ゴーストヒューマンディスタンス

針手 凡一

プロローグ

「――二トントラックに轢かれたらさぁ、どれくらい痛いと思う?」


 七月十五日、月曜祝日の正午過ぎ。

 クイズでも出すかのような軽い口調で、背後から声が飛んできた。

 どことなく楽しそうな、甲高い少女の声。

 俺は振り向かない。自室の窓際に置かれた机の前に座り、ノートパソコンの画面と向かい合ってひたすらキーを叩きながら、思考の一割だけを割いて返答する。


「知らん。轢かれたことないからな」

「だろうねー。じゃあわたしが教えてあげる」

「いいって」

「ふふふ、それがねー、実はねー、全然痛くないんですよ~。不思議だよね。なんでだと思う?」

「あのなぁ……」


 そっけない返事を意にも介さず、弾んだ声は畳みかけてくる。

 ちょっと煩わしい。今はそれどころではなかった。目の前の画面に表示されている西洋美術史のレポートを明日までに仕上げなければならない。もし提出できなければ、大学二年の貴重な単位のひとつが儚く消えるだろう。

 俺は会話を打ち切るべく、手を止めて声の主へと振り向いた。


「答えは『痛みを感じる前に死んだから』だろ。何度も聞いたよ、悠宇香」

「あれ、言ったっけ? よく覚えてるね」


 数歩離れた俺のベッドの上に、半袖のセーラー服を着た少女が腰かけている。色白で、童顔。けれど大人びた雰囲気も漂わせている。身体を軽く揺すっているせいか、首元まで伸ばした黒髪がさらさらと左右に揺れていた。

 彼女は水上みなかみ悠宇香ゆうかという。十四歳の中学二年生。俺とは昔からの付き合いで、いわゆる幼馴染というやつだ。二十歳の大学生である俺が部屋に連れ込んでいると知られたらまずい年齢だが、そういう心配はするだけ無駄といってもいい。


 なにせ悠宇香は五年も前に死んでいる。


 蒸し暑い夏の夜に、近所の交差点で運悪く車に撥ねられて、とっくにこの世を去っている。

 今俺の目の前にいるのは、触れることもできない幽霊。

 死んだその日からずっと、五年間も、悠宇香は俺に取り憑いているのだ。

「背後霊ってやつじゃないかな、あはは。いわゆる死後のロスタイム?」と彼女はそう言っていた。何故霊になったのか、どうして俺に憑いたのか。詳しいことはさっぱりらしいし、俺にだって分からない。

 ただ悠宇香はそこにいて、俺には見ることも話すことも出来る。それだけ分かっていれば十分だ。


「大体、お前を轢いたのは二トントラックじゃなくてダンプカーだ」

「へー。それもよく覚えてるね、ケーイチ。わたしは忘れてたよ」

「当人だろお前」

「へへへ。記憶力には自信がないもので」


 朗らかな表情で悠宇香が笑う。年中低血圧で顔色も悪い俺なんかより、よっぽど生者らしい微笑みだった。


「とにかくだな」


 俺は椅子から立ち上がり、両足をぱたぱたと動かしている悠宇香の眼前まで近づくと、手刀で軽く頭を叩いた。といっても本来あるはずの感触はなく、俺の右手はゲームのバグのように悠宇香の黒髪をすり抜ける。当然痛くもないだろうに、彼女は「あいた」と頭を抱えた。


「俺はこのレポートにかかりきりですっごく忙しいんだから、あんまり話かけないでくれ。マジでヤバイんだ」

「はーい。あっ、鼻歌とかはオーケー? 今刻みたい気分なんだよ、リズムを」

「どんな気分だよ。別にいいけどアップテンポなのはやめてくれ」

「りょーかーい」


 ぴんと右手を伸ばして頷く悠宇香。絶対懲りていないだろうけれど、とりあえず納得してくれたことに満足して、再びノートパソコンの画面へ向き直る。止まっていた部分から再び書き出していると、早速背後から「ふふふーーん、ふふふ~~♪」と鼻歌が聞こえてきた。何で天城越えなんだよ。無駄に難易度高いだろ。


 結局その後の数時間、謎の演歌レパートリーをBGMにレポートを書き上げる羽目になった。まあ単位がもらえればいい、という程度の志の低い代物だ。完成できただけ上出来だろう。

 大学の図書館から雑に選んで借りてきた中世ルネサンス期に関する本を机の隅に片づけて、座ったまま上半身を伸ばす。ついでにエアコンの電源も切っておく。冷房に当たり過ぎて身体が冷えてきたし、そろそろ日が暮れる頃合いだ。窓の外はもうオレンジ色に染まっていた。


「ふんふんふーん♪ ふふふのふん!」

「悠宇香」

「ふん?」


 一応レポートの誤字脱字を確認した後、いまだ鼻歌に熱心な悠宇香へ声をかける。振り向くと、なにやらベッドの上でステップまで踏んでいた。制服のスカートがばっさばっさと揺れていて、少しは慎みを持てと物申したくなるくらいの挙動だ。


「もう話しかけてもいいよ。暇だったろ。今から映画でも観に行くか」

「うそ、いいの? ケーイチんち、ネトフリ加入してるし、わたしもうテレビのリモコンくらいなら頑張れば動かせるし、いつでも映画見放題なんだけど」

「居間で見るのと映画館で見るのとじゃ、気分が違うだろ。それに新作もない」

「なるほど、一理ありますねー。じゃあお言葉に甘えて」


 半袖短パンの部屋着のまま、財布だけ持って悠宇香と家を出る。

 途中、キッチンで夕食を作っていた母親に外出する旨を告げると、「あんた一人で映画? また? 寂しいやつだねー」と呆れた表情で見送られた。余計なお世話だ。悠宇香は悠宇香で呑気に「おばさん行ってきまーす」と挨拶していた。母には悠宇香の姿が見えていないというのに、いちいち律義だと思う。


 夕暮れの住宅街を、駅前方面に向かって二人で歩く。さすがに七月中旬ともなるとこの時間帯でも蒸し暑い。蝉の鳴き声もひどく耳障りだ。悠宇香は気温を感じないらしく、涼しい顔で歩を進めている。

 もし彼女の姿が俺以外にも認識できていたら、大学生の兄と中学生の妹に見えるのだろうか。意味のない仮定が頭の中に浮かんで消えた。


「今日はアクション見ようよアクション。一分間に三百発、銃弾バーゲンセール! みたいなやつ」

「お前そういうの好きな。レポートのせいで脳みそ疲れてるから、もう少し落ち着きある映画にして欲しいんだけど」

「しっかし一人分の料金で二人見られるなんてお得だよねー。幽霊の数少ない利点だよ」

「俺の話聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。ハリウッドのアクション映画はどうしてああも無駄がない構成なのか、って話でしょ?」

「掠りもしてねぇよ」

「へへへ」


 また悠宇香が笑う。

 その笑みがあまりにも眩しくて、今でも時々、こいつはまだ生きているんじゃないかと錯覚する。あの事故は夢で、本当は悪いことなんてこれっぽっちも起こらなかったのだと。けれどやっぱり、何度目が覚めても悠宇香は死んでいて、うちから三軒離れた水上家の和室には、仏壇の前に彼女の写真が置かれているのだ。


「ケーイチ、なに立ち止まってるの? 早く行こうよ」

「あ? ああ」


 悠宇香にひょいひょいと手招きされて、ふと止めてしまっていた足を動かす。

 滲んだ汗が首元を流れていく。なんだか無性に暑かった。


 これだから、いつまで経っても夏は嫌いだ。

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