第一章 覚醒
1-1.静岡 一日目
8月4日(Fri)午後2時
マイクロバスの運転席には穏和な顔つきの運転手がハンドルを握っている。
『もうすぐ着きますよ』
運転手がにこやかに告げた。それを聞いたカメラマンの松下淳司は窓越しに見える雄大な眺めに向けて何枚かシャッターを切り、感嘆する。
『いやー、本当に海の側なんですね。いい景色だ』
『だろう? ……おい佐藤。お前の故郷も確か港町だったよな?』
松下の言葉に頷きを返した福山信雄は通路を挟んだ向こうの座席にいる部下の佐藤瞬に話しかけた。佐藤は開いていた手帳を閉じて福山の問いに応じる。
『ええ。俺の故郷は日本海側なので太平洋よりも波が荒々しくて。でも海を見ると故郷を思い出して懐かしくなりますね』
佐藤は窓の外に広がる青い海に目を細めた。
『しかし後ろの若者達は賑やかなものだなぁ』
福山が座席から身を乗り出してバスの後方に目をやる。このマイクロバスには運転手を除くと十人の男女が乗車している。
バス前方には東京の大手出版社並木出版に勤務する福山、佐藤、カメラマンの松下。
後方には東京の有名私立大学、啓徳大学の学生が七人。彼らは啓徳大学ミステリー研究会のメンバーだ。
ミステリー研究会とは大学のサークル活動の一環であり、推理小説好きの学生で結成されている。会員数は一年生から四年生を合わせて五十人ほど。このバスに乗っている七人は実質的に研究会を動かしている幹部メンバーだ。
十名を乗せたバスは東京を出発して静岡県の海沿いのペンションを目指して走っている。
なぜ出版社の社員と大学生が同じバスに乗り同じペンションを目指しているのか、話は今春に遡る。
新年度がスタートする直前、関東地方に桜の開花宣言が発表された頃。推理小説界の帝王と謳われる作家の間宮誠治はある冊子を読んでいた。
間宮が手にした冊子は啓徳大学ミステリー研究会が発刊している会報誌。そこには研究会メンバーの活動記録やメンバーが執筆した自作のミステリー小説が掲載されていた。
掲載作品は名作古典ミステリーのオマージュから奇想天外な発想のオリジナル作品まで幅広い。学生達の作品は確かに表現は拙く、筆任せな部分は否めない。しかし作品には若さゆえの勢いがあった。
『なかなか面白かった』
数々のベストセラーを産み出し、ドラマ化や映画化された作品も多数ある著名な推理小説家はこの会報誌を手元に運んできた啓徳大の学生、沢井あかりに満足げに頷いた。
あかりの父と間宮は友人であり、あかりは幼少期から間宮と親交がある。アメリカ生まれのあかりは十五歳までアメリカで育ち、日本の高校を卒業後に啓徳大学に進学。
間宮の影響もあって推理小説を好むあかりは迷わずミステリー研究会に入会した。
会報誌を読み終えた間宮は懇意にしている並木出版の福山編集長にある相談を持ち掛ける。
――これを作った学生と話がしたい。と。
福山はそれならば間宮と学生達を対談させ、対談模様を並木出版発行の雑誌で特集してはどうかと提案した。あかりを窓口にして啓徳大学ミステリー研究会にもその旨は伝わり、話はすぐにまとまった。
啓徳大学ミステリー研究会の夏の合宿も兼ねて、8月4日から8月8日の五日間に静岡県のペンションで推理小説家、間宮誠治とミステリー研究会メンバーの推理討論会の開催が決定した。
開催場所の静岡のペンションは福山編集長の友人が経営している。偶然にもそのペンションは間宮とあかりが何度も訪れていた定宿だった。
バスの後方は学生達のお喋りで賑わっている。
「あかりちゃん、そこのペンションに友達がいるんだよね」
ミステリー研究会副会長の加藤麻衣子が隣にいる沢井あかりに聞く。あかりはまだ幼さの残る人懐っこい微笑みを麻衣子に返した。
「はい。ペンションオーナーの姪っ子さんで、私の四つ下なので今は高校生ですね」
『沢井ー。その子可愛い?』
あかりと麻衣子のすぐ後ろの座席の渡辺亮が背もたれから顔を覗かせた。あかりを首を後ろにひねって渡辺を見上げる。
「私もあの子が中学生の時以来会っていないですけど……美人さんな顔立ちの子ですよ。でも渡辺先輩、あの子に変なことしないでくださいね?」
『なんだよそれ。俺が女の子に変なことするような男に見える?』
「見えますね」
『即答で言うな! どっちかって言うと要注意人物はあいつだろ? な、隼人。美人の高校生がいるってさ』
渡辺が“あいつ”と名指しした人物はバスの一番後ろの座席にいた。サングラスをかけた茶髪の男は面倒くさそうに片耳だけにはめたイヤホンを外す。
『高校生だろ? ガキには興味ねぇよ』
彼の名前は木村隼人。
啓徳大学ミステリー研究会の会長だ。隼人の冷めた口調もいつものことなのか渡辺は特に気にしていない素振りでにやにやと笑った。
『イヤホンしてたくせにちゃんと話は聞いてたな』
『女の話は嫌でも耳に入ってくる』
『それはまた便利なお耳様で』
『けど高校生は対象外だな』
『隼人の辞書にロリコンって言葉はないよな』
「隼人には私がいるんだからいいでしょぉ? また女遊びのこと考えてるの?」
隼人と渡辺の会話に割り込んできたのは佐々木里奈。茶髪のショートヘアーの里奈の耳には大きなフープピアス、長く伸びた人工的な爪はショッキングピンクのネイルアートで彩られ、ラインストーンがきらきらと輝いている。
知的で清楚な雰囲気の麻衣子や純朴で可愛いらしいあかりとは対照的に、派手な風貌の里奈は一見すると推理小説を好むようには見えないが、彼女もれっきとしたミステリー研究会の会員だ。
『木村先輩は黙っていてもモテますからね』
隼人の前の座席でノートパソコンを膝に乗せている青木渡は顔を上げて眼鏡のズレを直した。青木とは通路を挟んだ隣の席の竹本晴也も彼の言葉に続く。
『隼人さんは啓徳のキングですからねぇ。容姿端麗、首席卒業間違いなしの成績優秀、スポーツではサッカーの都大会選抜メンバー、おまけに学祭では前代未聞の3年連続でミスター啓徳。まさに敵ナシ』
『敵ナシって言うなら竹本、お前の方だろ?』
隼人がサングラスの奥から意味ありげな視線を竹本に送る。白々しく隼人を賛辞する言葉を並べ立てた竹本は苦笑してかぶりを振った。
『とんでもない。俺自身には何の力もありませんよ』
「ずいぶんとご謙遜ね」
『自分の器の大きさをわきまえているだけですよ。佐々木センパイ』
里奈の冷ややかな眼差しにも竹本は澄まし顔だ。
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