図書館に住む者 3

「シアン」

「何ですって?」


 少年が着られるようにと服の手直しをしていたセルが唐突に呟いた何らかの固有名詞に、温かい珈琲を用意していたケイが眉を顰める。少年は、たった今まで深く寝ていた為、寝ぼけ眼を擦り起き上がりながら、二人の方を見ていた。

 三人は図書館の隣、司書室で再び顔を合わせた。司書室はセルの自室も兼ねているようで、整頓されているが所々に私物が転がっており、生活感のある執務机と寝台が部屋の奥に見える。一人で過ごすにはあまりにも大きい部屋の大半は、如何にも値の張りそうな装丁に小難しい題を捺した本を詰めた、巨大な本棚に占拠されていた。少年は体を洗い、ケイに取り敢えず、と渡された服に着替え、この部屋に通された後、寝ていても構わないと言われるが儘に長椅子で落ち着いた眠りについていた。


「シアン、だよ」

「だから何ですか。急に」

「名前」


 そう言ってセルは少年を指さす。少年は話の話題が唐突に自分に回ってきたからか、困惑した表情になる。


「……僕の……、ですか?」

「そうだよ。お前以外に誰がいる」


 セルが少年の澄んだ青を正面からじっと直視する。セルは、化粧っ気は無いが色白で、一重の切れ長な瞳のその鋭さ知性を感じさせた。落ち着いた、それでいて堂々とした立ち振る舞いが、いい意味で人の関心を引き付ける。魔性の魅力を覚えさせる雰囲気は、少年がはじめに彼女を『魔女』だと考えたのも頷ける。そんな彼女の視線に少年は、半分寝ていた意識が覚醒し、羞恥心から握っていた手巾で顔を隠そうとするが、セルは少年の手を静かに制しながら、意地の悪い笑みを浮かべてもう一度、ソプラノの声で呟いた。


「シアン」

「……」

「お前の名前だ。唯一無二の世界を映す、その瞳の色。安直だが、名前的だし、悪くは無いだろう」


 少年には、自分に不釣り合いだと思える瞳が持つ意味も、青色の定義も分からなかったが、自分という存在を表す名前という記号に、今まで自分の感覚には音沙汰の無かった確かな鼓動の音が、聞こえた。微かに胸が震えたのだった。


「どうだ?」

「……ぃぃ、です」


 少年──シアンは流石に照れ臭そうに頬を赤らめ唇を噛み、そして口の中で自分の名前を反芻した。彼が覚えたのは、単純で純粋な嬉しさだった。


「そうだろう、さっき爺と話している時にずっと考えてた」

「リブラを爺と呼ぶと、あなたがいつか呪われるんじゃないかと……まぁいいや……セルさんにしては良いじゃないですか、珍しく。彼によく合ってます」


 ケイの嫌味のこもった言いようにセルの誇らしげな顔が僅かに崩れ、裁ち鋏を手にしたままそれを投げつけんばかりの勢いで立ち上がる。


「私にしては、とは何だ。私の名付けの感覚についてお前はいつも文句をつけるね。余計な言葉が多いんだよ」

「怖いので座ってください」


 ケイが苦笑いでたしなめると、セルは鋏を作業机代わりにしていた書見台に置き、手にしていたシアンの服を軽く畳み、別に置いてあった同じような色をしたものと合わせて彼に渡した。少年の手に渡ったのは、鈍色をした手触りの良い、何かしらの正装だった。


「これは…」

「かなりの昔に使われていた図書館の制服、らしい。片付けていたら出てきたんで、いつか手伝いを雇ったら着せてみたくてね」


 古くなっていたところは私がちゃんと直したから着られなくはない、と言われ広げて見てみると、新しく仕立てたと言われても納得のできる程に綺麗であった。元の保管状態が良かったのもあるだろうが、セルの手先の器用さに感服するしかなかった。


「どれ、着て見せて御覧」

 セルに言われてシアンは制服に袖を通す。見た目に反して軽く、小柄な少年の体にぴたりと合った。


「うん、似合ってる。後で髪も揃えよう。あぁ、それと……これも、シアンに」


 珈琲と食事を運んできたケイが、率直な感想を述べ、そして何やら懐から、小さな金属製のものを取り出し、それをシアンの制服の胸ポケットへつける。台形の中に本と花を象った精巧なもので、ケイの胸元に下がるペンダントにも同じ物がある。


「これは、図書館員だけが持てる鍵なんだ。君がさっきセルさんと通って来た扉も、この鍵があることで出入りできるようになる。この鍵自体が持つ魔力回路と図書館独自の結界魔法が共鳴して、一時的に壁が扉になる。持ってないと運悪く締め出される可能性があるから、なるべく肌身離さず持っていて」


 少し熱く、さらに早口で説明したケイの言葉にシアンの視界の端でセルが、罰の悪そうな顔をする。


「ねぇ、セルさん。肌身離さず持っておいてくれないと困るんですよ。貴方が帰って来る度に、俺は玄関で忠犬のように待っていなきゃいけない。それって合理的じゃあないですよね?」

「あぁ、分かった。分かったよ。着けてればいいだろ」


 ピアスやペンダントなど、装飾品を多く身につける傾向にあるケイとは反対に、どうやらセルは何か余分に装着することを嫌うようで、鍵が付いた腕輪さえも自室の隅へ追いやられていた。渋々何処かから拾い上げていたが、その後本当に着けたかどうか真偽は定かでない。

 やがて辺りに、珈琲と、空腹を刺激する香ばしい匂いが漂う。セルが少年を王宮へ連れて帰ったのが明け方で、それからようやく朝日も昇り、今この時間、朝食には丁度良い時刻になっていた。


「麺包に糖蜜を挟んだだけのものだけれど、朝は何か食べておかないと頭も体も働かないから」


 ケイの促しもそこそこに、シアンは麺麭に手を伸ばす。一口食べると食欲を刺激されたのか大きな口を開けてあっと言う間に一つ食べ終えてしまった。麺麭や糖蜜自体は、何処の市場にも売られている庶民的なもので、珍しいものではないが、彼にとって、こうしたまともな食卓というのは、余りにも新しく見えたばかりではなく、涙が意図せず出てしまうような、そんな鮮烈な感情を覚えざるを得なかった。

 口の周りに糖蜜をつけて次のものに手を伸ばすシアンの様を見て、ケイは珈琲ばかり口にするセルへ麺麭を差し出す。


「セルさんも食べてください、散々走ったって言っていたでしょう?」

「あぁそうだった。……思い出したら腹が減ったよ。それでシアン、あれは何だったんだ」


 麺麭を頬張っていたシアンは、慌てて咀嚼を早め、珈琲で胃へ流し込む。セルは麺麭を上品な大きさに千切ってゆっくりと食べ始めた。


「僕には、さっぱり……心当たりも、無くて」

「てっきり知り合いかと思ったけれど。違うのか」

「あれは、前にも追いかけられたことがあったから…」

「子ども同士の喧嘩ならいざ知らず、あんなのは『楽しさ』や『遊び』の定義を完全にはき違えた化物だな。力の使い方を教わっていない」

「子ども同士?相手はまだ小さいんですか?」

「そうだった。言動も子供らしいと言えばそうだし、……恐らく、シアンよりも子供だったね」

「なら、狗の類では?魔力の制限がある王宮の周りでセルさんの足の速さに追いつける子どもなんて、考えられないですよ」

「狗……ですか?」


 聞きなれぬ単語に、シアンが何とか割って入る。セルとケイの淀みない会話の調子は彼にとってまだ慣れたものではなく、話に割って入ることも精一杯ではあった。


「狗というのは、生まれは貧民街の、言ってしまえば一種の反抗組織ってところ。かなり昔から存在してる、らしい。例えばこの王宮が一定値の魔力を持ったものしか入れないように、魔力による階級制度、魔力によってを忌み嫌う者たちが、力の強い者やそれに準ずる人ならざるもの、異分子を一方的に狩る。そういった、不特定少数の実態がない組織だ。彼等は非合法な手段で魔力を増幅させて、狩りをする。手段に決まりはなく、狗絡みの事件が起きても軍警はお手上げ。誰かが捕らえられた例は無い。説明はこんな感じか?」

「良いと思いまーす」


 セルが説明している間、珈琲に大量の角砂糖を溶かす作業をしていたケイが空返事をする。シアンは良く分かったという風に懸命に頷いていた。ケイは損得勘定が強く、非常に分かりやすい。


「それに浮遊や物質操作……あの幼さで身のこなしも常人離れしすぎているし、やはり狗か……シアンは他には?」

「えぇ…と……その、セルさんのことを知っているようだったのと…とか、…とか、誰なんだろうって、気になりました…けど…」


 シアンがそう言うと、何か気にかかることでもあったのか、セルは麺麭を口に運ぶ手を止め、そのまま考え込むかのように止まってしまった。

 部屋に沈黙が訪れ、ケイが珈琲をすする音と時計の秒針の音が妙に響く。シアンが、どうしたら良いか分からずに三つ目の麺麭に手を伸ばしかけた時、部屋の扉が軽く叩かれた。

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