日常の解釈について .6



 すん、と鼻先が自然と動いたのに気が付き、茉莉花は重たい瞼を開けた。また真っ白い天井が広がっている。硬いシーツの感触。バイタルサインを刻む小さな音が耳に入って嬉しいような残念なような、微妙な心地になった。

 夢ではない。わかりきっていたが、やっぱり現実なのだろうと思った。僅かな消毒液の匂いは鼻に馴染み始めていた。

 果実のような香りがした。昔どこかで嗅いだことのあるような、それでいて決してありふれておらず日常的には馴染みのない香りがする。

「……」

 白い天井から視線を動かして顔を横に向けると椅子に座って壁際に背を預けた青年が見えた。特徴的な銀灰色の髪色と、包帯でぐるぐると巻かれた左腕が首から吊り下げられているアームホルダーで支えられている。片手で器用に文庫本のページが捲られてるのを見て、急に意識が覚醒した。

 本だ。

「あ、……」

 起き上がっても痛みはなかったし、それを考えるよりも先に別の欲求が生まれていた。

 本だ。文庫本。なんでもいい、文字が書き付けられている、本が見える。

 顔を上げた青年が一度訝しげな視線を向けてきたが構っていられなかった。自然と腕を伸ばしていた。

 本。――本がある。

 なんだろう、これ。頭の隅でこの異常な感覚に危機感を覚えているというのに、それよりもまず青年が持っている本が欲しくて欲しくて堪らなかった。ごくりと喉が鳴る。紙の匂い、印刷されたインクの匂いが強く香る。もっと嗅ぎたい。まるで好物のオムライスや、従姉が作ってくれるクッキーを目の前にしたような空腹感が唐突に腹の底に湧いた。違う、――空腹だけれどこれは胃袋が求めているものじゃない。とんでもない渇望が全身を巡っていく。

 がくん、と身体が浮遊感に包まれ後、床に肩を打ち付けた。がしゃん、と勢い良く何かが倒れる音がした。右腕から鈍い痛みが走った。痛いけれど、やっぱり本の匂いが気になってそれどころではない。冷たい床を這うようにし、匂いの方角へ身体が勝手に向かおうとする。

 なんだろう、これ。

 なんだろう、おいしそう。

 おいしそう、――食べたい。

「来てくれ。目を覚ました、……いつものディミトリと変わりない、……いいから、早く来てくれ」

 たべたい。

 青年が何かを喋っていたのはわかっていたが、内容は理解出来ていなかった。おなかがすいた。たべたい。そればかりで思考が埋め尽くされている。ハイカットスニーカーが目の前で止まり、カバーが外された文庫本が視界に入った。

 瞬間、――ひったくるようにして青年の掌から本を奪って中を開いた。

 タイトルを確認する暇などなかった。乱暴に本を開くと同時に一斉に文字が飛び込んできた。

 ぶわ、と、クリーム色の紙に並ぶ黒い文字が脳に流れ込んでくる。自分が今、どこにいるのかすらわからない。

 なんだろう、――これ。

 文字、言葉、無数の言葉、知識。

 ひとが書き記した、ひとの経験から導き出された言葉の数々。無数の言葉がとんでもない甘露に思えてくる。

 満たされる。

 なんだろう、これ。

 おいしい。すごくおいしい。おいしい。

 文字を見ているだけなのに。

 おいしい。

 目の前がぼやけて首を傾げた。黒い文字が滲んで上手く読み取れなくなっても、渇望感が去らずにページを捲り続けてしまう。

 ぞわ、と腹の底から喉元に掛けて胃酸が駆け上がって、思わず口元を押さえた。吐き出すものなど何もないけれど、身体が何かを拒絶する。

 一拍遅れて、がたがたと全身に震えが走る。しかし、ページを捲る手を止められない。震えて指が紙を掴めなくなっても、止められない。

 おいしくて、――こわい。

 次から次へと差し出される本に、貪るように目を通し続けた。

 読んでいるわけではない。茉莉花は何一つとして内容を認識していなかった。

 頭で何かが歓喜していた。

 けれど、茉莉花は何をしているか、何も認識出来ていない。

 おいしくておいしくて、――おそろしかった。



 どれくらい時間が経ったかはわからないが、頭上から声が降った。

「まだ必要か」

 足が冷たい。手には開かれた本。床には無数の本が乱雑に散らばっていた。

 すう、と思考がクリアになった。あれだけ求めていた何かが、すんなりと収まっている。

 満足していた。

 おなかがいっぱいだ、と、左胸の傷が僅かに疼いた。

「……ぁ、……え、……、」

「おはよう、茉莉花。気分はどうだ?」

「でぃ、み……とり……さん……?」

 床の上に胡座を組んで座したディミトリが片膝に肘をついた手の甲に片頬を乗せて微笑んでいた。床に密着した足先が冷え切っているのがかわって、動かそうとしたら痺れていた。

「長時間その体勢だったから、まあ打倒だろう」

 じんじんと痺れる足を崩しながら、改めて周囲を見渡して愕然とした。

 積み上がった本、本、本。ハードカバータイプのものから文庫本まで、ありとあらゆる本が散らばっていた。中には表紙に英語が並んだペーパーブックまである始末だ。ディミトリは尚も瑠璃紺の瞳を柔らかく細めたまま、手近な本を拾って積み重ねている。

 茉莉花が手にしていた本とは別に、膝の上に落としたカバーの外れた香色の文庫本を見遣る。

「……なに、……これ……」

「反動だ」

 はんどう。

 異劫に向かって、身体の中に宿したよくも知らない力を使ったのは覚えていた。灰褐色のばけものに向かって施設の中庭に設置されたランプ全部の導線と硝子破片を集めて形成し、叩き込んだ。

 そのあとの記憶は朧気だ。はっとなり、目の前に座っているディミトリの腕や身体を見る。

「ディミトリさん、怪我は……っ……あの、狼のひとは……っ」

「どちらも無事だ。俺はこの通りだし、療養中ではあるがあいつも生きている……異劫は取り逃がしたが、おまえが居なければ俺もあいつも無事では済まなかった。礼を言う、茉莉花」

 ぽんぽん、と掌で優しく頭頂部を撫でられて思い切り慌てた。後ろに後退ろうにも足が痺れてそれどころではなかった。慌てる茉莉花を見て、ディミトリはまた面白そうに笑った。

「前の服は汚れたから新しいものを用意してある。着替えておけ。診察の後に改めて残りの説明と、今後の話をしよう」

 二人で軽く本を纏めてからディミトリは病室から出て行った。直後、入れ替わるようにして医者と看護師が入って来た。「胸の傷はすまない、どうしてか修復出来ない」と白衣の男性から本当に、言葉通り申し訳なさそうに謝られたがディミトリが口にしていた状態と合わせるとこんなに早く身体が回復して、それなりに動けるようになっていることだけでも奇跡のようだ。医師は五十代くらいのがっしりした体つきの男性で、岩淵いわぶち紘大こうたと名乗った。明るい雰囲気の女性看護師の方は小武方こむかたえみと言う。岩淵が去った後、「食事、食べられそうなら食べてください。今回は二口と言わず、三口か四口食べられたら花丸をあげましょう!」とタブレットを振りかざす勢いで言われて呆気に取られた。

 言われた通り着替えを済ませる。今度は靴もあった。ぼろぼろになっていた足裏もすっかり綺麗に元通りだ。最先端の技術と魔法のようなものが組み合わさった治療法とはなんなのだろうか。小武方が退室するときに、「着替えたら待っててください、ロスメルタさんが迎えに来ます」と声を掛けていってくれたので一人、ベッドの上に座って待つことにする。

 散らかし放題だった床の本が結局どこから来たものなのかはわからない。

 それに、最初に目が覚めた時に見た青年の姿を見ていなかった。あの獣とおなじ声の青年だ。朧気ながら、彼から受け取ったと記憶していた文庫本は積まれた本の山には戻さずに、表紙を眺める。カバーが外されている裏表紙には見慣れないマークが中央に印字されていた。積極的に本を読む方ではなく、読むとしても映画のノベライズだったり、話題になって友人に勧められた小説くらいだ。茉莉花は映画を観ている方が好きだ。父の影響で、幼少から慣れ親しんだ映画を観るのは趣味である。『色彩論』と銘打たれた小難しそうなタイトルの本は厚みもある。開いてみて、あまりの文字の細かさとページの薄さから直感的に「これは難解そうな本だ」と判断してそっと表紙を閉じて枕元に置いた。

 少し前みたいな垂涎たる感覚は形を潜めている。

 異劫と呼ばれる化物は逃してしまったと聞いていたが、撃退は叶ったので一安心して良いのだろうか。しかし古書を取り出して紙面を破ったディミトリに対してすぐに反応したところを思い出すと、無差別に誰も彼も襲っている印象が薄くなっていた。

 つまり、紙片保持者と呼ばれる人間を狙っているのだろうか。

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