壁の向こうにあるもの 2
少年にははじめ、何が起こったのか理解できなかった。しかし、落ち着いて魔女の手元を見ると、魔女の白く細いしなやかな手の中には見たこともない形状の銃が握られているではないか。
「流石に外したか……何だ、…あぁ、なかなかに珍しいだろう。実弾を込められる型は今じゃ希少になったからな」
人工的に魔力を生成できる技術が飛躍的に成長するこの世界では、武器はどんなに簡単な形状でも必ず簡略化された魔力の伝導回路が仕組まれている。銃であれば銃身に送った魔力を圧縮し放つことができるため、価格や機能性の面で実弾はかなり廃れていた。
「こういう趣味の悪いのが居てだな。嫌いではないけれど……──そこか!」
セルが次に銃口を向けたのは壁の反対、古い煉瓦造りの建物が無作為に立ち並ぶ方向だった。またしても破裂音と硝煙が上がる。
「別に殺そうってんじゃないんだよ。こそこそされるのが嫌なだけだ。おい出てこないか!」
セルの透き通った高い声が響く。少年は身を固くして誰かの姿を探した。
「あっはは!ばーかじゃーん?」
間もなくして、幼い声が頭の上の方から響く。
「正義ごっこも大概にしときゃいいのにねえ?こーゆーのは逃げたモン勝ちだって、教わらなかったのかにゃあ?ほら、ぼさっとしてると、死ぬよ?つーかアンタ邪魔。私はそこの悪魔クンと、遊びたいなぁ」
挑発的な言葉をまくしたてるやいなや、何者かが正面の建物の一番上から少年たちに向かって飛び降りてくる。少年は、その人影にチラリと光るものを見て背筋を凍らせた。
「ナイフ――」
殺される、そう思った瞬間、少年の視界が思い切り揺れ、体が宙へ浮く。セルが体当たりの要領で自分ごと相手の落下位置から回避したのだった。セルが日差しを避けるようにして被っていた外套のフードが弾みで取れ、彼女の長い黒髪が風に揺れる。
「クッソ、本気で殺しに来てるな。誰の差し金だ。どうやってここまで来れた?」
「逃げるなし。マジ最悪。別に誰とか無いし。別に、散歩してたら見えただけだもん。私は私が楽しいことを、するんだよ」
音もなく着地した相手は、まだ年端もいかぬ少女だった。薄紅色の髪と赤い瞳の目立つ、幼い容姿に似合わず、無邪気とは程遠い笑みを湛え、手の中で小さなナイフを何本ももてあそんでいる。
「君、は」
少年は自分が遭った出来事を思い出す。つい先日は頭の上へ大小様々な石たちが降り注ぎ、その前は真正面から妙に生臭い水を思い切り浴びせられ、さらには親の仇のような形相で、見知らぬ少女に後ろから斬りかかられた……。
「覚えてたの?ウケる」
「どうし、て」
「私が君を殺すのは、あの人との約束で、でも余計なことはしないほうがいいってアイツに言われてんだけどお、興味持っちゃったんだから仕方ないよね。だから、殺されて?」
少女の口元が笑顔に歪む。少年の脳内は恐怖に埋め尽くされ、身動きが取れなくなっていた。
「逃げるぞ!」
セルが少年の手首を乱暴に掴み、二人は走り出す。半ば引っ張られながら走る少年は、体制を崩しながらも、セルに何とかして追いつく。
「いいか、この道をずっと行き止まりまで進む」
「でも」
「お前はここで死にたいのか」
掴まれた手首が力強く引き寄せられ、少年はセルの隣へ並ぶ。彼女の眼はあまりにも真剣で、青い瞳はまた宙を泳ぐ。
「私から目を逸らすな。生きたいと少しでも思うなら、返事をして。私は絶対にお前を殺したりはしない」
「……」
少年が見ず知らずの自分についてくる理由を、セルは分かっていた。少年はただ単純に、漠然と、一人で死ぬことへの恐怖を感じていたのだった。誰でも、何でも良かったのだ。自分を認識して、自分の最期を見ていてくれるなら。
「どうしてそこまで、するんで、す…か」
「…いずれ、話す時が来る。まずは、逃げ切ることが最優先だ」
「どこへ」
ようやくそう聞くと、セルはここにきて初めて呆けた顔を見せる。
「……言ってなかったか?」
「言ってない、です」
「そうか……悪い癖だな。大事なことを言わない。またケイに怒られる」
そう独り言を漏らすと、少し考えた後で走る速度を落とし、再び口を開いた。
「王宮図書館に行く」
王宮、図書館。急に飛び出してきた重圧感のある固有名詞に、少年の思考と足が止まった。王宮は、名の通りこの世を司る場所である。しかし、王宮の者たちは表舞台に姿を現すことが少なく、宮のそれ自体もどの場所にあるかはそこに仕える者でない以上、知る余地がないと言われている。それに加えて、図書館は叡智の象徴であり、書を読み解ける者はあらゆる方面から重宝される。二つの名が合わさった王宮図書館は、どんなに格式高く、権威のある場所なのか。目の前にいる彼女がどのような関わりを持っているのか。少年には気が遠くなる話だ。
「……」
「なにも娯楽をしに行こうって話じゃない。そこは私が取り仕切ってるんだ」
疑問符で頭の中を埋め尽くされている少年をよそに、セルはさらに話を続けていく。
「利用者は大していない癖に、本ばかり増えていって仕方が無い。人手も足りないし」
「はぁ……」
少年は完全にセルの話が呑み込めなくなり、先ほどまでの緊張感が嘘のように気の抜けた返事をする。
「詰まるところ、お前は知らぬ内に王宮へ向かっていて、その中にある図書館で働くということ、になる」
「は……はい」
「とりあえず、行き止まりが図書館に続く扉になる。例え追いつかれても中に入ってしまえば大丈夫だ」
二人は再び走り始める。少年の薄汚れた衣服は、外気の蒸し暑さで掻いた汗と冷や汗で、僅かに身体へ張り付いていた。擦り切れて平らになった履物から直に伝わる石畳の硬さが、いつも以上に感じられて、少年はその感覚に顔をしかめる。
「もっと趣味の悪い所に行くと思ったか?嫌なら引き返せよ」
セルが意地悪く口の端を吊り上げる。彼女との会話で、少年は心を見透かされているような心持に終始、肝を冷やしていた。
「いいえ、……行きます」
彼は噛み締めるように呟く。セルが満足げに笑うと、走る速度が速くなった。少年にとって、どこへ向かうのかは、さして重要ではなかった。王宮などと考えの及ばない場所であっても、それでも引き返したいと、嫌だと感じないのは、彼自身にも不思議なことだった。
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