図書館に住む者 2

 セルによって投げ捨てられた雑巾を拾いながらケイは呆れた様子で溜息を吐き、少年へ向き直る。


「君も、靴を脱いで足を拭いて、あとは……身体を洗ったほうがいいかも。確か、外は暑いよね?」

「えぇ……湿度が、高いから」

「そうか、今は雨期だから、……そういえば昨日の朝まで酷い雨だったね。あ、今もまた降ってきてるかな?俺、外に出ないから分からないんだ」


 困ったように笑ったケイの雪白の髪が揺れる。男性にしては長く揃えられたその間から、ピアスが付いた耳が見えた。ケイの色素の薄さは先天的なものらしく、もちろん生まれながらにして色素が薄い者は世に多く存在するため珍しいことではないが、ケイの場合、その身はまるで何かの潔白を主張しているかの如く類のない白さを放っていた。それから、口ぶりからして彼はどうやら随分な出不精で、それは短い人生の長い時間を雨風に吹かれ外で過ごしてきた少年にとって、あまりにも考え難いことであった。後に、少年を含めたケイの周りの者たちが痛感させられる事となる彼の外の世界に対する無関心と無知は、恐らく彼を知らない者の想像も軽く超えてしまうものであろう。


「改めて、俺はケイ。王宮図書館の館員……ってことになるのかな。普段は地下の閉架書庫で、貴重書とかの整理をする仕事をしてる」


 ケイが高価そうな外套を脱ぐと、意外にも庶民的な半袖の服が現れる。こちらは少し灰色がかっていた。彼の両手に嵌められている白く上質な手袋は、初夏らしく開放感のある半袖には不釣り合いだが、彼の骨ばった大きな手と細い指を強調している。


「セルさんは君にどれ位の事を話したんだろう……?きっとあの人のことだから、大した説明もなかったでしょう?変なところで口下手なんですよ」

「あまり、聞いていない……かも、しれない、です」

「そうだよねぇ。大丈夫、俺に任せて。図書館にはセルさんより長く居るんだ。あの人よりも多く知っているなんてことは無いけど、頼りにはなると思う。……自分で言うことじゃないか」


 ゆっくりと、低く柔らかい声でそう言ってケイは静かに笑う。ケイは少年が想像し得る『王宮の人』に非常に近い。垣間見えるセルへの意地の悪さを除けば、高貴で誠実そうな佇まいと面倒見の良さを持つ彼は、少年が今までに出会ったことの無い『良い人』であった。


「君は、図書館で仕事をするってことで、良いんだよね」

「そう、みたい、です」

「そうなると、図書館のことは勿論だけれど、王宮のことも少しずつ知っていかないとね。焦る必要はないんだ。生活の中のことは、自然と覚えていくから。心配しないで」

「は、はい」


 少年のことを少しでも落ち着かせようとしてか、ケイは小さな子供に言い聞かせるような優しい声音で彼に話しかけ、そして少年の伸びきり、湿気で膨らんだ黒髪を撫でる。少年は頭に手が近づいた瞬間、本能的に頭部を庇おうとしたが、ケイは気に留めていないようだった。


「ところで君、文字の読み書きはできる?」

「読むことなら……多分」


 少年には、文字が読めるという知識があった。誰に教わったのか、どれ位の段階まで識別できるのかは理解できていない。そもそも環境の違いから、文字の読み書きが出来る者と出来ない者に大きく分けられるのだが、大した身寄りも無かったはずの少年は自分の記憶にない過去で、何者かに水準と同じ程度の教育を受けている兆しがあった。セルは彼に出会った時にそれを見抜いていたようで、ケイはセルの目敏さには舌を巻くしかないのだった。


「読めるなら十分だよ。敬語も十分使えているし、その辺りは問題なさそうだね。あ、ここが浴場。体を洗っておいで。その間に着替えを持ってくるから」


 そう言われて少年は目の前の戸を開ける。建物内の華美なつくりとは裏腹に、庶民的な小さい造りの浴場が文字通り温かく彼を迎えた。


「セルさんってば……どこまで用意周到なんだ……」


 ケイがここに来て何度目かの溜息を吐く。どうやらセルは少年を出迎えるための準備をあらかじめ整えていたようだった。

 ケイが少年の着替えを取りに姿を消すと、少年には束の間の静寂が訪れる。それは彼には稀有な体験であった。誰かの『悪魔だ』と囁く声も聞こえない、耳に焼き付く幽かな笑い声も、鳴り止まない雨音も、不透明な自分自身の苦しい浅慮も、ここには無かった。

 しかし、唐突にやってきた短い人生の巨大な境目は、あの王宮を囲む長く高い壁の如く、不明瞭で掴み難いものとして彼の思考に重く影を落とす。少年の世界には考え得る過去と未来は希薄であり、明日などという概念を想像しなかったが故に、それを明瞭に分かり始めることが彼は恐ろしくなっていた。影は得体の知れぬ憂鬱となり、彼の体を急き立てるように静かに後ろを付いて歩く。

 少年は簡単な安堵と、いつものような漠然とした不安を感じた。それでも彼は、傲慢にも生きていたいと願わずには居られなくなっていた。

 たった数刻の間に起こった小さな出会いは、彼の中を僅かに変えてしまう。

 だが、変わったのは彼だけではない。当然ながら人は、新しいものの介入を認知することに依り少なからず影響を受けるものだ。それは人それぞれではあるが、人格形成であったり、小さな感情であったり、習慣であったりするのかもしれない。

 しかし、それ以上に、彼らの出会いというのは哀しき世界の命運を変えてしまう出来事であった。

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