何もかもがついていなかった。すべての偶然がとことん悪い方向に作用した。
悠宇香が交差点の信号が赤であることを確認して立ち止まった時、向かい側の公園では五歳程度の少年が三人で遊んでいて、彼らの母親がそれを遠巻きに眺めていた。
河川敷での場所取りが上手くいかなかったのか、どうやら花火大会の会場から早めに離れて、その公園から空を眺めていたらしい。一応、そこからでも打ち上げられる様子を見ることはできた。
少年たちは既に花火に飽いて、屋台で手に入れた水風船のヨーヨーで遊んでいた。輪ゴムがついていて指に引っ掛けることができる、夏祭り定番の代物だ。
ところがその時、一人の少年の指から誤って水風船が放り飛んだ。ゴムで反動がついていたのか、それは思いの外大きな放物線を描いて少年から離れていった。地面にぶつかり、割れずに小さく弾んだ後、公園の入口を越えて交差点に向かって転がった。
遊びに夢中になっていた少年は慌ててそれを追いかけた。風に煽られて転がった水風船が車道に入り、かつ歩行者用の信号が赤になっていることにも気づかずに。
そして丁度そこに、大きなダンプカーが通りがかった。ドライバーは飲酒運転はおろかスピード違反もしたことがないごく普通の善良な男性で、普段であれば突然飛び出してきた少年に気づいて急ブレーキを踏むことも十分可能だっただろう。しかしその瞬間、彼は夜空に打ち上げられたその日一番豪華で美しい花火と、それに伴う音に気を取られていた。
唯一、反応できたのは悠宇香だけだった。
彼女は一瞬も迷わなかった。赤信号の横断歩道に入ってきた少年と、近づいてきたダンプカーを視認した瞬間、走りづらい学校指定の革靴を履いていることも気にせずに駆け出した。制服を振り乱し、手を伸ばして、車体に接触するぎりぎりのところで少年を突き飛ばした。残念ながら、少年を抱えて綺麗に車を躱すなんて器用な真似は出来なかった。
水風船を追っていた少年が小さな擦り傷とともにアスファルトの上を転がった瞬間、悠宇香の身体は嘘のように宙を舞っていた。人間の身体がここまで飛ぶのかというくらい、大きく、大きく。
死因は頭を強く打ったことによる脳挫傷だった。
「誰も責められないよ。飛び出してきた男の子も、その友達も、近くにいた彼のお母さんも、私を撥ねた車の運転手も、近所迷惑なくらい音の大きかった花火も。誰一人悪くないんだもん。本当に、巡りあわせが悪かっただけ。そうでしょ?」
のちに俺が事故のことを尋ねた時、悠宇香は笑いながらそう答えた。確かに、それはとても正しい。本当に責められるべき人間なんてあの場に一人もいなかった。
でも俺にはそんな真っ当なことを口にしたり出来ない。もっと明確な加害者が、もっと分かりやすい原因があった方が良かったと、心の底から思ってしまう。誰かを責められた方が、俺も、悠宇香の家族も、気が楽だったに違いないのだ。
そして、あるいは。
俺が変な意地を張らずに、悠宇香と一緒に花火大会に行っていれば。
今でも時々、そんな事を考える。
◇
次の夜に行われた悠宇香の葬儀で、結局俺は最後まで泣くことができなかった。
悠宇香の両親とうちの両親が悲痛な表情で俯き、まだ十歳にもならない悠宇香の弟が状況を理解できないとばかりに辺りを見回し、悠宇香のクラスメイト達が号泣している中で、俺はただただ呆然としていた。機械的に手を合わせ、淡々と焼香を上げた。実感がなかったのだ。なにせ生きている時と全く変わらない姿の悠宇香が、事故の夜からずっと俺のそばにいた。
彼女は自分の葬式を、どんな気持ちで眺めていたのだろう。もう動かない身体が棺桶に入れられて、火葬されて骨だけになって。一部始終を俺と一緒に見ていた悠宇香は、ずっと黙ったままだった。
「まさか自分のお葬式を見ることになるとは思わなかったなー」
火葬場からの帰り道。無駄に暑い青空の下。
いまだ混乱の最中にあった俺に、悠宇香は平坦な口調でそう言った。
「お前ってなんなんだ? 俺の幻覚か? 他の誰にも見えないみたいだし」
「さぁ。背後霊ってやつじゃないかな、あはは。いわゆる死後のロスタイム?」
「なんだよそれ」
「まあいいじゃん。死んだのに意識あるなんてラッキーだと思わない?」
「ラッキーって……」
「ほらほら、暗い顔しないでよ。いつ成仏するか分からないけど、それまではよろしくね。わたし、ケーイチから離れられないみたいだし」
俺は頭を抱えた。どうしてそんな平気そうな顔で笑えるんだよと叫び出しそうだった。夢なら覚めて欲しかったし、あるいは誰かに全部壮大ないたずらだったんだよと言ってほしかった。
喪服代わりの学生服に染み付いた線香の匂いだけが、唯一現実を物語っていた。
それ以来ずっと、悠宇香は俺の前から消えていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます