閑話 コンラート村のユーリ ―後編―

「ユーリさん、今日も一緒に神殿に行きましょう!」


 私を誘いに来たウェインくんが弾けるような笑顔を見せる。

 私と一緒に神殿に行くのが楽しみで仕方ないといった様子だ。


「今日はレイナやアレクシアも一緒に来れると思うけど、私だけでいいの?」


 私はふと思ったことをウェインくんに尋ねてみたけれど、ウェインくんは笑顔のまま首を横に振る。


「いいえ、ユーリさんと二人がいいんです!」


 その言葉を受けて、私の心は舞い上がりそうだった。

 なぜウェインくんがここまで私に懐いてくれているのかはわからないけれど、年下の男の子にここまで頼りにされて嬉しくないはずがない。


「わかった、じゃあ行こっか!」


 私はウェインくんの手をとり、一緒に歩き出した。

 この時私は少しだけ期待していた。

 レイナとアレクシアがついてきてくれないかな、と。

 もしこのまま神殿へ行ってしまったら、もう二人の元に帰ることができなくなる。

 そんな予感すらしていたからだ。

 この時ならまだぎりぎり引き返せたかもしれない。

 後一歩を踏み出さずにすんだかもしれない。

 けれどレイナもアレクシアも私を追いかけてくることはなかった。

 私を引き留めようとはしなかった。

 やっぱり二人は、私が何をしようと気にならないのだ。

 寂しくなった私は少しだけ歩みを早めた。

 そして私たちは神殿に到着してしまった。


 神殿の扉を開くと、今日もマリアンヌさんが迎え入れてくれた。

 マリアンヌさんが私たち、いや、私を見てにっこりと微笑む。


「あら、ユーリさん。待っていたんですよ」


 思わぬマリアンヌさんの言葉に私は困惑した。

 マリアンヌさんが私を待っている?

 来るかどうかもわからない私を?

 その理由にはさっぱり見当がつかなかった。

 そんな私の様子を見てマリアンヌさんが苦笑する。


「失礼しました、言い方が良くなかったですね。ユーリさんを待っていたのは私ではなく司祭様です。なにやらお話があるそうですよ? 前回いらっしゃったときの話の続きだとおっしゃっていました」


 その言葉で私は複雑な気持ちになった。

 ニコラウスさんには私が再びここに来ることがお見通しだったというわけか。

 確かにまた来るようにとは言われていたものの、なんだかニコラウスさんの思い通りに動かされている気がして、あまりいい気分ではなかった。

 そんな風に感じた私だったが、マリアンヌさんに促され、神殿の奥の方へと向かった。


 私はとある部屋の前に案内された。


「この部屋のなかで司祭様がお待ちです」


 マリアンヌさんに部屋の中へと入るよう催促される。


「ウェインくんは一緒じゃないんですか?」


 私は気になったことをマリアンヌさんに尋ねる。

 しかしマリアンヌさんは首を横に振った。


「司祭様が用があるのはユーリさんだけとのことです。お一人でお入りください」


 私は少し不安に感じていた。

 ニコラウスさんに対して、得たいの知れない恐怖を抱き始めていたからだ。

 あの人は何を考えているのかわからない。

 そんな人と二人きりになるのは嫌だった。

 私は助けを求めてウェインくんに視線を送る。

 けれどウェインくんは、


「行ってらっしゃいユーリさん。僕はまたマリアンヌさんと一緒にお祈りを捧げてきますね」


 と微笑むだけだった。

 どうやら私一人で行くしかなさそうだ。


「うん、行ってくるね」


 私はウェインくんに弱々しくそう告げ、意を決して部屋の中へと足を踏み入れた。


 部屋に入ったとたん、なにやらほんのりと甘い香りが漂ってきた。

 嗅いだことのない匂いだ。

 お菓子のように甘ったるい感じではなく、花や果物のような柔らかな香りだ。

 私は部屋のなかを見回す。

 するとそこには意外な光景が広がっていた。

 そこにいたのはニコラウスさんだけではなかった。

 何人もの人がまばらに椅子に腰かけていたのだ。

 三十人くらいだろうか。

 そして部屋の中央辺りに私を呼び出した主、ニコラウスさんが立っていた。

 一体これはなんの集まりなのだろう?

 そして私が呼び出された理由とは?

 そんなことを考えていると、ニコラウスさんがこちらに視線を向けた。


「やはりいらっしゃいましたね、ユーリさん。来ると思っていました」


 そう言って相変わらずの柔和な笑顔を見せる。

 しかしその笑顔はこの前見たときと少し雰囲気が違う気がした。

 部屋が薄暗いせいだろうか。

 それとも私がニコラウスさんを警戒しているからだろうか。

 私がニコラウスさんに対して返事をできずにいると、


「ユーリちゃん?」


 どこからともなくそんな声がかかった。

 どこかで聞いたことのある声だ。

 私は声のした方を確認する。

 そこには何人かの見覚えのある子供たちがいた。

 魔法学校の同級生だ。

 見知った顔があり、私は少しだけ安堵する。

 けれど私は彼らにあまりいい印象を持っていなかった。

 彼らはドラッケンフィール出身の生徒たちで、今でも相変わらずアレクシアに対して冷ややかな視線を向け続け、去年の誘拐事件の際にはアレクシアを糾弾するような声をあげていた子達だ。

 正直なところ、あまり仲良くしたい相手ではなかった。

 でもこの場に一人でいるのはあまりにも心細かったので、私は彼らのもとへ歩み寄った。


「こんなところで会うなんて奇遇だね」


 私は彼らにそう声をかける。

 当たり障りのない挨拶だ。


「僕らも驚いたよ。まさかユーリちゃんが神殿に来るなんて」


 その中の一人の男の子――たしか名前はモーリスといった――が意外そうに言う。

 自分の意志で来たわけではないのだけれど、という言葉を、私はぐっと飲み込んだ。


「ねぇ、ユーリちゃんもなにか忘れたいことがあるの?」

「え?」


 突然一人の女の子――この子はエイリンといった――にかけられた言葉に、私は心臓が跳び跳ねそうになるのを感じた。

 その言葉はまさに図星であった。

 私には確かに忘れたいことがある。

 レイナやアレクシアに対する嫉妬心を忘れたいと、ここ数日ずっと考えていた。

 しかしこれまでほとんど関わってこなかった彼女に、それが筒抜けだとは思ってもいなかった。

 だとするとレイナやアレクシアにもこの気持ちは見透かされているのだろうか。

 私は不安になった。


「う、うん」


 私はうつむき加減になりながらもなんとか返事をする。

 私の返事を聞いて、エイリンの表情がふっと緩んだ。


「やっぱりね。私たちもそうなの。たぶんここにいる人たちもみんな。なにか忘れたい辛い過去があって、ここに来ているの」


 その説明でだんだん私はこの集まりの意味合いがわかってきた。

 だがそれでも腑に落ちないことがある。

 全員が何か忘れたい過去を抱えているとして、集まったところでどうなるというのだろうか。

 そんなに簡単に過去を忘れられるなら、誰も苦労などしないだろうに。


「司祭様、本当に忘れることができるのですか? あの忌まわしい記憶を……?」


 一人の女性がニコラウスさんにすがりつくようにそう問いかけているのが聞こえた。

 齢三十くらいの女性だ。

 それを聞いてニコラウスさんがにっこりと微笑む。


「もちろんです。そのために皆様を集めたのですから」

「あぁ、ありがとうございます。もうこれ以上、あの記憶を抱えて生きていくのは辛いのです……!」


 そう言うとその女性はその場に崩れるようにして泣き出してしまった。

 彼女は一体どのような過去を抱えているのだろうか。

 見ると集まった他の人々も悲しそうに目を伏せているのが目につく。

 同級生のみんなもだ。

 良かった、これで忘れられる、そんな呟きが聞こえてきた。

 みんなは何を忘れたいのだろう?

 そしてニコラウスさんは、どうやってみんなの過去を忘れさせるつもりなのだろう?

 そんな魔術が存在するのだろうか?

 いや、それならもっと早くみんな自分の記憶を消すことができたはずだ。

 今になって神殿の奥の部屋に、こんな風にこそこそと集まる理由にはならない。


「これで明日から授業に行くのが不安じゃなくなるね!」


 エイリンが嬉しそうな表情を見せた。


「どういうこと?」


 その言葉に思わず私は聞き返してしまった。

 別に私は授業に行くのを不安に感じたことはない。

 むしろレイナと二人で過ごすことになる、自室の方が辛いのだ。

 私の反応を見てエイリンは不思議そうな顔をしていたが、やがて合点がいったかのようにうなずいた。


「そっか、ユーリちゃんはもともとライゼンフォートさんと仲が良いもんね。でもライゼンフォートさんと一緒にいても、を思い出したりしないの?」


 その問いを受けて、ようやく私は彼らが何を忘れたいのか理解した。

 彼らは去年の旧王国派による誘拐事件のことを忘れたくてここに集まっていたのだ。

 確かにあの事件は私たち二年生の心に、深い傷痕を残した。

 未だにトラウマとして心に刻み込まれている生徒も多いことだろう。

 私自身忘れたわけではない。

 目の前で何人も人が死んだのだ。

 その直前まで私たちの授業を担当していたフレデリック先生やジェイン先生を含めて。

 きっと彼らはアレクシアのすぐ近くで授業を受けることが苦痛だったのだろう。

 いつまた襲撃を受けるかわからない。

 あの事件の直後はそう語る彼らに反感を覚えた私であったけれど、今ならその気持ちも少しだけわかる気がした。


「私は……、まぁ少し怖くなることもあるよ」


 本当の理由を話すことを躊躇った私は、とりあえず話を合わせておくことにした。

 けれどその気持ちも別に嘘ではない。

 私だってできることならあの事件のことは忘れたいのだ。

 死にゆく人の悲鳴。

 立ちこめる血と、人の体の焼ける匂い。

 そして次は自分が殺されるかもしれないという恐怖。

 本当に忘れられるのだろうか?

 でも私が真っ先に忘れたいのは別のことだ。

 ニコラウスさんもそれをわかって私を呼んだのだろう。

 本当にあの人は不気味な人だ。

 この集まりも、何か裏がある気がしてならない。

 一刻も早くここから脱出した方がいいかもしれない。

 頭ではそう考えていたが、体が、いや心が言うことを聞かなかった。

 本当に嫌な記憶を忘れられるというのなら、願ったりかなったりではないか。

 そうすれば私の望む通り、レイナやアレクシアと今までのように楽しく笑い合うことができるようになる。

 レイナやアレクシアとこれからもずっと親友でいたい。

 私の一番の願いはそれだったはずだ。

 今はその願いを叶える、千載一遇のチャンスではないか。

 しかし本当にこれでいいのだろうか?

 二人に隠れ、こんな手段で。

 自問自答を繰り返していると、ニコラウスさんと目が合った。

 ニコラウスさんはにこやかな、いや今となっては不気味でしかない笑顔を見せる。

 ダメだ、もう逃げられない。

 私はそう感じた。


「ではそろそろ始めましょうか」


 そう言うとニコラウスさんは中央のテーブルに私たちを促した。

 そこには人数分のグラスが用意されていた。

 ニコラウスさんはどこからともなく一本の瓶を取り出し、中の液体をグラスに注いでいく。

 赤紫色の液体がグラスに満ちると、部屋に充満していた甘い香りが強くなった。

 部屋の香りの元もこの液体なのだろうか。


「これを飲めば、忘れることができるのですか?」


 一人の男性がニコラウスさんに問いかける。


「いいえ、それだけでは不十分です。記憶を消し去ってくれるのは偉大なる神々に他なりません。これはあくまでもその手助けをするための飲み物なのです」


 ニコラウスさんはそう言いながらグラスを人々に配っていく。

 当然私にも手渡された。


「これを飲み干した後は、共に神々へとお祈りを捧げましょう。さすればきっと、神々はあなたたちの願いを聞き届け、嫌な記憶を消し去ってくださるでしょう」


 そう言って人々にその液体を飲み干すように促す。

 それを受けて一人、また一人とグラスに口をつけていく。

 私の同級生たちも後に続いた。

 それでも私は尻込みしてしまう。

 こんな得たいの知れない飲み物、飲みたくはなかった。

 そうしているうちに私が最後の一人となった。


「どうしたの? 飲まないの?」


 エイリンが私にそう問いかける。

 その様子からは特に変わったところは見られない。


「ねぇ、飲んでみて何か変化はあった?」


 私はエイリンに疑問を投げかける。


「まだ何もないよ。お祈りしないと意味がないって司祭様も言ってたじゃん」


 確かにエイリンの言う通りだ。

 現段階ではこの液体が危険なものであるかどうかは判断できない。

 気づけば部屋中の全員が私を見つめていた。

 ニコラウスさんもだ。


「忘れたい記憶があるのでしょう? ならば飲むより他にありません」

「でも……」


 ニコラウスさんに催促されるが、やはり気が進まない。

 するとニコラウスさんがため息をついた。

 にこやかな表情が少し崩れる。


「ではこのまま帰って、二人の親友とどのような顔で会うのです?」


 その言葉に私ははっとする。

 二人に会ったら、この出来事を報告しないわけにはいかないだろう。

 この状況はあまりにも怪しすぎる。

 なにやら事件の気配すらするくらいだ。

 でもそうなると、神殿に来ることになった過程や、ニコラウスさんに私の悩みを打ち明けたことも話さなければならなくなってしまう。

 二人に私の気持ちが知られてしまう。

 それは……、絶対に嫌だった。

 そして何より、やっぱり私は忘れたかったのだ。

 二人への嫉妬心を。

 ずっと抱いてきた劣等感を。

 もしかしたら部屋に充満する匂いを嗅いだ時点で、私の思考は鈍っていたのかもしれない。

 私は震える手をなんとか制御してグラスに口をつけ、その液体を飲み干した。

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