ep5「帰還せし殉教の戦士《クルセイド》」

「今度こそ、お前はここでっ!」


 人智を超えた六枚羽の怪物。超然と浮かぶその神々しいまでのシルエットを、ただ何も出来ないままに見上げるしか無かった十年前とは違う。

 今度こそ地べたに引き摺り下ろしてやる。

 かつて無力だった男の執念を乗せるメシアクラフトは、音さえ追い越しながら原種個体に突撃して行った。2機編隊エレメントを喪ったばかりの僚機は、突如として現れた六枚羽に向けて両腕を構える。


「堕ちろ!」


 二機揃っての発射。強烈な衝撃波と共に迸った聖ロンギヌス徹甲弾は、幾重もの光線となって空を切り刻み始める。

 重力に逆らって天へ降り注ぐ鉄の驟雨。その滴の一つ一つが敵の未来位置へと撃ち込まれた聖遺物の塊であり、決して回避を許さぬ必中の魔弾そのものだ。


 黄金の瞳が睨む先で一瞬の閃光が花開く。

 六枚羽の怪物に吸い込まれて行った弾頭の数々が、その身に秘めた莫大な運動エネルギーを散らしたのだ。鉄さえ沸騰させるほどの熱量は着弾の証に他ならない。

 だが、ユウキは咄嗟にフットペダルを蹴り込んでいた。


「来るぞ、避け――――!」


 驚愕に眼を見開くユウキは、しかし、そんな呼びかけにもう意味など無いことを知っていた。

 言い終える間もなく、青い炎の数々がまさしく豪雨となって天から降り注ぐ。その数はおよそ数百本。すぐ傍を飛行していた僚機にも直撃した炎は、やはり聖骸布さえものともせずに機体を熔かし切る。


 残る戦力はこれでユウキが駆る初号機のみ。僚機が咲かせた爆炎を背に、たった一機のメシアクラフトはもはや味方などいない空を必死に翔けて行った。


 ――――原種個体あいつはこちらの予知を書き換えたのか。


 恐らくは敵も同じ奇蹟を発動させているに違いない。ユウキは砕かんばかりに奥歯を噛み締めながら、神速の手捌きで操縦桿を弾いていた。

 回避に次ぐ回避。

 十字架形態へと変形したメシアクラフトは、数百本という攻撃の隙間を縫って鋭角的な回避機動を繰り返す。殺人的なGに押し潰されそうになりながら繰り出されたマニューバは、キノコ雲の合間にジグザグの飛行機雲を描き出して行った。


 とうに設計限界を超えたマニューバの連続に、苛烈な負荷に耐えかねたメシアクラフトは悲鳴を上げ始める。

 失血状態で眩む意識、暗闇に蝕まれて行く視界。ユウキもまた肉体を苛むGに耐えながら、次々に機体を掠める炎を避けて行く。


「まだかッ!」


 そして長い数秒を経て、ようやく電子音が鳴った。

 コンソール画面には『解析完了』を示す表示が踊っている。


「……やっぱりそうだったのか」


 メシアクラフトをも一撃で滅ぼす青い炎は、一体何の伝承に由来する奇蹟なのか。

 ユウキは雨のように降り注ぐ青い炎の全てを避けながら、機体のカメラアイから得られた映像を基にスペクトル分析を実行させていたのだ。

 画面上のグラフこそが、その答えだった。


 グラフに生じている幾つかの鋭いピークは、いずれも硫黄の存在を示唆している。原種個体から放たれる炎が青いのは、大量の硫黄成分が含まれているからだった。

 そういうことか、と突破口を見出したユウキの口元は歪む。


「これがソドムとゴモラを滅ぼした『火と硫黄の雨』、そうなんだろう」


 旧約聖書の創世記によれば、ソドムとゴモラには天から火と硫黄の雨が注いだという。

 人を塩の柱へと変える奇蹟のみならず、街を亡ぼした奇蹟まで。原種個体が発現させている奇蹟の多くは、特に創世記の記述に由来しているのかも知れなかった。


 そうと分かれば対抗策はある。

 目には目を、神の裁きには神の裁きを。


 ユウキはフットペダルを限界まで蹴り込みながら、再び新たな詠唱を始める。

 マッハ5以上で垂直に上昇し続けるメシアクラフトは、十字架形態から人型へ。爆発的に生じた雲塊を引き摺りながら、蒼い巨人は降り注ぐ炎に向けて両手をかざしていた。

 発動させる奇蹟の大きさを物語るように、光輪は眩いばかりに輝き出す。


「――――我は肉なる者を終わらせん。見よ、地もろとも滅ぼせ。かくあらん事をアーメン


 メシアクラフトに青い炎が突き刺さる、その直前の事だった。

 突如として炎は逸らされ、巨人がかざした掌の先には透明な塊が湧き出して行く。塊は轟音を発しながらみるみるうちに膨らみ続け、原種個体から放たれる炎の全てをかき消してみせる。


 炎をかき消すそれは、水だった。

 一つの湖に匹敵する量の海水だった。


 かつて地上世界を滅ぼし尽くしたというノアの大洪水。やはり創世記に由来する奇蹟を発動させたメシアクラフトは、かの大洪水を空に生み出している。

 激しく渦巻く海水に引きずり込まれたイコンたちは、そのことごとくが莫大な水圧に押し潰されるより他に無い。

 しかし、洪水が六枚羽に触れるかどうかというタイミングで、空に浮かぶ莫大な水塊は真っ二つに切り裂かれていた。


「く……ッ、海を割ったか! だったらなアァッ!」


 大洪水の奇蹟を無力化したのは、やはり創世記に由来するモーセの海割り伝説だ。行き場を失った海水は塊を維持できなくなり、崩壊して空中に散って行った。

 ならば、とメシアクラフトは再び掌をかざす。

 海水に混じった莫大なイコンの血を浴びることによって、メシアクラフトは再び新たな奇蹟をその身に宿していた。


 頭部に設けられた6つのカメラアイはレール上を蠢き、浮かぶ無数の敵を見据えて真っ赤な眼光を放つ。

 両手首に空いたレールガンの砲身電極から、ばちばちと紫電が散った。


「――――地に降れよ、かくあらん事をアーメン!」


 唱えた直後、辺り一帯の空域は逆光に呑まれていた。

 空には輝ける蜘蛛の巣が浮かび上がり、糸に絡め取られたイコンたちは一瞬で燃え尽きる。蜘蛛の巣の正体は、空中に撒き散らされた海水という名の導体を伝い、メシアクラフトを中心に伸びて行く数万本の稲妻だ。

 空を白く染め上げた雷は、火山噴火じみた雷鳴を一拍遅れて轟かせる。


 これも創世記に伝えられる伝説の一つ、『回る炎の剣』の奇蹟だった。

 最初の人間が発生したと伝えられる楽園〈エデン〉、そこに生える命の木を守護する為に配置されたそれは、雷の象徴だったとされている。

 回る炎の剣を模倣し、超高電圧放電として具現化させた奇蹟は、一挙に数百匹ものイコンたちを焼き払っていた。


「あれは……! 奴にも効いたのか」


 全身の排熱口から白煙を噴き出しつつ、超高電圧放電によるダメージを負ったメシアクラフトが加速を始める。強制冷却中にもかかわらず目指す先には、ところどころ黒く焦げた姿となって落ち行く原種個体の機影があった。

 ようやく攻撃が届いたらしい。

 メシアクラフトは迫り来る迎撃の炎を避けつつ、弱った敵の懐に飛び込む。ほとんど激突に等しい勢いで接触した両者は、羽を散らしつつ急速に高度を下げて行った。


「逃がすかよ!」


 黒い聖骸布を纏ったメシアクラフトと、白い六枚羽の原種個体が、互いを掴んだままもつれ合うように落下し続ける。

 人工ダイヤモンド製の爪は原種個体の翼に食い込み、最大馬力を発揮するマニピュレータはようやく捉えた敵を離そうとしない。敵もまた、鋭く硬化したらしい羽をメシアクラフトの装甲に深々と突き立てていた。


 ――――喰らえ。


 敵機を捉えたメシアクラフトの手首から、徹甲弾が容赦なく撃ち出される。

 ほとんど密着状態の砲口から撃ち込まれた鉄塊は、原種個体の身体を次々に貫通した。自身もただでは済まないほどの反動を受けながら、メシアクラフトは避けようのない距離から聖遺物を撃ち込み続ける。

 それでももがくように苦しむ敵は、まだ死なない。


 止めを刺す。


 その殺意を以てメシアクラフトが左手を押し付けた直後、六枚羽の全身からは青い炎が噴き出し始めた。

 敵に触れていた左手首がどろりと融け落ちる、その直後にユウキはこれまで味わったことの無い激痛に絶叫していた。自分の左手を溶けた鉄で焼き切られたらこうなるだろう、と思えるほどの痛みが視界を明滅させる。

 機体の切断面からは、聖なる冷却水が流血のごとく漏れ出していった。


「くそ……まだ仕留め切れないッ!」


 落ちる、速度を増して更に落ちる。両者はほとんど減速しないままに、未だ核爆撃の余波で煮え立つ海面へと突っ込んで行った。

 かつての駆逐艦にも匹敵する数千トン級の重量物が、全速飛行する戦闘機よりもなお速く落着したのだ。旧東京湾にはビルほどもある水柱が打ち立てられ、爆撃じみた衝撃はソニックムーブとなって高波を巻き起こす。


 巨人と六枚羽はそれでも止まらない。

 荒れ狂う旧東京湾の海面を掠めるように、メシアクラフトと原種個体は超音速域でのドッグファイトを繰り広げ始めていた。もはや人間の動体視力ではその軌跡を追い切れない、返り血で真っ赤に穢された姿を視認することさえ難しいほどだ。


「地に降れ」


 かくあらん事をアーメン


「肉なる者を滅ぼせ」


 かくあらん事をアーメン


「捧げ尽くせ」


 かくあらん事をアーメン


 海面を超音速で掠めつつ、メシアクラフトと原種個体はほんの数十秒足らずの間に数々の奇蹟を行使し続ける。極めて大規模な奇蹟の応酬を重ねつつ、両者はほとんど同格の怪物へと至ろうとしていた。

 必死に操縦桿とフットペダルを操り続けるユウキは、自分の背からまた一枚、新たな翼が皮膚を突き破る痛みを味わっていた。


 ――――これで五枚、奴と同じになるまであと一枚。


 遺伝子汚染はもう後戻りできないほどに深刻化している。数多のイコンの返り血を浴びる事によって書き換えられたDNAは、今やその七割以上が聖書の配列へと置き換えられようとしているのだ。

 そして心もまた、書き換えられようとしていた。

 憎悪に昂っていたはずの心が、熱を失って徐々に凪いで行く。目の前の化物を何のために葬り去ろうとしているのか、ユウキはその意味さえも見失いかけていた。


 ――――俺は皆を救うために戦っているのか。


 この世界を救いたい。

 六枚羽との激しいドッグファイトを繰り広げる内に、心の隙間にはそんな想いが湧き出して来る。生けとし生ける者たちの為にこの身を捧げられるのならば、と恐ろしいほどの使命感が身体を食い破ろうとしているかのようだった。


 それこそは、神が抱く無限にして普遍のアガペー

 あと一歩、この感情に踏み込んでしまえば人の心など壊されてしまうのだ。ユウキは奇蹟を振るう度に召し上げられそうになる心を、すんでのところで踏み止まらせ続ける。

 首から下げたガラス小瓶の重みを感じ、自分がこの十年間を誰の為に捧げて来たのかを思い出す。


「違う」


 守り切れなかった笑顔を、この腕の中で止まった鼓動を。そしてどんな代償を支払ってでも取り戻したい少女の姿を脳裏に思い描く。

 強気なくせに繊細で。

 人を惹き付けるくせに鈍感で。

 出逢った瞬間から傍に居続けたいと思えた、たった一人の、たった一人のかけがえのない幼馴染がカレンだ。どれほどの時が経とうとも胸に抱く想いは何一つ色褪せていない、だからこそユウキは血塗れの身で吼える。


「俺が愛しているのはカレンだけだ……だからアアァッ!」


 ユウキはメインモニター越しに白い敵影を睨みつつ、機体の制御システムにとあるコマンドを打ち込んでいた。


 途端に、身体は苛烈なGに押し潰されかける。

 推力が増大したのだ。コックピットを震わす異常振動は収まる気配もみせずに増大し続け、核融合炉からの供給電力は平常時から倍加する勢いでメシアクラフトの全身へと注ぎ込まれて行く。

 球状トカマク型核融合炉を形成する二つの人工聖杯は、自壊寸前の全力稼働を始めていた。コックピットに鳴り響く鋭い警告音は、聖杯内のD-Tプラズマ圧が危険域にまで高められている証だ。


「人工聖杯のリミッターは全て解除完了。あと90秒で決める……!」


 設計限界を超える出力を得たメシアクラフトは、残り90秒足らずで崩壊する身を六枚羽へ差し向けていた。

 リミッターの解除はジェネレーターが熔融するリスクと引き換えに、発電能力を一時的に増大させる諸刃の剣だ。先ほどとは段違いの機動性を発揮する機体は、筋繊維に破滅的な馬力を蓄えながら右爪を振り上げる。


 一閃、あまりの衝撃波に海面が叩き割られた。

 人工ダイヤモンド製の爪は、六枚羽の一つを根元から斬り飛ばしていた。爪は敵から撃ち放たれた迎撃の炎さえ切り裂き、原種個体のボディを軽々と引き裂いてみせたのだ。

 五枚羽と化した原種個体は傷口から血を噴き出し、聖骸布の巨人から逃れるように海面すれすれを翔けて行く。


「待て……ッ!」


 メシアクラフトは掌から超高圧放電の稲妻を伸ばしつつ、傷付いた五枚羽の原種個体を追い上げる。

 旧羽田空港の滑走路を掠めるようにして、巨大な倉庫が立ち並ぶ大井埠頭へ。それぞれに白い傘のようなヴェイパーコーンを纏う両者は、いつしか旧東京湾沿いの港湾地帯を突っ切るルート上に乗っていた。


 錆びれたコンテナ埠頭の上空を、白と黒の流星が音もなく翔け抜ける。

 ほんの一瞬、音が消え去った世界に暴風が雪崩れ込む。

 静けさを引き裂いたのは轟音の嵐だった。積み上げられていたコンテナはまるで紙切れのように宙へと巻き上げられ、旧東京の港湾施設群は瞬く間に粉砕されて行く。


「エンジェルハイロゥ、最大出力展開を継続!」


 原種個体は止まらない。

 メシアクラフトも止まらない。


 ユウキはおよそ人間の動体視力を超えた超高速戦闘に身を置きながら、トリガーボタンを引き込んでいった。無人の街を穿つ徹甲弾は高々とキノコ雲を巻き上げ、マッハ20以上で撃ち出された徹甲弾は海面を抉り抜く。

 その破壊力たるや、まさに小型隕石の落着そのものだ。

 つい数秒前までレインボーブリッジだったものが、千切れた鋼線を鞭のようにしならせながら崩壊する光景が見えた。


 リミッターを解除しての連射砲撃は続く。

 その中の一発が、いつしか原種個体に直撃していたらしい。

 わずかに軌道を乱した五枚羽の隙を見逃さず、メシアクラフトは敵の白い体躯を抑え込むように急降下していった。そして渾身の駆動力を注ぎ込んだ鉄拳が、数十tの質量弾そのものとなって白い翼へと撃ち込まれる。

 パッと人工ダイヤモンドの破片を散らしつつ、右拳までもが押し潰されていた。


「逃げられると思うな!」


 巨人に殴られた五枚羽はたまらず墜落するしかない。

 既にここは千代田区上空だ。元は官公庁ビルが立ち並んでいた桜田通りに、全幅100mにも達する五枚羽の怪物が叩き付けられる。地に落ちた翼の怪物はぴくぴくと動き出そうとするも、無残に傷付いた身をクレーターの底で震わせるだけだった。

 が、ふいに光が零れ出す。

 原種個体が直視できないほどに眩く輝き出したのは、メシアクラフトが直上より舞い降りようとした時のことだった。

 

 ――――なんだ。


 次の瞬間、原種個体は一本の光線を絞り出していた。

 イコンたちが帯びる奇蹟の光を増幅させたそれは、聖なるレーザー光とでも言うべき致死の光線に他ならない。数万kmの彼方まで伸ばされた光線は、まるで灯台がそうするかのようにぐるりと周囲を薙ぎ払う。

 レーザー光は雲を撫で、

 次々に高層ビルの森を撫で、

 遥か先のスカイツリーをも撫でていた。


 光が当たった箇所に発火や爆発は起こらない。

 拍子抜けするほどに静かな一秒が過ぎ去った後に、街には大地震もかくやという破断音が轟き渡り始めていた。霞が関一帯に立ち並んでいたビル群がことごとく傾き、聖なるレーザー光に薙ぎ払われた軌跡に沿って崩壊しつつあるのだ。


「くそ……ッ!」


 レーザー光を避け切れなかったメシアクラフトもまた、不意を突かれる形で装甲を切り裂かれている。原種個体が放った光は着弾箇所を塩と変え、黒い聖骸布をもたった一撃で切り落としたのだった。


 そして、遠方を見据えていたユウキは戦慄に身を凍らせる。

 彼の見つめる先でゆっくりと傾きつつあるのは、レーザー光に半ばから切り裂かれた東京スカイツリーだ。塩と化した断面からぽっきりと折れ行く高層建築群は、かつての首都を震度6強もの局所地震で崩壊させつつあった。

 それはまさしく首都直下地震にも匹敵する災害。

 まるで竹のようにしなるビル群はやがて破断し始め、至るところで水柱が立ち昇る。液状化現象で湧き出して来た泥水は街を茶色く汚して行った。


 ――――ジェネレーターが熔融するまで残り30秒。


 何もかもが壊れて行く。

 街もメシアクラフト自身も崩壊はもはや止められない。

 そんな破滅的光景の最中でなおも戦うのは、人智を超えた怪物だけだった。

 降り注ぐ瓦礫の雨を浴びながら、満身創痍の五枚羽とメシアクラフトは再びドッグファイトを繰り広げ始める。傾きつつあるビル群の合間には、一斉発射された百発以上の聖遺物ミサイル群が次々に炸裂して行った。


 方々で一斉に吹き飛んだ着弾点の一つ。恐るべき勢いで流れて行くモニター映像の中には、ほんの一瞬だけユウキの視線を釘付けにする光景が紛れ込んでいた。

 それは街の小さな教会だった。

 クリスマスの夜にカレンへ想いを伝えた場所は、ミサイルの起爆に巻き込まれて木端微塵に砕け散る。きよしこの夜の残響が耳に蘇るようだった。


 ――――十年前に二人で歩いた東京が壊れて行く。


 あのクリスマスの夜、カレンと見つめ合っている間はまるで世界が2人だけになったように思えた。教会の前に広がるちっぽけなセカイが互いの全てだったのだと、ユウキは無残に砕かれて行く東京を見て歯噛みする。

 想い出はあまりに遠くなってしまった。

 なんでもない幸せが当たり前にあったはずの世界は、もうこの地球上のどこにもありはしないのだ。

 かつて共に歩いた東京はもうない。

 彼女が好きだといってくれた自分ももういない。


「もうあの世界にはもう二度と戻れないとしても、それでも俺は……! 俺はあの夜からもずっとカレンだけを見て来た!」


 変わり果てた自分に残された願いはただ一つ。

 その為に成すべき事は何か、答えもまた一つだった。

 翼を喪って五枚羽に堕とされた怪物を、人の身にありながら五枚羽と化したユウキが追う。


 仇と同じだけの翼が突き出した身体に鞭を打ち、ユウキは釘に貫かれた両手で操縦桿を押し込む。さらに増速した機体のGが臓腑を破裂させるとも、視界が赤く染まるとも、彼は決して原種個体から瞳を逸らそうとしない。

 十年の時を経てようやく同じ地平に立てた怪物の姿を、彼もまたメシアクラフトという名の怪物を操りながら網膜に焼き付ける。


「なぁお前は憶えているのか、十年前にここに降りて来た時のことを。俺はあの時お前を見上げていたんだよ、それがどんな気持ちだったか……街も人もカレンもお前が全てを奪い去った!」


 港区赤坂から六本木にかけてのゴーストタウンに、突如として莫大な水塊が湧き出し始める。メシアクラフトは無残にも潰れた両手をかざすと、街に荒れ狂う大洪水を呼び込もうとしていた。

 創世記の記述より呼び起こされたノアの大洪水は、かつてユウキが過ごしていた街を濁流で穢して行く。ゆうに100mを超える高さの津波はビルとビルの間を駆け巡り、低空飛行で翔けていた五枚羽をも絡め取っていた。


 この為にドッグファイトで挑発し続けて来たのだ。

 水に溺れる敵はもはやこの罠から抜け出せない。

 メシアクラフトは眼下の濁流を睥睨しつつ、チェックメイトとばかりに潰れた両腕を天にかざす。両手首から噴き出す水蒸気は虹を描いていた。


「だから今度は俺がお前から奪い去る番だ――――縛めより解き放て、かくあらん事をアーメン


 街一帯に再び轟音が響き始めたのは、その時だった。

 濁流が無数の水玉となって浮かび上がる。

 崩壊したビルの半分がふわりと浮かび出す。

 両手をかざしたメシアクラフトの周囲十kmでは、瓦礫と濁流が地を離れようとしていた。エンジェルハイロゥの光に照らされたあらゆる物体は重力の縛めから解き放たれ、浮遊という形で奇蹟を与えられているのだ。


 かつて聖人たちが起こした奇蹟の中でも、幾つかの類例が認められる浮遊の奇蹟。メシアクラフトはそれを極めて大規模に発動させることで、原種個体を直径数百mにも達する水球の牢獄に封じ込めていた。

 だが、敵とて黙ってはいない。

 再び聖なるレーザー光が放たれようとしたその時に、水球の中で輝き出した五枚羽は恐るべき質量に押し潰されていた。突如として敵に突き刺さったのは、都心の数百m上空から落ちて来たビルそのものだった。


「させるか」


 今この瞬間、宙に漂う瓦礫の全てにはメシアクラフトからの奇蹟が与えられている。コンクリート片、鉄筋、ガラス片、そして想像を絶するほどの質量を誇る高層ビルの残骸でさえも例外ではないのだ。

 祝福を受けた兵器はイコンを傷付けられる。

 ゆえに今、ビルは聖なる質量弾とでも言うべき武器と化していた。


 原種個体を封じ込めた水球めがけて降り注ぐのは、まさに壊れた街一つを武器と変えた集中爆撃だ。かつてイコンによって滅ぼされた街の全てが聖なる質量弾と化し、天より舞い降りた五枚羽の怪物を次々に打ち据えて行く。

 メシアクラフトは今にも焼き切れそうなエンジェルハイロゥを輝かせながら、オーバーロード寸前の機体を持ち堪えさせていた。崩壊までは残り十秒。


「こんな俺が出来るのはもうこれくらいだ、だから!」


 メシアクラフトは次の瞬間、青い疾風と化していた。

 最大加速で宙を蹴り出した機体は瞬時に音を引き離し、瓦礫による爆撃でぼろぼろに朽ち果てた五枚羽の怪物へ向けて飛び込んで行く。敵から反撃とばかりに聖なるレーザー光が放たれようとも、もはやその勢いが衰える事は無かった。


 腕部のレールガン、発射不能。

 全ての聖遺物誘導弾、残弾0。

 両手のダイヤモンド爪、使用不能。

 もはや対イコン用聖遺物兵装など何一つ残っていない。腰部をレーザー光でごっそりと抉られながらも、丸腰のメシアクラフトは融け落ちていたはずの左腕を突き出す。


 ――――それでも!


 蒼い巨人と白い怪物の激突、互いに数千トンを誇る超重量物体同士の衝突は恐るべき衝撃で地を揺らして行った。まるで嵐のような水飛沫と粉塵が辺りを覆いつくす中、やがて訪れた静寂の中に二体の怪物は再び姿を晒して行く。


「終わりだ、これで……ッ!」


 勝敗は既に決している。

 全身に返り血を浴びていたのはメシアクラフトの方だった。巨人は左腕から長大な槍を伸ばし、原種個体の胴体を真っ向から貫いてみせたのだ。

 融け落ちた手首の断面から伸びているのは、冷却用聖水を凍り付かせた聖なる氷塊。ちょうど聖痕の辺りから伸びる氷槍の一振りが敵を仕留めていた。


 傷口からどくどくと溢れ出る血は氷を伝い、即席の聖槍を手にした巨人を濡らして行く。

 敵には地形を変えるほどの奇蹟を何度も浴びせてやった。それでもまだ敵が死んでいない事に気付くと、満身創痍のユウキはゾッとするような予感を抱いていた。


「違う、奇蹟の威力が問題なんじゃない……まさかこいつは死なないのか」


 自分はとんだ思い違いをしていたのかも知れない。これまであらゆる奇蹟を以て原種個体を殺そうと試みていたのは無意味だったのかも知れない、という予感が彼の背筋を凍らせる。

 敵は恐らく死なない。

 もはや時間も無い。

 勝つ為には残された可能性に賭けるしかなかった。熔融寸前のジェネレーターが保っている間にと、ユウキは口から血反吐を溢しながら叫びを上げる。


「――――永久とこしえの火に入れよ、以てこの者に第二の死を。かくあらん事をアーメン!!」


 ユウキが咄嗟に口走った詠唱は、今にも稼働を止めそうなメシアクラフトを介して奇蹟を発動させる。巨人の槍に貫かれていた五枚羽の怪物は、やがて蛇のようにのたうち回る炎に絡め取られて行った。

 何も無いはずの空間から伸びて来た炎の渦が、不死の化け物を火球の中へと引きずり込もうとしているのだ。それは文字通りに呪われた奇蹟だった。


 旧東京の跡地に呼び出されたのは、地獄の炎だ。

 地上世界に地獄を呼び込む呪文は、黙示録と救世主の預言を複合させた詠唱に他ならない。原種個体はメシアクラフトが顕現させた火の池に呑まれる。

 果たしてこの宇宙に存在するのかどうかも分からない特異点に引きずり込まれつつ、不死の怪物は決して消えぬ炎の中に封じられて行った。


 ――――ジェネレーター全損、全動力システム稼働停止。


 滅び去る敵を見送っていたメシアクラフトは、遂にその場に膝をつく。

 限界を超えて稼働し続けた球状トカマク型核融合炉は、およそ90秒間の全力稼働を経て遂に人工聖杯ごと溶け落ちたのだ。

 神の心臓を喪った巨人は、まるで眠りに落ちるかのように稼働音を弱めて行く。


「終わったよ、やっと」


 全てのモニターから光が消え去った暗闇の中、ユウキは孤独なコックピットでゆっくりと瞼を閉じていた。

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