日常の解釈について .3
四日間、茉莉花は眠っていたという。胸の傷を見て思い出した獣と怪物の光景。
金色に溶ける、蜜の色。
紙が、ほどけて、――とける。
「少しでも胃に何か入れておけ。外傷は治療でどうにでもなるが、精神のバランスは簡単に狂う。その辺りのメンテナンスは学術的にはどうしようも出来ない。空腹は諸々を弱らせる。良いことはない」
湯気が立ち上っていた器が冷め始めている。じっと眺められて仕方なくスプーンを手にして、一口口に含んだ。至って普通の粥だ。米の甘みがあって、すぐに喉奥に流し込める。粥なんて風邪をひいた時くらいにしか食さない。茉莉花は滅多に風邪をひくこともない。
二口目を飲み込んだところでスプーンを置いたが、男は特に何も言わなかった。用意して貰ったものだったが、これ以上は口に出来そうになかった。
「四日間、眠っていたって言ってたけど、なんでですか」
「獣を見たと言ったな。巨大な犬だっただろう? それと、現実にはまず有り得ない化物染みたものも」
「見ました」
「おまえはその化物に大怪我を負わされた。銀灰色の獣が、おまえを守って難を逃れた」
本格的に頭が痛い。ゾンビ映画ではなさそうだが、このモンスター映画はいつ封切りになるのだと軽口を叩いてみたくなった。勿論そんな余裕はない。少しどころではなく、気分が悪い。
「俺から“紙の匂いがする”とも言ったな。正確には、紙とインクの匂いだな?」
「……はい」
「診断結果も出た。反応は陽性。残念ながら、手遅れだ」
「病気、にでも、なったの……?」
先程、状態がどうのと言われたのがずっと引っ掛かっていた。ざわざわ背筋を冷たいものが走る。
「いいや。叡智の結晶と真理を詰め込んだ偉大なる書物の写本、その断片の宿主となった」
ぽかん、と口が開きっぱなしになる。「病気ならまだ良かったかもしれないな」男は自嘲気味に笑う。
「……すみません、ぜんっぜん理解出来ない、からかわれてないのはわかるんだけど、なに、その、ファンタジー映画の題材みたいな話……なんなんですか」
「今まで普通の生活を送っていれば、確かに奇妙奇天烈な話だろう。それこそ喜劇のはじまりだ」
白衣のポケットから鈍色の万年筆を取り出し、キャップを外して男が左手を持ち上げる。宙で何かを受け取るみたいな形に掌を開く。男の掌の上で空間が、文字通り“ねじ曲がった”。
「――!?」
ぎゅるり、と湾曲する空間の中から紙吹雪のような金色の光が舞い始めて次第に形をつくっていく。
一冊の古ぼけた本が現れた。汚れていたが象牙色の表紙の分厚い本から、より濃い紙とインクの香りが放たれている。眼前の男が放っていたものと同じだ、とすぐに理解した。ばらりと、指を通してもいないのに本が開いて掌に収まる。開いたページに万年筆で何かを書き付けていく。
「耳馴染みの良い言葉で言い換えるなら、“まほう”という言葉に最も近しい」
「――ま、まほう……?」
茉莉花の座った角度からは見難かったが、何も書かれていないページに数式と記号をつらつらと書き込んでいた。物理や化学の授業でよく見るものだ。生憎、茉莉花は理系が苦手だ。成績はそう悪い方ではなかったが肌に合わない。本、だと思ったけれど、ノートのようだった。表紙には細かい装飾が施されている。角部分に金属が填め込まれていて、元は美しい本だったのだろうと予想出来たが所々すり切れていて、無残だった。
「大気イオンは絶縁体ではなく、全て大体が微弱な電気誘導体として作用している。俺は畑違いだが、これを使うに当たっておまえもそのうち否が応でも知っていく」
書き終わったのか、何の躊躇いも無くページを破り取った。男が紙切れを口元に持っていったところで形状が変化し、薄く開いた唇に吸い込まれていく。
どろり、溶ける蜜の色。
茉莉花が意識を失う前に見た、あの色だった。
「受理」
空調は効いていたが、風が巻き起こる程ではない。だというのに空気が混ぜられる感覚があった。
「発現」
短く、呟いた。
ぱちん、と空気が爆ぜて小さな光を蒔く。青白く細かい粒子が発生し、何もない筈の空間に灰色の渦が出来上がった。ぱたん、と本が閉じられた途端、重力を得て灰色の球体がぱちぱちと電流を纏ってテーブルの上に落ちた。
「電化製品で売られているものがやっているのを真似た。ここまで劇的に塵を集めるなんてしていないかもしれんが……空気中の微細な粒子を、コロナ放電を利用して集めた。空気清浄機の理屈だ。よくあるだろう?」
「よく、ある……? え、な、……なに、」
「これと同じものではないが、おまえが飲み込んだ紙片はこういった“まほう”を可能にする力がある。本当はもっと面白いことも出来るんだが、今は生憎修復中なんだ。勝手に呼び出したからあとでがみがみ言われそうだ」
掌を握る仕草をすると、男の手に収まっていた象牙色の本がしゅると姿を消した。
なんだ、これ。
なにを見せられているんだ。
「
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
空気清浄機などと簡単に言っているが、装置は古い本の上、その本の実態は不明。男の掌から出たり消えたり、マジックショーでも見せられているようだった。実際マジックなんてものではない。もっと質が悪い。
黄金のなんたら、写本、紙片。耳慣れない言葉が羅列されて混乱の極みだ。
それが茉莉花の中にもある、と、男は確かにそういった。特段身体が変わった感覚はしない。胸の傷が残っているくらいで、他はなんの変化もなさそうだ。
意識を保って、座っているだけでも良く出来たものだと褒められて良い。投げやりに茉莉花は思って今度こそ本当に頭を抱えた。
「……わたしは、現実に居て生きてるのかどうか、まずそこから知りたいです……」
「哲学的な問いだ。方法的懐疑論に至るまでの逸話に例えれば、おまえは洞窟の中の囚人といったところか」
「……も、……もうちょっと、わかりやすく……」
そうは言ったが、頭の隅では「以外にも馬鹿にしないのか」と感じた。ちらと顔を見遣れば、悠然と笑んでいる様子が見て取れた。茉莉花は全く余裕なんてなかったが、男は何を急いているわけでもなく、言葉通り“ゆっくり”と茉莉花に事の次第を教えるつもりだとありありと伝わってくる。そういう部分は、多少、助かっていた。
「“水槽の中の脳”じみた話は今は置いておこう。哲学は嫌いじゃあないんだ。話が長いとよく煙たがれる。興味があればそのうちな」
ああ、そういえば、と思いついたように眼鏡の奥の瞳に浮かんだ笑みが深くなった。
「自己紹介が遅れた。俺はディミトリ・ロスメルタ。研究者を志していたがひょんなことで紙片を取り込んでしまってな。頁番号は七百番台、“理解”を司る力を持つ」
男、ディミトリ・ロスメルタはテーブルの向こう側から手を差し出して来た。研究者だったのかと白衣姿に漸く納得がいって、茉莉花も力なく手を出して握手を交わす。学者のイメージとしてあったひ弱な掌などではなくごつごつしたものだ。肉刺もあった。「改めまして、日向茉莉花です」と短く付け加えておいた。内心、そんな悠長に挨拶をしていられるほど平静ではなかったが礼儀だろうなと思った。
「あの、大怪我って言ったけど、わたし結構今元気で……」
「さっきの奇怪な現象を見ただろう? おまえが対峙した
「……さっきから明日の天気話すみたいに言うけど、あの、あなたにとってそれはもう当たり前なんですね……」
遠すぎる世界だと素直に思って茉莉花は額を冷たいテーブルの上にぶつけた。ごつりと響く音が遠い。思い切りぶつけてみたから、当たり前に痛い。
痛覚はしっかりあって、接触で皮膚がひりついて頭蓋骨の奥に鈍痛がある。
ちゃんと痛い。痛みがある、――生きている。たぶん。夢と思うには絶望的過ぎるし、自分の身体が八つ裂きにされて目が覚める状況にはない。都合の良さそうなことも起こっていない。
現実だ。痛みが、証明として茉莉花に知らせている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます