図書館に住む者 4

「おはようございます。日報のお届けです」


 ケイが出ると、そこには、正装に眼鏡、きちんと整えられた髪と、な若い男が立っていた。ケイと同い年くらいだろうが、少し厳しそうな面持ちと眉間の皺は、男の方を年長者のように見せる。対面した二人の間には不思議な緊張感が漂っていて、男はケイに文字がびっしりと詰まった淡黄色の紙を差し出し、にこりと愛想よく笑った一方、ケイは素っ気なく乾いた笑いを返した。


「おはようございます。珍しい、わざわざアンタが来るなんて」

「調べ物に使う本を借りようと思っていましたから。ついでです。あとは、新入りの彼のお姿も拝見したくて」


 男の視線がシアンの方を向く。優しそうに見える出で立ちとは裏腹に、鋭い目つきが眼鏡の奥で威圧感を放っている。人によっては彼を怖く思うかもしれない。


「は、初めまして……、シアンです」

「シアン、初めまして。私はスタルク。リブラさんの側近として、様々な雑務を執り行う事が主な役目です。宜しくお願いしますね」

「はい、……こちらこそ、宜しくお願いします」

「えぇ、えぇ!ストゥを宜しくお願いします!」


 少女らしい、高い声が聞こえ、軽く握手を交わす二人の間に唐突に若草色の影が飛び出してくる。


「あぁ、それでこれは」

「私はリリィです。よろしくお願いしますね!」


 若草色の髪を二つに結い、同色の瞳は大きく愛らしい風に輝いている。何故か裸足に靴を引っ掛けるようにして履いていた。背丈はシアンと変わらぬ程度だが、シアンが驚いたのは少女が浮遊したまま移動することだった。普通に生活しているならば、わざわざ浮いている必要はないのだ。


「彼女は、つまり妖精です。私とは長い付き合いでして」

「私はストゥのことなら何でも知っていますから!彼のことで何か困ったことがあれば、私に教えてくださいね?シアンさん」


 悪戯な笑みを浮かべるリリィに、スタルクは本棚の書物の背を吟味するかのようになぞりながら、小さく溜息をもらす。彼の素振りからして、この司書室には通い慣れているらしい。しばらくすると、シアンを一瞥してから、新入りに興味津々なリリィの足元をもう一方の手で指さした。


「シアンにはどうやらあなたの足元まで見えているようですから、お行儀良くしてくださいね、リリィ」

「ホントですか!?あわわ……」


 リリィは慌てて靴を履きなおして、一瞬姿が見えなくなったと思いきやまた現れ、その時には靴下まで身につけていた。その光景に、シアンが笑みを漏らす。


「シアンにはリリィがはっきり見えているのか……セルさんですら、彼女のような妖精の姿を確実に見る事はできないのに」

「え……そう、なんですか?」


 シアンには、リリィが周りの人と全く変わらずに頭から爪先まで目視できていたので、ケイやセルにも当然見えていると思っていたが、どうやらそうでもないようだ。


「魔力の強い弱いと隣人たちとの関係性は大した結びつきはありませんから。魔力が弱くても隣人たちと暮らせる者もいます。シアンはもしかしたら、どこかで隣人たちと親しいものと血統があるのかもしれないですね」

「……」

「何だか嬉しいですねぇ!私、ますますシアンさんが気に入りましたよ!」

「リリィ、シアンはまだ来たばかりで慣れていないでしょうから、程々に」


 シアンの周囲を目まぐるしく飛ぶリリィの襟首を、スタルクが掴む。


「何かあれば、遠慮なく頼って下さい」

「はい、……ありがとうございます」


 手足を振り回すリリィを連れて、スタルクは司書室を去る。それまでは気付くことの無かった、若草色の隣人のものと思われる僅かな花の香りが、シアンの周りに漂っていた。


「いつ見てもリリィは元気で安心するね」

「隣人はああでなければ。人の英気に関わる」


 長い考え事の世界から戻ってきたセルが、残っていた麺麭を咀嚼しながらそう述べる。彼女の手元、机の上には、いつの間にか万年筆と上質そうな紙が置かれていて、紙には整った筆跡で何やら小難しい文言が並べてある。シアンには到底理解できないことのように思えて、解読は諦めてしまった。


「さぁ、そろそろ一日の始まりだ。私は取りあえずシアンを連れて、案内がてら各所に行かなきゃならない」

「一日がかりになりますね。こちらは適当にやっておくので、お任せを」

「あぁ、頼む。何かあれば呼んで」

「えぇ、分かりました」


 セルとケイが事務的なやり取りを幾つか交わし、先ほどスタルクから渡された日報に目を通す。シアンも読もうと努めたが、文字に触れることがあまりにも久しく、読み切るまでに二人の倍以上の時間がかかった。


「慣れだね、慣れ。読めるだけ偉いよ。俺なんてここに来た時、初歩的な文法でさえ理解できなかったから。君の助けになれるように、俺も今まで以上に頑張るよ」


 ケイが身支度をしながらそう言って笑う。読み終えた日報を彼に手渡すと、その白い手の中で僅かな光と共に何処かへ消えた。知らぬ間に準備を終えて司書室から出て行こうとするセルを慌てて追おうとするとケイに引き留められ、なされるがままに髪を解かされた。


「よし、行ってらっしゃい。シアン」


 肩を優しく叩かれ、名前を呼ばれたことにも照れ臭そうに少年は頷く。履いたばかりの新品の革靴で踏み出す一歩は、まだ自分に馴染まない不思議な感触を覚えさせる。靴底が硬い床と合わさる音が、耳に心地よかった。


「……いって、きます。ケイさん」


 朝日がすっかり昇り、ようやく一日の始まりを告げる荘厳な鐘の音が広い王宮の中に響き渡る。どこから聞こえてくるのかは不明瞭だが調和のとれた音を聴きながら、ケイは図書館へ、シアンとセルは司書室から王宮の中心部である本館へ続く廊下に出た。


「まずは何処から行くか……エリーは最後が楽だろうし、爺は尚更いつでも構わないし……取り敢えずは……」


 頭の中にある巨大な王宮内の地図を広げるように、セルは空中に視線をやる。ものの十数秒である程度は本日の計画が固まったのか、シアンが物珍し気にあちらこちらへ近寄っては目を輝かせている間に彼女は歩き始めていた。


「あの、……セル、さん」


 セルに追いつくと、シアンは恐る恐るといった風に彼女の名を呼ぶ。それは彼女が恐ろしいという訳ではなく、彼にとって人の名を呼ぶという行為が、少々不慣れで気恥ずかしく思える事だったからであった。


「どうした、シアン」

「一つ、聞いてもいいですか」


 そのはっきりとした声音の問いに、セルは唇の端を持ち上げる。


「お前にその勇気があるのなら。いいよ」

「どうして、ここまでしてくれるんですか」


 歩き進めると、中庭へ出る。ぐるりと建物の壁に囲まれ、吹き抜けになっているそこには、手入れの行き届いた多種多様な草花が朝露をおび、差し込む朝の太陽光を幻想的に反射していた。せかえる植物の青々とした香りと、湿気が充満している。一歩踏み出すたびに、石畳に溜まった雨水が靴先を濡らした。

 セルはシアンの問いに対して、すぐには答えを用意しなかった。少しの沈黙の後、ゆっくりと、自身の考えを静かに丁寧に紐解いていくような口調で、彼女は返答を始める。


「私は、当たり前のことをした。はじめは頼まれごとだったから。今はそうだとは感じていないけれどね。お前は助けられたと思っているかもしれないが、それは違う。助けられたかどうかは、相当する行為を働きかけた者には関係ない。もし、私たちがこうして出会ったことに、何かしらの意味があるのならば、が分かるのは今ではない、まだ一つも始まってはいないから」


 セルは少年に対して救済を施してはいない。他の誰がどう思おうとも、少なくとも彼女はそう思っていた。偶然にそういった形の出会いとなっただけであり、少年を連れて帰ることは、彼女にとって一つの仕事でしかなかった。勿論、彼女が少年に興味を持たなければ、の話である。セルは一見して弱弱しい少年が持つ、知的な佇まいと、硝子細工のような脆さの中に意志の強さが宿った、誰もが目を奪われるような青い瞳に、関心を引かれた。


「ともかく、明日からは図書館の仕事を覚えてもらわなくちゃ。今日の最後に図書館の館内を案内する。王宮が最も誇っても良い程の施設だ。誰が見たって驚く。楽しみにしておいて」


 誇らしげな顔で図書館を語るセルの笑顔が、朝日に照らされて一層美しく見える。長い黒髪が中庭に吹き抜けた風に揺れ、上品な香油の匂いが薄っすらと漂った。


「……はい。ありがとう、ございます。いろいろと」

「気に入ったのなら、大切にね」


 中庭を抜け、再び建物の中に入ると、忙しなく動く人の気配を感じられるようになる。静かではあるが、足音や扉が開閉する音と、全く違った多数の魔力を微かに感じられる。


「その、僕が、こんなに大きな場所で何を出来るか、分からないですけれど……宜しく、お願いします」

「うん、改めて、よろしく。シアン」


 二人はもう一度、握手を交わした。

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