幕間 K

 自分はあの人のような生き方しか知らなかった。言い訳を垂れては、自らの強情と苦しい人格に対して、冷たい床に頭を打ち付けては泣くばかりである。外は夏も近づいているというのに、己の生活は常に寒くて、息もできず神経をやられてしまっていて、実は同じ場所から一歩も歩けてなどいないのだ。


 ✦


 ケイが図書館の一階で黙々と調べ物をしていると、セルが館内に入ってくる。夜は深まり、外は連日の雨もようやく止んだ。すっかり星が出ているような時間帯である。ケイはセルがすでに就寝しているものだと思っていたが、彼女の服装が外出時のものなので、一体どうしたものかと遠視用の眼鏡を外す。


「どうしたんですか?こんな時間に」

「少し出かける。悪いが、明け方に雑巾だけ用意して玄関で待っていてくれないか」

「すいません、どういう注文ですかそれ」


 セルとの会話で大抵の人が陥るのが、彼女の天性の説明不足による認識の齟齬や彼女に対する単純な疑心暗鬼である。ケイは彼自身の性格もあり、疑問に感じれば反射的に聞き返すことが多いのだが、他の相手となるとそうはいかない。セルの人間関係が部分的に複雑怪奇と思われるほど捻じれているのは、そうした要因で一悶着起こってしまうことが多いというのも一つの理由である。ケイやエリーをはじめ、周りから再三注意をされているものの、治らないのが頭痛の種である。


「なんだ、一緒に行くか」

「俺が外に出ないことを心配してくれるのは良いですけど、回答に一片の希望もない質問をするのは無益です。お互いに」

「それじゃあ、よろしく」

「え、あっちょっと!」

「悪魔を捕るなら夜だろ」

「意味分かんなっ……」


 質問をはぐらかされたことに気付き、遅くに一体どういう了見だ、と問おうと慌てて立ち上がるが、すぐ背後にある書見台に腕をぶつけてしまう形になった。


「ケイ、何をしているのですか」


 痛みと戦っていると、入り口の方角から溜息交じりの苦労人臭漂う男の声が聞こえる。


「スタルク……こんな時間にどうしたんですか」

「夕食の余りを頂いたので、届けに来ただけです」


 スタルクが持っていた包みを開ける。そこには、耐油紙に包まれた麺麭と、瓶入りの糖蜜があった。麺麭はまだ温かく、やわらかい。微かに食欲をそそる香りがした。


「麺麭か。明日の朝食にでもします」


 セルもケイも、食事を図書館の外でとる事は全くと言っていいほどにない。

 深刻な人手不足により常に忙しいのだ、とセルは言っているが、単に二人が他人嫌いなだけ、というのが最も周囲が納得できる理由であった。

 また、二人とも静かで愛着のある場所を好み、王宮の中では比較的人口密度の高い食堂を利用している姿は誰も見たことがない。こうしてスタルクが気まぐれで持ってくる食堂の余り物や、セルが外で買ってきたものを食べることが多い。

 さらに、ケイは「食べなくても生きていける」と豪語していて、実際にその通りなので、理解しがたいその性質に、彼を知る者ですら難しい顔をした。


 ここ数年は、そもそも二人や図書館の存在を知らない世代さえいる。

 セルに至っては先日、外出から戻り正面扉から入ったところ、彼女を知らない若い警備が来賓と間違えたらしく、その後、随分と丁重にリブラの場所まで案内を受けていた。その日、図書館直結の扉が不調を起こしていたことは彼女にとっては非常に災難なことだった。苛立ちと微かな戸惑いが滲んだ何とも言えぬ表情を見たエリーが終始笑いを止められず、後々スタルクに諭されていたことは言うまでもない。

 仕事の都合は勿論、意外にも活動的なセルは一日に一回以上は外出をしなければ気が済まない。しかし正反対に、ケイは自身でも最後に外出した日を覚えていない程度には、重度の出不精であった。彼の、純白の美術品が如く人の目を引く外見は、彼自身を最も悩ませる永久の問題なのだ。


「いま、セルさんが出ていきましたけど。どうかしたのですか」

「知りませんよ。出かけるって」

「……もしかすると、先日リブラさんに頼まれていたことかもしれませんね」

「リブラが?」


 王宮内の幾つかの部署を取りまとめる、いわば最高責任者の男、セルに言わせれば『爺』であるが、その彼が〈天秤宮リブラ〉と呼ばれるのは、あくまで便宜上である。スタルクは彼の秘書官的な役割であり、王宮内の事情にはたいてい精通している。


「私も詳しくは存じ上げませんが、誰かを連れてくるとかそんな話だったと思いますよ」

「そんな話にセルさんが乗るなんて……珍しい」


 何かがよほどセルのお気に召したのだろう、とケイは考えた。そうでなければ、人嫌いのセルがわざわざ自分から出向くようなことはしない筈だった。それか、よほど報酬を弾まれたか、だろう。


「どうでしょう…セルさんはお人好しが過ぎる部分がありますから」

「……」


 その節にケイとて異論は無かった。セルは言動によらず、いざとなるとこれでもかという程に優しい。


「図書館はが好きですね。先代といい、セルさんといい」


 スタルクはそう言ってケイを一瞥すると、軽い挨拶を残し、去っていった。

 最後の捨て台詞が気に入らなかったケイは、スタルクの後ろ姿に舌打ちをする。


「拾い物……俺は物かっての」


 ✦


 エリーが外出から帰ってくると、ケイが図書館へつながる玄関のポーチに座り込んでいた。

 今は初夏、連日雨が降り続いていたせいで、それは鬱陶しく世界を蒸しあげ、外を歩けば衣服が汗で纏わりつく程だ。それにも関わらず、ケイは白地に派手な金の模様が刺繍してある外套を体に巻きつけるように着込み、深々とフードを被っている。この外套は、ケイが工房に頼み込んで作らせた特別なもので、彼は随分と愛着を持って身につけている。


「そんな風にしなくたって、知り合いしかこないでしょうに」

「……気分だよ。それにしても、こんな遅くにお出かけ?こっそりここから入ってくるなんて、また男?」

「どうかしら」

「否定しないあたり、常習犯って分かるよ」

「まあ、何も悪いことしている、って訳じゃないから」

「へぇ、本当に?」


 ケイは眠たそうな目でエリーを見る。不機嫌な顔からして、セルにまたここで待って居ろと言われたのか、スタルク辺りと喧嘩したのだ、と考えた。

 図書館側の玄関口は、表側を通ってくるよりも人が少なく、こっそりと出入りする者が多い。大抵は、遅くまで飲んでいたとか遊んでいたとか、そういった理由だ。

 図書館の職員とある程度交友関係にあれば、鍵を外から開ける権利は獲得できるのだった。もっとも、人付き合いの良いほうではないケイとセルを相手にするのだから、望んでも誰もがそう易々と得られるものではない。

 エリーは、図書館とは何かと付き合いがあり、保護者的な立場になっている。見た目は成人していないと言っても納得できる若さで、派手を好むが、王宮内では最年長のリブラと肩を並べる程の、かなりの古株である。実年齢を聞いたことがある者は、誰もいないのだった。


「そういう態度をやめなさいって、言っているでしょう?全く、それで、何してるの?」

「知らないよ、セルさんがこの時間に雑巾を用意して待ってろっていうから、待ってる。何があるのか分からないから、答えようがないね」

「セルが?」

「何でも、リブラに頼まれごとをされたとか、誰かを連れてくるって、話らしい」


 エリーもやはり王宮の内情には詳しい。ケイはてっきり、先刻のスタルクのように「なんだ、その事か」とあしらわれるかと思っていたが、エリーの表情は珍しく険しいものだった。


「セルに頼み事……成る程、ね」

「どうかしたの?」

「少しリブラの首を絞めてくる急用を思い出したわ!じゃあ、私はこれで!」


 余程、心当たりがあったのか、子どもが新しい遊びを思いついた時のようなとびきりの笑顔で、エリーはケイの肩を叩くと、恐ろしい速さで廊下の奥へ駆けていく。取り残されたケイは、その嵐の如く去る後姿に力なく手を振るしかなかった。

 足音すら聞こえなくなると、一人の静寂がまた始まる。玄関口と言えども、分厚い壁に外界とを遮断されていては、どうしても耳鳴りがしてくるほどに静かになってしまう。


「鍵、持っていけばいいのに」


 小さく漏らした独り言でさえも、虚しく響く。背を丸めて前屈みになり、溜息を吐くと、透けるように白い髪が、静かに頬を撫でる。

 一人には慣れている。ずっと同じ場所で何かを待ち続けることにも、慣れている。その寒さと冷たさにも、慣れたはずだった。だが、彼女という人の温かさに触れてしまった以上、を恐ろしいとしか思えなくなっていた。

 彼の琥珀色の瞳には、未だ少年の面影が濃く残る。



 それは、帰らぬ人を静かに待ち続ける、彼の仕舞われた昔話。

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蒼に、涙雨 明乃ゆえ @sakuha

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