日常の解釈について .2

 銀灰の髪、澄んだ快晴の青の瞳を持つ青年が、ぐらと揺れる視界の向こうに立っていた。

 また知らないひとが出て来た、と少し緊張する。溜息を吐きながら青年がこちらに近付いてくる。茉莉花と同い年、ほどだろうか。ハイカットスニーカーだと知ったのは不躾にも青年を上から下まで、まじまじと見つめてしまったからだ。ネイビーのチノパンにグレーの薄手ニットセーター。

 記憶の奥で、銀灰色が瞬く。毛並み、こんな色だっただろうかと思い出した。目は青いし髪の色も一般的な黒ではなかったけれど、発した言葉が日本語だったから安心した。つかつか近寄って来て、ベッドサイドテーブルの上に放置されていた文庫本を取り上げている。

「あ、それ……あなたの?」

 声を掛ければぴくと肩が動いた。後ろ髪が少しばかり長く、髪の隙間から覗いた天辺が若干尖り気味の左耳には薄茶色の古傷があるのに気付く。ゆっくりと振り返って思わず息を呑んだ。よく見れば随分な美男子だ。造作が整っている。

 青年の端正な顔立ちは賞賛に値するもので見惚れてしまった。中性的で、線が細い。先程の男も大分整った顔をしていたが、彼は目を惹くものがあった。何よりも、その瞳の色が美しかった。

 空色をそのまま流し込んだような瞳。ぴんと空気が張り詰めた清涼な冬の空気みたいだ。角度によってなのか、きらきらと銀の光が見えた。初めて見た。それこそ映画俳優でもこんな目の色をした人物、見たことない。カラーコンタクトやCG加工は別だ。

「――……目、凄く綺麗な色してるね」

 殆ど惚けて思ったままを呟いてしまった。

 瞳が長い睫毛と共に閉じて、また開いた。若干の違和感があったのはそれまで人形の様に見えていた姿に何かの感情が電流のように走り、一気に人らしさを醸し出したからだろうか。ぴくと肩が動いた。じっと見つめられて、一度だけ、青年の形の良い薄い唇が開き掛けて閉じる。何かを口籠もる仕草だ。

 続けて大きく溜息を吐かれた。それが返事なのだろうかと彼の手元を見て目を瞠った。左手の形がわからないくらい分厚く包帯が巻かれている。ミトンみたいだ。視線がそちらに向かっていると気付いたのか、無言のまま腕を後ろに回して踵を返す。

「え、あ……ちょっと!」

 思わず呼び止めてしまったが何を言えば良いのか、茉莉花にはわからなかった。制止の声に耳を傾けるでもなく青年は病室を出て行ってしまう。本を忘れただけなのだろうが、何故ここに置いてあったのだろう。青年の顔に見覚えはなかった。あんなに綺麗なひと、見たら絶対に忘れない。本、なんでこの部屋に取りに来たのか。

 わからないことだらけで、焦れてまた気持ちがざわついた。

 床に揃えて置かれているスリッパに足先を通した。靴下は用意されていなかったが空調が効いているから寒くはない。ゆっくりと立ち上がって身体がぐらつかないか確認してみたが今度は問題なさそうだった。

 どれくらい眠っていたのだろう。病室には窓が無い。点滴台にパイプベッド、バイタルサインを映す液晶画面が揃っているから勝手に病室だと判断したが実際はわからない。毛布を簡単に整えて入口の前に立つが扉がスライドしなかった。首を傾げる。さっきの青年も、西洋人の男もどちらも扉の前に立てば自動で開いたのを見ていた。

 まさかとは思うが、閉じ込められているのか。

 薄ら寒い思いを抱えても、どうあっても扉は開かない。引手を引っ張っても駄目であった。どうしたものかと途方に暮れていたら、鼻先にまた紙の匂いがちらついて再び扉が開いた。

「――、なんだ、外に出たかったのか?」

 思わず数歩後ろへと下がってしまう。幾度か瞬きを繰り返して、手に持った盆を持ち上げながら男は笑うが茉莉花の中に生まれた疑問が警戒を全身に巡らせる。

「なんで、外側からしか開かないんですか?」

「ああ、これか、……」

「わたし、は、……っ」

「落ち着け。悪かった、一言言ってから出れば良かった」

 もう一度男が扉の前に立てば、難なく素直に開く。どうせなら休憩スペースで食べるか、と一足早く出て行ってしまう。完全に置き去りにされている。

 映画を見るのが幼少時からの趣味で、こういう展開よくあるなと思ってはみたが悪寒が走ったので考えるのは控えた。冗談に捉えて気軽に笑えそうにない。ゾンビ蔓延る終末映画のスタートは病室で、昏倒した主人公が誰も居ない(若しくは既に人間でない生物との冷や汗ものの遭遇つきで)病院から抜け出して現実と対面するのが様式美と化している。茉莉花の前には男がいるから、誰もいないわけではない。しかし状況がのめず想像力だけが先行する。

 生まれて十六年間、ここまで訳のわからない状況に陥ったことはない。

 今日まで茉莉花は凡そ一般的な人生を歩んできたと思う。家族に囲まれて、友人も居て、学校に通う。趣味もあった。大怪我なんてしたこともない。天井とはまた違う風合いのリノリウムの白い廊下を踏みながら白衣の男の後ろをついていく。廊下にはさして人気がなく、すれ違うのは病院らしき建物の関係者であろう人間くらい。茉莉花の両側に扉が閉じられた部屋がいくらか続き、なだらかなカーブを描いた曲がり角を曲がるといくつかの丸テーブルと観葉植物、それと壁一面に広がるスクリーンに長閑な森林風景が映し出された場に出た。商業施設で偶に見掛けるものだ。男が言っていた休憩スペースとやらだろう。音こそないが、壁全てを囲うようにして使われている映像は美しく、沢山の緑に囲まれて漸くそこで詰めていた息を吐き出した。

「ここは地下なんだ。壁ばかりでは息が詰まるだろう?」

 茉莉花達が入って来た位置から一番手前の適当なテーブルに盆を置いて、男が座るように促してくる。食べられそうか、と問われて盆を寄せられた。食器に乗せられた蓋を外すと軽く盛られた漬物に、緩い粥が出て来た。紙パックのお茶もついている。よくドラマで見掛ける病院食然とした献立。

「四日間眠っていたんだ。内臓を急に驚かせるわけにもいかない。ここの食事は外の病院と比べればまあまあマシだとも聞く」

「――四日!?」

 思わず声を張ってしまう。

 そうだ、と記憶が再生されていった。

 三月十一日の早朝、急遽頼まれた女子バスケットボール部の手伝いをするためにJR蒲田駅に居たはずだ。運動部というものは往々にして長期休暇という青春を返上して部活に精を出す。他校との練習試合があるがマネージャーの一人が体調を崩し、友人から頼まれたから軽い気持ちで代打として手伝いを引き受けた。

 待ち合わせ場所は東口のバスロータリー前だった。稼働しているエスカレーター脇の階段を下りて、舗装された石畳を踏んだ瞬間、空気が変わったのだけは覚えている。空気が変わった、なんて言うのも妙な話だったが、そうとしか言い表せない。頬を撫でた空気が反転して、凍った。足を止めたが、すぐに「なんだろう」と思って興味のままに歩を進めた。

 恐怖はあった。しかし、好奇心が勝った部分は、確かにある。

「そうだ。今日は三月十一日だと思っているだろうが、実際はもう三月十五日の夕方だ」

「わたし、友人と待ち合わせしてて、それで、駅前で、銀色の狼を見つけて……」

「正確には、犬だな。犬種は特定されていないが、伝承上であればクリストフォロスは狼ではなく、犬の頭を持つ」

「――っ、わたしと待ち合わせしてた、」

「巻き込まれたのはおまえ一人だ。他に一般人の負傷者はいない」

 知らぬ単語で彩られた台詞に首を傾げるがひとまず友人の安否は確認出来た。冷めるぞ、と食事を促されるがそれどころではない。

「っていうか家は! うちに連絡とかしてないまんまだ……!」

 きちんと現状の話を(少しばかりではあったが)されたお陰なのか、待ち合わせていた友人の安否に続き、当然茉莉花と一緒に暮らしている家族のことも気に掛かった。きちんと許可を取っての外泊は勿論よくしていたし、以前は一ヶ月に一度ほど、仲の良い従姉の家へ泊まりにいっていた事もあった。でも全て事前に了承は得ている。

 四日も勝手に家を空けていたなんて心配を掛ける。

「安心しろ、ご家族にはきちんと説明してある。設定ではおまえは四日前に起こった蒲田駅前での原因不明のバス車両爆発事故に巻き込まれて負傷、昏倒状態だ。心苦しいがありのままの事実を伝えるよりずっと納得いった様子だったと聞いている。灰色の化物が現れて獣と対峙しているところに鉢合わせて、なんて言った日にはまずこちらの頭の具合を疑われて告発されかねん」

「せっ、……てい……」

 設定。明らかに後者の方が設定だとか妄想だと言えるのに、そうではない。

 巨大な狼みたいな獣も、灰褐色の化物も、確かに妄想じみている。

「許容する常識を越えた先の事物は、体感した当人達にしか理解し得ないものだ。おまえもあんな経験をしていなかったら、設定と取るのはおまえが四日前に巻き込まれた“事実”の方だろう?」

 言われた通りだが、すっきりとはしなかった。男は困った様に笑っている。

 男が言っていることは正しいと頭ではわかっているのだが、追いついていかない。

「まあ、おまえが置かれた現状の説明はこれから話していくつもりだが……、最初に、病室に閉じ込めた非礼を詫びておきたい。すまなかった。おまえの状態がどのようなものかこちらでも把握し切れていなかった故に、下手に外に出すわけにもいかなかった」

 す、と香辛料色の頭が下げられた。

「順を追って説明をするつもりだが、一気に叩き込んでも混乱するだけで良いことはない。ゆっくりで構わないか?」

「……は、い」

「上々だ。おまえのその恐怖に呑まれない姿勢は後々命を救う。捨てずに維持しろ」

 さっぱりだ、わけがわからない。

 男の目は真剣だった。理性の光がある。狂言でも何でもないのだと知らされる。信用ならない、といった雰囲気でもなかった。彼の一言一言には嘘が見えないし誤魔化しもないように思えた。回りくどい感じはあるが、茉莉花を煙に巻くようなものではない。

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