蒼に、涙雨
明乃ゆえ
Prologue
降りしきる雨の中に、ぼくがいる。
見たこともない服を着て、知らない場所に立っていたけれど、不思議と疑問には思わなかった。
白昼夢のようにはっきりとしない視界に、誰かが見える。その人は此方へ駆け寄ると、しかめ面でぼくの手を握ったり、頬をつねったりして、それから何故か謝った。ぼくはぼくで何も言えずに、力なく笑うことしかできなくて。
苦しさとか、悲しさとかが胸をぐるぐると廻っていたけれど、ぼくはそれと同じくらい、幸せを感じていた。
少しして、ああ、これは夢を見ているのだな、と理解する。
夢の中で降りしきる雨は二度と止まないように感じられて、目が覚めても、妙に現実味を帯びた雨音が頭の中を埋め尽くしていた。
✧
この世界は汚くて卑しい。多分、魔法が人々を醜くしている。人が魔法を操るのではなく、魔法が人を、人の心を操っているのだ。遥か昔から、人以外のモノに人は操作されていて、ぼくらは救いようがない、そう勝手に思っている。
✧
皆一様に、ぼくの事を見ては不愉快な顔をした。耳を塞いでも聞こえてくる、知らない声たちの罵詈雑言が怖い。だから、自らあの訳の分からない家だって出たし、陽の当たる表通りは歩かない。寧ろ歩けない。
運がいいのか悪いのか、何とか生きてはいるものの、つい先日は頭の上へ大小様々な石たちが降り注ぎ、その前は真正面から妙に生臭い水を思い切り浴びせられ、さっきも親の仇のような形相で、見知らぬ少女に後ろから斬りかかられた。
その時に皆、口を揃えてこう叫ぶのだ。『悪魔め!』と。
──ぼくが悪魔?最初は訳が分からなかった。誰が言い始めたのかもわからない。ただ皆漠然と、まるでぼくを指して悪魔だと言うことが流行りのように、楽しそうに口にするのだ。あることなど一つもなくて、無いことばかりに尾ひれがつき、お陰で毎日のように嫌がらせや刃傷沙汰の渦中にいる。
いちばん怖いのは、ぼく自身に『悪魔』と言われるような心当たりがないことだ。だから、知らない内に誰かに悪行を働いていたのかもしれない、なんて己への猜疑心が少しばかり、心を弱らせてしまったような感じもしていた。
生きていることが何の罪だというのか、何の罰だというのか。あぁ、この世は終わりなき地獄だ。地獄は死んだ後なぞにはやって来ない。だって死んだら無であろう、死後には何も訪れないだろう。だから生きている間にしか地獄は見られない。天国もまた然りだ。
この身体も命も、もう行く当てをすっかり失っている。けれど野垂れ死ぬのだけは嫌だった。誰にも見届けられない死ほど、苦しいものはない。誰かが手を差し伸べてくれるなら、それがどんなに非道な悪であってもきっとついて行ってしまうだろう。ぼくは居場所を捨てて、新しい場所を求める傲慢さを抱えていた。他力本願であると分かって、いつだって都合の良いことを考えてしまう。
ぼくはようやく歩を止め、路地を形成する蔦の這った建物の壁へ背を預け、苔むした石畳へ腰を下ろす。つい先日まで、一週間は降り続いていた雨の所為で、地面は嫌に湿っぽい。植物の独特な青臭さが鼻を刺すようだった。
昼間の街の喧騒は随分と遠くなったようで、ひと気のない路地にはどこか異様な空気が漂っているように感じた。また誰かに何かされるかもしれない。漠然とした不安が背筋を凍らせ、呼吸を浅くする。こういう繰り返しは、自分が何に対して恐怖を感じているのかも、あやふやにさせる。ぼくは留まり堪えることを選べなかった。弱いのだ。明日を、そして今この瞬間を生きるための手段すら、形を失ってぐずぐずに溶け切ってしまっているのだ。
死ねば楽だろうか。惨めで矮小な、呪われた心臓をぶら下げて歩くなら、もう野垂れ死ぬ方が幾らかは…きっとマシだと、悶々と考え続けている。しかしぼくが死なないのは、ただ単純な恐怖の縛りのみだ。自分の弱さだけに生かされている、かなしいものなのである。
✧
ぼくは悪魔の生まれ変わりだと、誰かが噂していた。ただの噂だ。それ以上は何も無い。
本当に、ぼくは悪くない。
本当だ。……。
……………。
✧
自分の頭が前へ傾くのを感じて、目を覚ました。呆れたことに、人がいなければ暢気なもので、随分と寝ていたようだ。寝ぼけ眼で見上げた空には、昼間のどんよりとした曇り空を忘れるほどの、無数の星が瞬いている。とてもキレイだ…と純粋に思った。
星空を見ることの楽しさを、ぼくは遠い昔に誰かに教わった。遠いといっても、たかだか十数年しか生きていないので覚えていても良かったのだろうが、どうしてか、抜け落ちたように覚えていないこと、思い出せないことがぼくには多いのだ。自分のことさえ覚えていたならば、ぼくの生きる道は、きっと大きく変わっていたはずだった。
自身を理解できないという覚束なさは、常にぼんやりとした影を己に落とし続ける。意味もなく漏れる溜息とともにゆっくりと目を閉じる。すると少しして、瞼の裏の暗さが一段と暗くなる気がした。変に思い再び目を開けると、ぼくの目の前には、星空を覆うように大きな黒い影が佇んでいたのだ。
「へ…?」
はじめは魔物の類だと思った。そうであったら、少しでも動けばぼくは頭から喰われてしまうのだ。息を堪えてじっとしていると、何分経っただろう、実際はものの何秒だったかもしれない。知らぬ間に止まっていた呼吸で苦しくなるころにようやく、暗い影が僅かに動いた。
「おい」
そして、言葉を発した。澄んだ、若い女性の高い声に聞こえた。
「こんな所に座り込んでいると、
声の主は、どうやら真っ黒な外套を着こんでいるようで、かなり目深く被っていたらしいフードを取ると、ようやく人の顔が見える。少しほっとしている自分がいた。魔物だけは、御免なのだ。あれほど怖いものはない。
その人、彼女には世間一般の『魔法使い』というより、『魔女』という言葉が似合うような浮世離れした雰囲気があった。彼女の頭から膝下までをすっかり覆う
壁に身を寄せうずくまる姿勢をとるぼくを見下ろす、魔女の少し高圧的にも感じ取れる瞳はまるで吸い込まれそうなほど黒い。それが怖くて目を逸らす。
「……」
「なんだ、喋れないのか」
「……ぃゃ」
誤解されては困ると、引っかかる声を無理矢理に喉の奥から出す。掠れた、嫌な声だった。すると魔女は、何故か呆れたように手をこちらへ向ける。
「
随分と一方的で高慢な物言いに、今度はこちらが眉を顰める。
「どういう……」
「どうもこうも、お前は……悪魔だと、私はそう聞いたぞ」
「……ぼく、は」
悪魔、と言われて全身の血が一気に引いていく心地がする。何となく彼女に伸ばしかけていた手を思わず引っ込めた。
──違う、ぼくは悪魔なんかじゃない、アンタたちと同じ、人じゃあないか、違う、信じてくれ、……と叫び続けた地獄が、夜な夜な体を這いずり回り、全身を掻き毟りたくなるような地獄が、その一言でぼくをまた、死と同様の恐怖に縛る。知らぬ間に増え続ける全身の傷が、じくじくと熱を帯びて痛む。
一体、他人の目にぼくはどう映っているのだろうか。それはどうすれば理解することが可能で、いつになれば知り得ることができるのだろうか。でも仮に知れたとして、本当にぼくが人でないとしたら?
「成程な」
魔女の大きな溜息が、ぐるぐると回る思考を遮った。
「お前が何者か、必ず分かるよ。私はその為に、お前の手を取りに来た」
「…どういう」
「訳は歩きながら話す。ほら早く立て。いい加減、手が疲れた」
見ると、魔女はこちらに手を差し出したままの体制だった。戻せば良いのに、何故そのままなのか良くわからない。
ぼくは恐る恐る彼女の手を取る。少し冷たいが、どこか優しい手のような気がした。
「…ん」
「ったく…強情なのは嫌いじゃないが、それも程々だ。まぁ、私も人の事は言えんが。さて……お前、こんな所にいるのでは暇だろう。行くぞ」
そう言うと、魔女は暗い方に向かって歩き出す。この細い路地の、もっと奥だ。何があるのか、考えたこともなかった。
それにしても、暇だろう、とは失礼な人だ。暇だと思ったことはなかったが、考えてみれば確かに、ぼくはこの身一つでその日暮らしをするような身分だ。…間違っていない。
「ぁの…」
「なんだ」
「どこに、行くんですか……?」
ぼくの言葉に魔女は、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりにニヤリと笑い、暗い方を指差す。
「この国の最奥にして中枢だ」
暗い方へ足早に消えていく彼女を、慌てて追いかける。
まだ見ぬ暗闇の先に何が待っているかは分からないが、死ぬことを考え続けるよりはマシかもしれない。ぼくは初めて人の後ろを付いて歩いた。それに躊躇いはなかった。行く先で、誰かがぼくを見てくれるなら、それだけで今までの時間よりは格段に良い。どうしてか、まだ何も分からない未来に期待してしまう。こんなことは初めてだ。
「ああ、そうだ」
魔女が思い出したかのように歩みを止める。こちらへ向きなおすと、もう一度ぼくに手を差し出した。
「私の名前はセル。宜しく、少年」
✧
ぼくがぼくを分かるまで、この物語は動かない。
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