一章 星を追うように
壁の向こうにあるもの 1
【???】
これは私の物語ではない。
まずはそれだけ、言っておこう。
✦
黒ずくめの魔女──セルと名乗った女性の後ろを、襤褸切れのような服を纏った少年が歩く。路地の奥の暗闇は彼が想像していたよりもずっと深く、目を開けているのかさえ不安にさせるものであった。湿度の高い空間に、ただ二人分の足音が妙に反響するばかりで、少しぼうっとしていれば、何処かへ意識を手放してしまいそうになるほどの曖昧さが続いている。
「気をしっかり持てよ。さもないと、出られなくなるぞ」
前方から聞こえるセルの声も、ぐわんぐわんと反響して呪文のように聞こえはじめ、少年は不安を覚えて思わず、歩くのが速いセルに合わせて歩こうとするが、舗装されていない地面が不安定なせいで前につんのめってしまう。情けない呻き声とともに転ぶかと思った瞬間、魔女の手が前から彼の体を支える。
「置いて行きはしないから、自分の速度で歩け。分かったな?」
近くで、はっきりとセルの声が聞こえ、少年は安堵の息を漏らす。
「…は、はい……」
そうして歩き始め、どれ程の時間が経ったかも曖昧になった頃、唐突に視界が明るくなる。少年は眩しさにはじめは目を手で覆うが、ようやく目が慣れると、夜明けの明るい空と、目の前には相変わらずの一本道、そして目を見張るほど高くそびえる壁が見えた。明るさを我慢して上の方へ目を凝らしても、壁は天まで伸びているかのように終わりが見えない。横も同じように、一本道と壁が連れ添って永遠に続いている。
「どこまでも続いているみたいだろう?」
ずっと壁に気を取られている少年に、魔女は口の端を少しあげて、皮肉めいてそう言った。少年は小さく頷く。
「そう見えるだけだ。そういう風に見させられているんだよ。魔法にね」
短く、それでいて何処か噛み締めるように、魔女は言う。その眼には、この世界の住人達によくある、魔法に対しての崇高さの感情は映っていないように、少年は感じた。
早足で歩き出すセルを慌てて追いかける彼の頭の中は、疑問で一杯になっていた。自分は何処へ向かっているのか、目の前の魔女は何者なのか、この壁の向こうには何があるのか。少年には、この壁の向こうに何も無いようにも思えた。しかし、何故このように高い壁を、誰も訪れないような路地のその奥へ築く必要があったのだろうか。
「ほら、行くぞ」
少年との距離を随分と伸ばした魔女が、長らく壁と睨めっこをしている少年に向かって叫ぶ。まだ聞き慣れない魔女の高い声に急かされ、慌てて彼女を追いかけた。
少年は数日前に家出をした身であったが、年の割に低い身長や、痩せた体、伸びきった黒髪など、貧民街の子供と風貌はあまり変わらず、とても誰かと寝食を共にしていたようには見えなかった。そんな彼の容姿で誰もの目を引くのは、まるで空か海の青を映しとったような瞳の色である。
「お前の瞳は随分と良い色をしているな。さぞ珍しがられただろう」
セルが何となく後ろを振り返って聞く。壁に意識が行っていた少年は突然自分のことについて言及され驚いた表情をするが、すぐに怯えたような、自信のない弱気な表情に戻ってしまう。少年と出会ってからまだ時間はさほど経っていなかったが、セルは彼のそういった表情しか見ていなかった。
「そんなこと、ない…です」
「……」
少年はセルから、その青い目を逸らした。彼は、常に見えない何かに怯えているように、落ち着かない様子で辺りを見回している。
「何か、気になることでも?」
そう尋ねると、少年は足を止める。そして辺りをぐるりと見渡した。その気弱な眼差しの奥には、恐ろしく研ぎ澄まされた第六感が宿っているとセルは感じた。少年は少し躊躇った後、ゆっくりと口を開く。
「……誰か、います。……ずっと、ぼくの後をつけている……ような」
少年の目線がピタリと今まで歩いてきた道のずっと奥へ止まる。セルは青い瞳の軌跡を追い、少年が見ようとしているものに気づいた瞬間、弾かれたように懐から何かを取り出す。そして、その方角に向けると、破裂音と共に煙が上がった。
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