ep6「捧げし成れ果ての救世主《メシア》」
「終わったよ、やっと」
全てのモニターから光が消え去った暗闇の中、ユウキは孤独なコックピットでゆっくりと瞼を閉じる。
失血死寸前の身体を駆け巡るのは耐えがたいほどの多幸感、そして背に走るのは六枚目の翼が皮膚を突き破る鋭い痛みだった。
氷の槍で原種個体を貫いた瞬間、メシアクラフトは遂にその奇蹟の血を全身に浴びていた。機体を介してユウキにもたらされるのは、もはや引き返せないほどの遺伝子汚染と奇蹟を起こすに相応しい神の権能の一部だ。
だから、遂に
「動け」
たったそれだけの言葉を言い放つと、ユウキはもはや意味をなさなくなったはずの操縦桿に力を込める。やがて変わり果てた身を収めるコックピットシートは震え出し、今まさに機体が立ち上がろうとしている事を教えてくれた。
ただの一言が奇蹟をもたらしたのだ。
とうにジェネレーターが焼き切れたはずのメシアクラフトは再び腰を上げて行き、瓦礫の海に全高100mという巨躯の影を落とす。周囲では未だ濁流が猛り狂ったように旧東京を巡っていたが、蒼い巨人の周りだけは水面が退いていた。
亡んだ街にそびえ立つ一柱の巨人。その脇腹に刻まれた聖痕はボゥっと赤い輝きを放ち、大きく左右に広げられた両手もまた赤く聖痕を輝かせている。
それこそは救世主たる証だった。
最もオリジナルに近い聖書の文言を取り込んだメシアクラフトは、今や二千年越しに現れた神の子にも等しい魔術特性を帯びている。
――――血を浴びるっていうのはこういう事だったのか。
ユウキは奇妙に揺らぐ意識の狭間で、今の自分が持ち合わせている力の大きさに慄いていた。
人が決して足を踏み入れてはいけない領域に触れ、口から放つ言葉の一つ一つが奇蹟となって具現化する。そんな今なら人の死さえも支配できると分かってしまったから、ユウキは十年もの間ずっと胸の裡に溜め込んでいた想いを詰まらせていた。
自分はあまりにも変わり果て、遠い所へ来てしまったのだという実感が喉を詰まらせる。
カレンにずっと言ってあげたかった事は何だったのだろうか。あのクリスマスの時でさえ、こんなにも言葉に迷う事など無かったというのに。
やがて自分自身に呆れたような笑みと共に、何の飾り気も無い言葉だけが唇から零れ出ていた。
「カレン、起きて」
それは死の支配を意味する奇蹟。
ユウキが万感の想いで紡いだ言葉に応じ、現実は果たしてその通りになった。
ユウキが首から提げていたガラスの小瓶は、血で赤く濡れていた箇所から徐々に崩れ去る。中に収められていたカレンの成れ果て――――すなわち塩の結晶はさらさらと流れ出し、やがて穏やかな光を帯びてコックピット内に人影を象り始めた。
塩は腕となり、
塩は脚となり、
まるで彫像のような曲線を帯びた身体を作り上げて、ユウキが願い続けて来た奇蹟を具現化させて行く。
やがて血の匂いで充満していたコックピット内の空気に、戦場にはおよそ似つかわしないような懐かしい香りが混じっていた。
「……ッ!」
そして、ユウキの身体には暖かな重みが舞い降りて来る。
この奇蹟も失敗してしまうのではないだろうか。そんな恐れのあまりに先ほどまで閉じられていた瞳には、しかし、かつて凡庸な少年だった者が狂おしいまでに願い続けて来た光景が映り込む。
見紛うはずもない。それはカレンだった。
たった一人の、ただ一人の愛する者だった。
陽光を溶かし込んだかのような金髪で一糸まとわぬ身体を覆い、ユウキの膝の上で赤子のように丸まる一人の少女。その穏やかな寝息を立てる姿を目にした瞬間、既に眼底出血で赤く曇っていた視界は透明に滲んでいた。
触れ合った肌を介して伝わって来る鼓動が、否応なしに胸を詰まらせた。
「おかえり」
これこそがたった一人の矮小な人間として願い続けて来た奇蹟。
それでもユウキは、カレンに自ら手を伸ばすことは許されないと解っていた。こんなにも近くで触れ合っているというのに、仮初めの救世主として縛り付けられた身体では抱き締めることさえ叶わない。
それでもユウキの顔には穏やかな笑みが浮かぶ。
この為に全てを捧げて来た。だからもう満足だった。
「……そしてさよなら、カレン」
時間切れを迎えていたのはメシアクラフトだけではない。
ユウキの背からは六枚の翼が突き出し、四肢は末端から徐々に純白の羽に覆われて行く。汚染され切った遺伝子はもはや人間としての身体を保つことも出来ず、身体は自ら宿した奇蹟の力によって怪物へ作り替えられようとしていた。
二重螺旋に刻まれた神の教えに従い、この罪多き世界に正しい裁きを下す化け物としてだ。
――――そんなのはごめんだ、だから俺が俺でいられる間に。
ユウキは膝上で眠るカレンに微笑みかけると、翼のように変貌した指先でコマンドを打ち込み終える。
イコンの血を浴びた者はいずれ第二のイコンとなる。数多の奇蹟を獲得し続けた者の末路など初めから分かり切っていたのだ。
だからこそメシアクラフトには
「『汝、殺すなかれ』か。だったらこれも罪になるのか」
遺伝子汚染でいずれイコンと成り果てるパイロットを処分し、機体の暴走を止める為のごくごくシンプルなシステム。あらかじめコックピットシートに仕込まれていた殉教機能がカウントダウンを始めるにつれ、ユウキは安堵の息を吐いて行く。
カレンには生きていて欲しい。
だから共には生きられない。
自分が何を願っていたのかも分からなくなって行く最中に選んだ、それこそが一人の男の答えだった。これから葬り去ろうとしているのは、カレンが生きて行くべき世界を亡ぼしかねない最後の敵だ。
「いや、何だって良いんだ……分からない、もう俺には俺が分からないんだ」
ユウキは胸に走る痛みを必死に堪えていた。
物理的な痛みではない。壊れ行く心の痛みだった。
目の前で眠っているカレンの横顔を見つめても、つい先ほどまでの自分を突き動かして来た感情を取り戻せないのだ。
まるで脈打つ心臓を抉り取られてしまったかのように、この胸にはとてつもない穴が空いてしまっている。人を好きになるということ、人として愛するということ、その何もかもが消え失せて身体の深奥を凍えさせて行くのだった。
――――なら、どうしてこんなに痛いんだ。
目の前の少女に対して抱いていた気持ちが一体何だったのか、もう二度とは理解できぬはずの感情が胸を締め付ける。見えざる痛みに耐えていたユウキの視界は透明に揺らぎ、そしてカレンの髪にぽたりと滴が零れ落ちていた。
たとえもう愛を理解できないとしても。
なぜか片目から零れて行く涙こそが、つい一分前まで己を突き動かしていた想いの残滓なのだと悟った。一人の人間であった者として願いを遂げる為に、自分はこの答えを選んだのだと理解出来る気がした。
「きっと何に成り果てたってこの気持ちだけは消せなかったんだ……俺はきっと君を愛してた、カレン」
カウントダウンが遂に0を刻む。
コックピットシートからは軽い衝撃と共に自殺用聖槍が飛び出し、ユウキの心臓を貫いた。メシアクラフトが発動させていた奇蹟の全ては沈黙し、蒼い巨人と生ける聖人は旧東京の只中で物言わぬ彫像と化す。
聖遺物に象られた二つの人型はもう動かない。
この地上で、救世主は再び葬り去られたのだった。
「ユ、ウキ……?」
棺と化したコックピットの中には、十年もの時を経て蘇った少女の声が上がる。長い眠りから目覚めたカレンの瞼は薄く開かれ、やがてすぐに閉じられて行った。
一人の男がその身を賭して果たした願いなど、まだ知らぬままに少女は眠りに落ちる。
彼女が次に目を覚ましたのは、翌日の病室での出来事だった。
* * *
人類存亡をかけた対イコン反攻決戦からちょうど三日後の早朝。薄い朝霧が立ち込める旧東京跡地に、冬とは思えぬ薄着姿で佇む一人分の人影が在った。
入院着を纏うカレンだ。
彼女は旧東京の大規模地下シェルターに設けられた病院から抜け出し、その足で既に滅び去った地上世界を歩き続けていた。吐く息を白く曇らせ、今にも凍えそうな足を酷使してでも辿り着かなければならない場所があったから。
「ここ、だったのね」
廃墟の街を一時間も歩き回れば
見る影もないほどに壊れた東京。
見たことも無いほどに巨大な人型兵器。
何もかもが昨日までの世界とは違っていた。
起きてから目にした全てがただ恐ろしかった。
カレンは自分がほとんど異界に放り込まれたような気持ちになりながら、それでも涙の跡が残る顔を上げていた。
彼女が見上げる先にそびえ立つのは、メシアクラフトと呼ばれていたらしい人型のオブジェ。鉄と塩の彫像と化した巨人の骸は、未だにエンジェルハイロゥを輝かせてはいるものの動く気配をみせない。
この彫像がつい先日まで敵と戦っていたことなど、カレンにとってはさらに信じ難い情報だった。
――――でも、きっと病院の人たちが言っていたのは本当だったんだ。
それでも認めるしかない。
この巨人に乗り込んでいたのはユウキだったという事も。
自分が発見された時、既にユウキが
「なんで……なんでよ……ッ!」
カレンはもはや誰にも届かないと知りつつ、物言わぬ巨人に向かってちっぽけな叫びを上げる。
見知らぬベッドで目覚めた二日前の朝、自分が復活するまでの歴史は医師や看護師たちから聞かされていた。
この十年で世界はイコンという敵性存在によって亡ぼされたこと、
人類はメシアクラフトなる決戦兵器を作り上げてこれに対抗したこと、
そしてメシアクラフト初号機には、東京聖災を生き延びた聖人ニコライ=ユウキが乗り込んでいたこと――――
そんな歴史的事実の最後に付け加えられたのは、つい昨日の反攻決戦で世界中からイコンを一掃することが出来たというニュースだった。
そして反攻決戦最大の立役者は、その殉教を以て人類の守護聖人として認定されたという。
洗礼名を聖ニコライ=ユウキ。彼こそが人類を救ったのだと。
――――その為にユウキが死んだなんて、そんなことって。
それはただ想像しようとするだけで途轍もない重さとなって、彼女の意識を遠のかせる。狂っていた、聞かされた世界の何もかもが壊れていた。
誰もがユウキを聖人として讃える中で、カレンはひたすらに目の前が真っ暗になるような想いを味わうしかないのだ。
ユウキの棺たるメシアクラフトを見上げる内に、彼女は思わずその場に崩れ落ちていた。
「どうしてあんたのいない世界に私を戻したの……どうしてここまでしたの?」
崩れ落ちたカレンを柔らかく受け止めたのは、荒れ切った地面を覆う新芽の絨毯だ。今この瞬間にも、メシアクラフトの頭上に浮かぶエンジェルハイロゥからの光は、壊れていたはずの世界を修復し続けていた。
世界はきっと、これからも巨人の骸によって癒されて行くのだ。
徐々にではあるが、今まさに光を浴びたところから世界が再創造されようとしている。その爆心地とでも言うべき場所がここだった。
緑も空気も街も、何もかもが癒されるに違いないというのに。
それでもたった一人、戻らない者がいる事が少女の胸を引き裂く。
「英雄なんて、ユウキにはそんなの似合わないでしょ」
胸を満たすのは怒りか、哀しみか、後悔か、あるいはその全てか。
あのどこにでもいたはずの少年が、途轍もない使命と苦しみを背負ってただひたすらに戦い抜いて来た。その戦いの全てが自分を蘇らせる為にあったのだとしたら、とても耐え切れるものではない。
それでも彼が肌身離さず身に着けていたというガラスの小瓶は、ユウキの願いの全てを物語っていた。
――――あたしの為なんて、バカよ。こんなになるまで。
ただひたすらに燃え尽きるまで、ユウキはあのクリスマスの夜に伝えてくれた想いを貫いてくれたのだ。
そんな彼の傍にいることさえ出来なかった苦しみが、何よりもカレンの身体を押し潰そうと圧し掛かって来るかのようだった。言葉にならぬ後悔は止めどない雫となって頬を滑り落ち、寄り添うことさえ出来なかった想い人へと捧げられる。
「きっと怖かったよね、痛かったんだよね……ごめん、ごめんね、あたし傍にいてあげることも出来なかった」
泣き崩れたカレンはもう届かないと知りつつも、誰も乗ってはいないメシアクラフトに寄り添う。
そっと触れてみた装甲の表面には数え切れない傷があり、その全てが一人の少年が願いを胸に戦い続けて来た証なのだと悟った。地面にぽたり、ぽたりと吸い込まれて行く涙は、12月末の張り詰めた寒気の中で凍らんばかりに冷えて行く。
――――ありがとうね。
そっと瞼を閉じたカレンが、せめてもの償いのようにメシアクラフトの足元へと寄り添う。彼女が身を寄せる巨人の足元は、それでも生身の人間から見れば小ビルに匹敵する構造物だ。
その傷付き切った蒼い壁に背中を預けた直後、辺りを覆っていた朝霧の向こうから聞こえて来る物音があった。規則的なそれはやがて足音だと分かった。
「え……? うそ」
一歩ずつ近付いて来た足音が止まったその時、カレンは思わず目を見開いていた。
薄霧を透かして見える人影はちょうど一人分。何も証拠など無いというのに、彼女はそのシルエットにどうしようもなく懐かしい感覚を味わっていた。
誰であるか分かってしまった。
口を覆った両手からこぼれる嗚咽の声は、先ほどよりもずっと暖かい響きを以て旧東京廃墟へと響いて行く。
「ねぇ、ユウキなんでしょ? なんでよ……」
「待たせてごめん」
霧越しに見えていたシルエットは――――ユウキは、やや躊躇いがちな歩調で再びカレンの下へと進み出していた。
ユウキは黒い聖骸布の切れ端で身を覆い、無数の擦り傷が刻まれたままの痛々しい裸足で歩いて来る。
その様子に救世主としての力は見当たらない。生身では飛ぶことも傷を癒すことも出来ぬ、ちっぽけな人間として地を這う歩みでしかなかった。
彼の背にはもう六枚の翼さえ存在しない。
「三日後だから戻れたんだ、きっと。こいつのおかげで」
「メシアクラフトのおかげなの……?」
「もうこいつは機械じゃない。これ自体が神様に召し上げられたんだ」
どこか懐かしいような視線でメシアクラフトを見上げるユウキ。彼につられてカレンもまた、最後の奇蹟を執り行ったという蒼い巨人像に視線を注ぐ。
救世主の復活、それはまさしく聖書に記述された最大の奇蹟だった。
そして今この瞬間にも癒しの奇蹟を行使し続けているメシアクラフトは、パイロット無しで自律稼働している。それ自体が救世主と化したからだ。
「救世主は三日後に復活した。だから最後にメシアクラフトそのものが起こした奇蹟がそれなんだ。機体そのものが救世主になったからだと思う」
やはり愛機を見つめるユウキの視線はどこか遠い。
救世主となる為に建造された一機の兵器、そして救世主となる為に変わり果てた一人の人間。迎えた結末が分かれてもなお両者は繋がっているのかも知れなかった。
「でも、自殺したから神様にもなり損なったみたいだよ、俺の方は」
「バカ!! バカだよ、本当にバカだよユウキは……!」
カレンが涙ながらに爆発させた想いは、思わずユウキをたじろがせるほどだった。
未だ16才のカレン、26才のユウキ。果てしなく遠い十年の隔絶を物語るように大人になってしまったユウキは、しかし、それでもかつての少年だった頃そのままの不器用さで「ごめん」と謝って来る。
そして、彼はカレンの身体をそっと抱き締めていた。
互いの背に回された腕が、古傷だらけの背に/傷一つない背に触れる。
たったそれだけの肌触りで、歩んで来た時を/喪われた時を感じられる。
二人は十年前のクリスマスの時に抱き合った時よりもずっと強く、言葉には言い表せない想いを込めるかのように互いの鼓動を感じ取っていた。
「生きてる……生きてるんだよな、カレン」
「うん、ユウキも生きてるよ」
「やっぱり俺は神様には向いてないんだ。だってこんなにも、俺はカレンに居て欲しいと思う。だから――――」
十年前に伝えた言葉そのままに、ユウキはカレンと再び想いを交わし合っていた。まばらに降り始めた雪はすっかり変わり果てた旧東京を覆って行き、メシアクラフトの蒼かった体躯をもうっすらと白に染めて行く。
白い巨人像が見守る下で、二人は教会の前で止まってしまった時計の針を再び進め始める。だからこれは終わりなんかではないのだと、ユウキとカレンは無言の裡に互いの願いを伝え合う。
知っているはずの相手をもっと知りたくなった。
いつかは十年という隔絶を取り戻せるほどに。
「俺はもっとカレンを知りたい、その時間もあるはずだから」
「あたしもだよ、ユウキ」
全知全能であるなら相手を知りたいなんて思えない。
だからこそ、共に歩んで行くのは神の権能を帯びた救世主としてではなく、あくまでちっぽけで矮小な一人の人間としてだった。
今日という日は、人類存亡をかけた対イコン反攻決戦からちょうど三日後――――すなわちクリスマスだ。もしも世界からの贈り物があるとするなら、それは明日以降も続いて行く二人の未来なのかも知れなかった。
少なくともそう信じられる程度には、これは本当の奇蹟なのだと思えたから。
「好きだ、カレン」
2030年12/25。それは定型化された奇蹟が氾濫する世界にあって、ほんのちっぽけな奇蹟が二人を出逢わせた日でもあった。
二人は共にメシアクラフトの下から歩み出す。
光のあるうちに光を歩める世界が、その先に続いている事を信じて。
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