日常の解釈について .4
流石に猛烈に気分が悪くなっていた。胃に収めた筈の二口の粥が重たい気すらする。
ディミトリのゆったりとした態度に救われている部分はあるにせよ、やはり許容量オーバーに過ぎた。「食後の腹ごなし」などとディミトリは言っていたが言うほど食べられてもいない。茉莉花は微笑を浮かべる男の背を追い掛けるだけで精一杯だった。一気に教えても混乱するだけだと彼は言っていたがその通りにゆっくりと状況を説明するつもりらしかった。そんな素振りを見る限り、悪い相手ではないのだろうなと知る。言葉のひとつひとつ、茉莉花の目を真っ直ぐに見て放たれているからなのか信用に足る雰囲気があった。
「一応聞きたいんですが……、わたし、家に、帰れたり……しますか?」
殆ど食べられなかった食事が乗ったトレーはそのままにしておいて良いと言われ、返却口も廊下を通る人通りもなかったので申し訳ないが任せることにした。トレーの前で軽く手を合わせてから顔を上げると、これにはディミトリは眉尻を下げて答えた。
「そうだな……、おまえはどうしたい?」
煮え切らない返答だった。ずぐりと胃の腑が更に重くなる。
「帰りたい、です……、出来れば……何事もない、状態で」
「何事もない、というのはおまえの身に降り掛かった何もかもを無しにして、という意味か?」
「それが出来るのかどうかもわたしはまだ聞いていないので、そこはこう……上手く答えられません。でも、家には帰りたい。家族も心配してるだろうし、……四日前にすっぽかした予定のことだって、まだ友人に謝れてもいません」
「そうか……では、その部分も含めて順を追って説明しよう」
医療フロア、とディミトリが呼んでいた階の休憩スペースを出てすぐにエレベータが設置してあった。乗り込んで『1』のボタンを長い指が押す。
「ここは
「春夏秋冬って、風邪薬とか、目薬とか出してる会社? あ、リップクリームとかも出してましたよね、いくつか持ってる……」
唇がすぐに乾燥してかさ剥けてしまう茉莉花がポケットに入れているリップクリームのいくつかのパッケージの販売元にその名があった。今もすこしかさついている。私物は病室には見当たらなかった。リップクリームが欲しいと要求するのも気が引けた。あとで財布だけでも手元に戻ってきたらどこかで買えないか相談してみよう。可能か否か、断られるか、――今はそこまで考えたくない。
「表向きは医科用薬、OTC薬の開発製造、販売から医療機器製造、化粧品製造、また病院設備の開発、果てはゲノム研究もやっていたりするが、医療関連分野では国内最大手と言える」
到着のアナウンスと共に扉が開き、ロビーらしき場所に出た。
全面硝子張りで外の景色がそのまま見えた。外には噴水が見え、周囲を囲うよう向かい側に建つ硝子張りで近代的な造りの建物とを煉瓦の柱廊が繋いでいる。
ここは別館で、茉莉花が見ているものが本館にあたるらしい。表向き、とディミトリが言った茉莉花の知る春夏秋冬製薬の研究は主に本館で行われている。
「別館であるこちらは、異劫対策の為に設立した機関の施設として利用している」
「……その、いごう、っていうのは」
「異なるの“
唐突に問われたが、頷いて返す。何故そこで歴史の話が出てくるのか。
今から三十年前、長靴型の国の中に収まる世界で最も小さいと言われた聖国と共にひとつの宗教が姿を消した話を言っているのだろう。
正宗教。十五世紀頃に発生した一神教宗派のひとつ。大本の宗派は世界人口のうち三割を占めるものであり、当時のヨーロッパ大陸で主流の教派だった。これに異を唱えたのが一人の神学者で、改革を求めたが受け入れられずに分派していく。分派し、“正宗教”と名を改めた。主流と呼ばれていた宗派の貴族が命じ、礼拝堂に集まっていた正宗教教徒七十名ほどを惨殺した件で勃発した宗教戦争は様々な国の領土問題などを背景に次第に拡大していき、本家本元の宗派の総本山たる世界で最も小さいと言われた一国を襲撃する。
そこで一度敗北を喫して表舞台からは姿を消したと言われていた宗派だ。
しかし実のところ、征服に成功していたという映画のような話が随分後になってつまびらかになっていた。茉莉花も、この辺りの話を映画で何本も見たことがあった。二回目の世界大戦終戦直後、混乱に乗じ内乱が勃発。長い間潜んでいた正宗教の残存勢力が国を内側から乗っ取った。最終的には国連が平和維持活動に踏み込み、この宗教戦争は終わりを迎えた。
授業で聞いて覚えていることや映画で見聞きしたことを掻い摘まんで口にすると満足そうにディミトリが頷いた。世界史は嫌いな科目ではない。
「異劫は先の宗教戦争の置き土産だ」
「そんな話、聞いた事ない」
「当たり前だろう? 知られていては困るんだ。戦時に比べて具現化の頻度は減少傾向。あんなものが世に現れたと知られれば、パニックになる。火種として飛んでいき政治や経済に治安、各国の防衛、国交にも関わる。あの化物を見て、あれがところ構わず襲ってくるとなったら穏やかに夜眠れるか?」
「……無理、です」
「他にも理由を上げればきりもないが、……まあ、一番の理由は、あれは“視る”ことでこの世との繋がりを強くする生き物なんだ。以上の理由から、異劫は秘匿し処理されるべき存在だ」
みる。
どういうことなのかいまいち掴みづらかった。
しかしパニックに陥るという点であれば確かに言う通りかも知れない。異劫を目の当たりにしている茉莉花はその姿を思い出すだけで寒気が走る。あんなものが日常に現れたと知られれば、言うとおり大混乱になる。
「あの宗教戦争は秘匿されるべき事柄の集合体だ。民間人には知らされていないものもごまんとある」
「……なんでそんなの見ちゃったんだ、わたしは……」
「紙片の宿主として見初められたからだろう。紙片は宿主を常に求め、彷徨う。様々な法則をねじ曲げる代物だ。異劫との戦闘は特殊な結界の中で行われるもので展開されれば外側からは普通入ることは出来ない。報告ではおまえは明らかに結界展開後にあそこに入ったようだし、引き寄せられたとしか言いようがない」
嫁でも選ぶつもりなのだろうか、或いは婿か。そんな言い方をされるものだから空笑いが漏れた。紙片の宿主。ディミトリの説明はそういえば中途半端なままだったが、茉莉花が“飲み込んだ”と言っていたものだ。蜜の色。紙が蕩けて蜜になる光景。確かに見た。見初められたからか、の一言で片付けられるものなのか。
少しの間、ディミトリは黙っていた。ロビーを抜け、取り付けられた大きな自動扉を出れば先程から見ていた通路に出た。空気が暖かい。今日は三月の半ばにしては気温が高いそうだ。夜になっても二十度近い気温を保ったままで、五月の下旬並の異常気象だと横で男が話す。左に顔を向けると夜の少ない光源の中でも尚青い芝生が広がっていた。所々、地面にガーデンランプが刺さって明かりを灯していた。「職員が昼休みにここで休んだりしている。向こうにも建物があるだろう? あそこにカフェテリアと売店が入ってる」大企業の研究施設は普通こういうものなのだろうか。規模が大きい気がする。一介の高校生である茉莉花はその辺りの常識がてんでないので比較のしようもない。カフェテリアは二階建。片流れ屋根と白い壁面、二階部分が多分飲食スペースなのだろう、見晴らしよく硝子窓が大きく取り付けられていて中の椅子とテーブルがうっすらと見えた。橙の明かりが灯っているということは今も営業しているのか。濃藍の空にはうっすら雲が掛かってはいたが晴れて月も見えた。半月だ。
起きて、水を飲んで、ディミトリと話をして、知らない青年と顔を合わせて、それから食事をして、――外へ出た。
茉莉花が意識を保っていたのは四日前の朝で、その間に何が起こったのかはわからない。目覚めたら胸に消えそうにも無い傷が残っていて目の前で魔法のような訳のわからない現象を見せつけられる。
紛れもない現実なのだろう。夢とは思えなかった。夜、家のベランダに出た時と同じ空気だ。
茉莉花の正面に聳えた硝子作りの建物の向こうにはマンションが見えた。明かりが灯っている窓が多い。柱廊を抜けた先にはぴったりと閉じた門が見える。一瞬、走れば逃げられるかも知れない、と望み薄なことを考えた。映画ではないのだ。暗くて見えにくいけれど、門の先は道路が走っているようで乗用車が一台横切っていった。
(普通に車通ってる……こんなことに安心するとは思わなかった)
目覚めてすぐ心配した世紀末ものの映画みたいなことにはなっていない。
はあ、と大きく息を吐いた。でなければ呼吸を忘れてしまいそうだった。
ディミトリが振り返って伺うように首を傾げてきたが、返すほどの余力が無かった。
――ふと、鼻先に濃い紙の匂いが突き付けられた。
「……あの、わたしとあなた以外にも、その、紙片持ってるひとって居るんですか?」
「ん? ああ、現在は俺とおまえの他に数名居る。うち一人は家絡みで隔絶されている。まあ彼女も仕事上は異劫と関わり合いもあるし、その力故にこき使われているようだが俺も深くは知らん」
ディミトリは茉莉花に始め、「においはわかるか」と聞き、答えてそして、「残念だったな」と笑っていた。嗅覚を強く刺激する紙とインクの匂い。ディミトリのものではない。
もっと違うにおいだ。
「匂いって言ったけど、それぞれ違うもの? あなたも、わたしの匂いがわかるんですか?」
「そうだな、紙片保持者は頁ごとに違う香りを放つ。紙片保持者同士にしか感じ取ることが出来ないし、お互いに言わせれば香気となる。紙片は元は一冊の本だ。定かではないが、互いに惹かれ引き寄せ合う習性があるんじゃないかと俺は考えている」
「じゃあ、この施設にももう一人保持者がいるってこと?」
そこで、ディミトリは目を瞠った。瑠璃紺の瞳が丸くなる。
強烈な臭気が鼻腔を襲った。頭からインクを被って紙を顔面に貼り付けられたみたいだ。お世辞にも“良い匂い”だと思えなかったのはその中に生ごみのような臭いが混ざっていたからだろう。
思わず口元を抑えて立ち止まってしまう。「茉莉花?」とディミトリが訝しげにこちらを見るが答えられない。
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