日常の解釈について .5
なにか、――近くに居る。
強く腕を引かれたのは一拍おいたあとだった。ぐじゃあ、とけたたましい破壊音を立てて地面が抉れたのが視界の端で見えた。地面が抉れて、何かが目で追えない速さで迫ってくる。履いていたスリッパが足から抜けてしまったが構っていられなかった。そういえば、スリッパでここまで来ていたのかと今更ながら気付く。
殺気だ。感じたことなんてなかったけれど、肌を刺して脳が警鐘を放つ。離れなくてはならない、逃げなくてはいけないと恐怖心が募る。ディミトリに手首を取られて走る。すぐに地面の石畳が崩れる音がする。一歩足を進める毎に繰り返されるが振り返れない。足を止めたら、――終わる。
「そう簡単に入れる場所にはなっていないんだがな」
ついさっきまで茉莉花に説明してくれていた時と同じ声音でディミトリが呟く。この状況で落ち着きすぎてはいないか。素足に跳ね返った石がぶつかっていく。石畳なんて裸足で走ったことはなかったが死ぬよりはいい。
金管楽器の音がする、多分、ラッパだ。びぎゃああ、と動物なのか人間なのか判りもしない潰れた叫びに混ざってラッパの音が混ざる。
灰褐色の細長い紐状の何かが真横の壁を砕いていく。散った瓦礫が視界に舞って、思わず真横を向いた。
「振り向くな!」
一層強く手を引かれて柱廊から外に飛び出る。ごろと芝の上を転がってしまうがまた腕を掴まれた。
灰褐色の溶けた躯体が見える。
あの怪物だった。茉莉花達を執拗に追って来た紐状のものは四日前に見た触手だ。あの時よりもずっと細かく数も増えている気がする。目鼻の位置がずれていた。本来、“人”として在るべき場所とは離れて、片一方の目は額に、もう片方は頬部分に。その真下に鼻と口が殆ど距離を置かずに配置されている。側頭部から生えた、腕。もともと腕があるであろう部分はすっぱりと平らになっていた。目は大きく見開かれていて眼窩から飛び出そうだ。
「再生したか、しかしここには異劫避けが施されている筈なんだが……効力が切れるだなんてまずない、第一具現化の知らせがない、どういうことだ」
「分析してる余裕あるんですか!?」
「まあ、正直言って無いな」
迫る触手を惑わすようじぐざぐに走る。走りながらも未だ息を切らさずにディミトリは唸っている。息を切らし始めた茉莉花はついて行くので精一杯だ。
「取り敢えず逃げるしかないんだが、どうせなら別館側に逃げたかったな、あちらの方が対抗策をとりやすい。さっきも言ったが俺の紙片は修復中でなあ、異劫を退ける為に過分に頁を消耗して、挙げ句あの触手に貫かれている」
詰まるところ、打つ手がないということか。そこで初めてディミトリが小さく舌打ちしたのが聞こえた。先程の破けて汚れ放題だった表紙を思い出す。
短い芝生に埋まったガーデンランプに躓いて体勢を崩した。今度こそディミトリの掌が腕から離れて、地面に顔面を打ち付けそうになった。寸でのところで受け身を取り腕でカバーしたが代わりに土踏まずに激痛が走った。見れば、皮膚が裂けて血が出ていた。裸足で石畳を駆け回って、芝生に出た所為だろう。ディミトリが名を叫んでいたが、間に歪な躯体を持つ怪物が割り込んでくる。
ぎらりと光る、赤々とした眼。白眼部分が見えず、虹彩を含めた眼球全てが赤黒い。ぞわと皮膚が泡立った。
奇声とラッパが混ざった音が恐怖を掻き立てる。伸びた触手がひとまとまりになり変形し、先端が大きく開いてぎざぎざの歯列染みたものが見えた。
(――死ぬ、かも)
こんなところで死ぬのだろうか。こんな、訳のわからない状況で、訳のわからない場所で、訳のわからない怪物に襲われて、命を終えるのか。
(いやだ)
何が、あればいいのだ。
何故そこに考えが辿り着いたのかはわからなかったが脳裏で想像を急く気配がある。
瞬間、胸に激痛が走った。
今にも頭を飲み込もうとした触手が透明な板に跳ね返された。がぎん、と鈍い音を立てて上方へと牙を剥く触手が跳ねる。跳ねた箇所には何もない筈なのに空間が撓んだような歪みが見えた。金の粒子が歪みから拡がる。
痛みに眉を顰めていたが突然の出来事に驚いた。視界の下で何かが光っている。丁度胸の上――、抉れた傷があった箇所が発光していた。
何かが、茉莉花の身を守った。防弾硝子一枚隔てたような具合だ。
盾、なのだろうか。
(なに、……っなに、今の!)
ぐるりとまた空気が混ぜられる感覚があった。視覚になんの変化もない筈なのに重々しく反転する気配がある。ぴったりと風が止む。
駅で感じたものと同じだ。弾かれた触手とはまた別のものが鋭く茉莉花に襲いかかるが横から伸びた腕に引っ張られて身体を裂かれずに済んだ。異劫が怯んだ隙にこちらに近付いていたのか、ディミトリに庇うよう抱き寄せられる。彼の背を横殴りに触手が打っていく衝撃で二人同時に地面から浮いて飛ばされる。後方に外通路の壁が迫る。器用に空中で体勢を入れ替えられて茉莉花が背を打ち付けられることはなかった。
「――ディミトリさん!?」
息を詰め、苦悶に堪える表情のディミトリを見上げるがすぐに真後ろに気配を感じて背を粟立たせた。
壁伝いに埋まったライトの光に影が落ちる。振り向くと、眼前、殆ど間も開けずに異劫の身体がある。紙とインクの匂いに、腐敗臭が混ざっている。気持ち悪さの原因はこれかと漸く気付いた。
咄嗟に腕で顔を覆った。
絶叫。
銀灰の塊が視界の前を横切り、異劫の喉元に食い付く。
「――っクリストフォロス!」
飛ばされた時に口の端を切ったのか、はたまた内蔵損傷のために上がってきたものなのか、口元から溢れた血をそのままにしてディミトリが叫ぶ。
茉莉花が見た、銀色の獣だ。耳の端が折れている、狼みたいな獣だ。
鋭い牙で異劫の胸部に噛み付きそのまま引き千切るつもりだったのか、ぶん、と異劫の躯体を咥えたまま首を振ったが背から伸びた触手が獣の背と顎先に突き立てられた。苦しそうに青の目元が歪む。
異劫が獣から離れ、対峙する。
左前足が、真赤に染まっている。重心を変える度に血飛沫が上がる。
「おまえ、――完治していないだろう! 待機命令が出ているはずだ!」
「他に控えが居ないんだ、現状、俺しか対処出来ない」
獣が――、喋っている。大きい上に、喋っている。
あれ、と発された声に引っ掛かりを覚えた。聞き覚えのある声が耳をつく。どこから発されているのかと思ったがどう考えても音の出所は目の前の巨躯の獣からだ。口元を開く度に若干籠もり気味の声が漏れる。
聞き覚えがある。
病室に入って来て、文庫本を取りに来た線の細い青年。彼の、左手。ぐるぐるに巻かれていた包帯。銀色に光る灰色の髪、冬の空を嵌めた瞳――特徴の一致はそこここにある。
でも、彼は人の形をしていた筈だ。
獣の負傷した前足は、左側。左手、左前脚。
「――あなた、」
「動けるならディミトリを連れて建物の中に入れ、早く」
言い捨て、獣が前進した。背と足から血を流しつつも高く飛翔、異劫の背後に降り立ち触手に食らい付いて噛み千切る。耳を劈く絶叫とラッパ音が再び響き渡り、灰のような粒子が舞う。しかし異劫も黙っている筈もなかった。ぼごりと、本来腕があった部分が膨れあがって皮膚を食い破り長い灰褐色の触手が生まれ、髪を振り乱して叫び、同時に獣の足に触手が絡むが、これを器用に裂け、高く跳ね背後に回り込んだ。無傷の右脚の長い爪が灰色の肩に食い込んで触手を数本千切り、地に着いた瞬間に反対側の肩をばくりと開けた口に並んだ牙で噛み砕いた。
一層強いラッパの音と叫び声に安堵の息を漏らし掛かったが、獣の後方、芝生の下に蠢く気配があった。壌を撒き散らしながら、どこから生やしたのか異劫と同じ色をした触手が加速して伸びる。片腹を突かれながらも獣は横転し、後退する。
土の下から背後を狙うとなると、分が悪いのはクリストフォロスと呼ばれた獣の方だろう。そう悟って息を呑む。
「さっきのは、どうやったんだ?」
手首を引かれて、はっとなった。ディミトリがぜい、と苦しそうに息を吐きながら見上げて来る。
「……っ、大丈夫ですか、血、」
「質問に答えてくれ。さっきのはどうやったんだ」
ディミトリが言っているのは多分、茉莉花のことを守るようにして現れた障壁のことだろう。
「どうやって撥ね除けた?」
「わ、かりません、……頭の中で、なにか、想像した、くらいで……」
「あの金色の粒子は紙片保持者が古書を喚び出す際に見せるものだ。紙の匂いがすると言ったな? 俺以外にも紙片保持者がここに居るのかと。異劫から匂いがするということか?」
「しました、腐ったみたいな、そんなにおいと紙の匂いが混ざってて」
「俺は異劫に近寄られて初めて嗅ぎ取れた。トランジスタ代わりの古書が無いからか? 紙片が剥き出しになってるから知覚しやすいのか、しかし発現したのは行程を無視し過ぎている」
ぐ、と握られた手首に籠もる力が強くなった。
「茉莉花、紙片を使うには工程を二つ踏む。ひとつは古書に落とし込んだ現象を紙片に“受理”させること、もうひとつは古書を通し、現象として“発現”させること。“外的世界”と呼ばれる知覚世界の外側にある未知の領域から回廊を形成し、こちらで想定した現象を強制的に発生させる。おまえは今、入出力装置たる“古書”を持たない。だというのにどう考えても、紙片の力を使ったようにしか見えん」
耳を獣の咆吼が突く。片目が潰れていた。触手に刺された後だ。
「おまえを守ったのは空気抵抗だろう。異劫の衝突と前方投影面積に合わせて抵抗を上げ、盾のようなものをつくり出した。“受理”の工程は紙片に『ある、これは可能だ』と古書を通して錯覚させる。それがないということは、ここにあるものしか利用出来ない」
「なんで、……その話なら、想像でまかなえるんじゃ……」
「訓練した術者なら兎も角、今のおまえには反動が大きすぎる。よく考えろ、ガーデンライト、空電、地の下を走る電源、風圧」
「――もう一回やれれば、あれを倒せるって、ことですか」
瑠璃の瞳に真っ直ぐ見つめられる。
「そうだ、道具を最大限に活かす為の、想像を働かせろ、――おまえにしか出来ない。足止めには俺も加勢する」
引かれていた手首を離され、ディミトリが立ち上がる。止めようと思ったが視線だけで制され、走り出す。金色の粒子と共に象牙色の本が手元に現れるのを、ぐり、と首だけを百八十度回した異劫が捉えていた。
(そうか、あれ、紙片を追うんだ)
それまで獣に狙いを定めていた触手が一斉にディミトリへ向かう。何も書かれていない紙を破り、囮かのように翳したのに目を奪われている異劫へ再び獣が攻撃を始めた。
もう一回、やれれば。
口に出したのは良いが、明確な方法はわからなかった。思い出しても先程触手を防いだ方法すら無意識で、よくわかっていない。
でも、やらなければ死んでしまう。自分も、彼等も。
あの獣は、絶対にあの青年だ。茉莉花はそう思った。忘れる筈も無い、あの銀の光を散らした、青の瞳を。負傷していた足や耳の傷、照らし合わせれば納得するしかない。原理なんて知らない。わかりもしない。でも茉莉花はよくわからない力に、確かに先程守られた。
やるしかない。このまま死ぬのは、――いやだ。
ガーデンライト、空電、電源、風圧。
空気清浄機の要領だ、と事も無げにディミトリは口にしたが、茉莉花にその原理は理解出来ない。ディミトリのように博識ではない。出来るのは“想像”することのみ。
あるものを、利用する。
じりと胸の傷が焦げ付く痛みに見舞われた。熱い火を押し付けられたようだ。痛い。けれどそこから全身に何かが巡っていく。
(焼き尽くす、粉砕――違う、ライト、破片、電気、散り散りにする、感電、……貫く)
血が、身体を巡る血が黄金色の蜜になったような心地を覚えた。完全に、感覚でしかないとわかりきっているのに。
死への恐怖を生まれて初めて感じた。心が真っ暗なところへ突き落とされていく。異劫という怪物に襲われ、されるがままに身体を貫かれて、茉莉花の人生は終わる。
――終わって、堪るものか。
何の説明もされていない。あの青年やディミトリが血を流してまで、成り行きかも知れないが守ってくれた行為がここで死ねば無駄になる。今、茉莉花が動けば、三人とも助かるかもしれない。
(貫く)
終わりたくない。
出来る事は、まだ残っている。
手段が残っている。よくもわからないものだけれど、茉莉花に出来る事だ。
それを、――出来る事をしないでいるだなんて。
(引き裂け)
――絶対に嫌だ。
周囲のガーデンライトが炸裂し、空気の中を電流が走る色が見えた。ばちっ、と音が断続的に響く。庭中、全てのライトの破片が風圧と共に寄せ集められた。電流を纏った大きな、杭の形になる。
「離れろ!」
ディミトリが叫ぶ。
獣が弾かれたように異劫と距離を取った。
(貫け、――引き裂け)
口元に昇った文字をそのまま声にして、言葉にする。
「――発現!」
形成された杭が勢いを持って異劫に突き刺さる。憤怒のような、凄まじい奇声があがる。ラッパの音が強く鳴り渡る。下半身と上半身を穿たれ分断され、灰のような粒子が撒き散らされる。
鋭く、最後の抵抗と言わんばかりに触手が伸びて来たが全身から力が抜けていた。膝から崩れ落ちる。途端、ごう、と真横から凪いだ硬い毛並みに押し出された。
朦朧とする。
ばりん、と何かが割れる音。空気がまた反転したところまでは覚えていたけれど、その先はぷつりと意識が途切れた。
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