ひとり桜

つづれ しういち

ひとり桜


 どこか遠くで、かたたん、かたたんと、近所を走る電車の音がする。

 ぼくらの町を流れる川べりの小道には、ずうっと桜並木がつづいていて、その枝では冬の間じっと我慢をしていたつぼみたちが、そろそろ開く頃合いをみはからっている。


「今年の桜、か」


 だれが聞いているのでもないのに、ついぽつりとそんな言葉が口からこぼれてしまった。

 ぼくはあと、何回それを見ることになるのだろう。

 別にもう、そんなものは見なくてもいいのだけれど。

 だってもうあの人は、ぼくの隣でそれを見てはくれないのだから。


 いつもみたいに、彼が静かに隣を歩いていたのだったら、ぼくのこんなつまらない独り言もちゃんと聞き取って、何か言ってくれたはずだろうけれど。

 ぼくは着古したベージュのカーディガンに薄手のコートを羽織った姿で、まだ冷たい風の中を、ただとぼとぼとあの部屋に帰る。近くのスーパーで自分のためだけの総菜を少しと、ブラックの缶コーヒーを一本と、タマのためのキャットフードを入れた袋をぶらさげて。


「ただいま」


 いつもの癖でそう言って部屋に入っても、もうあの人の声は迎えてくれない。にゃあ、と猫のタマがしっぽを振りながら出迎えてくれるだけだ。

 まあそうは言っても、彼も執筆で忙しい日にはずうっと書斎にこもっていて、別に必ず「おかえり」と言ってくれていたわけじゃないのだけれど。

 タマはうちにやってきて、もう十六年になるおばあさん猫だ。ぼくもあの人も、彼女がここまで長生きするとは思っていなかった。もしもこうなると分かっていたら、いくら動物病院の前で「もらってください」のポスターを見つけても、その写真があんまり可愛くて、二人して恋をしてしまったのだとしても、こうして飼うことはしなかっただろう。


 大事に大事に、愛されている生きものは長生きをする。

 そんなことは知っていたのに。

 ぼくたちは、それでもこの小さな生き物を、大切に育ててやる以外のことができなかった。


 居間に入って、片隅に置かれた小さくてモダンなデザインの仏壇の前に座ると、位牌の前に缶コーヒーを置いた。一度だけ小さくりんを叩き、黙って手を合わせる。

 いつもの静かな微笑みを浮かべたあの人が、写真の中からぼくを見ている。

 とっくに四十九日も終わってしまった。


「スーさん。ただいま」


 定年を迎えてから、とある有名な文学賞をもらったぼくの同居人は、本名を周防基親すおうもとちかという。ぼくは彼をずっと「スーさん」と呼んできた。彼と出会って、こうやって一緒に住むようになる少し前からだから、もう何十年にもなるわけだ。

 ちなみに彼は、ぼくを「ヒーさん」と呼んでくれていた。ぼくの下の名前が浩嗣ひろつぐというからだ。まあ、そんなのは今さら、どうでもいいことなんだけど。


 二か月前、抱えていた連載小説がようやく一段落ついたころ、スーさんは夜になって急に「頭がちょっと痛いんだ」と言い出した。

 年も年だし、ちょっとした風邪でもこじらせれば命に係わる、ぼくらみたいな高齢者のことだ。すぐに医者に行ければよかったのだけれど、あいにくその日はもう遅い時間になっていた。

 スーさんは、「まあ、早めに休むことにするよ」といつもみたいに静かに笑って、宣言どおりに早めにベッドに入って寝てしまった。


 こんな年になってからは、ぼくらはほとんど同じベッドで眠ったこともない。そういう熱くてむせ返るような激しい何かなんて、もうとっくに、何十年も前に、どこかにきちんと畳んでしまいこんでしまったからだ。

 いや、だからって仲が悪かったかと言えば全然ちがう。

 隣にいて、一緒に暮らしているのが、ただただとても普通で。そばに寄り添っていられればそれだけで温かくて、ひどく安心できる。本当にそれだけでいいし、お互い十分に満足できていたからなだけだ。

 それに、ぼくらの間には、いつも一匹の猫がいた。

 いまのタマは三代目だ。

 あの人は、どの子にも必ず、同じ「タマ」という名をつけた。


 次の日の朝、タマは様子がおかしかった。

 変な唸り声をあげて、うろうろとスーさんの寝室の前を歩き回ったり、いつもは入り込まない家具の隙間に隠れてみたりして、変な顔でぼくをじっと見上げていた。

 いつまでも起きてこないスーさんのことがちょっと心配になって、ぼくはそうっと彼の部屋のドアをノックした。

 返事はなかった。

 スーさんが、それから目を開くことは二度となかった。


 若いころに、ほんとうに色んな、色んなことがあって、スーさんもぼくも、近しい家族や付き合いのある親せきは誰もいなくなっている。大体は死別してしまったか、他人よりもずっと疎遠になってしまったかのどちらかだ。

 ぼくらは互いに、互いしかいない人間だった。

 それはまあ、ぼくらみたいな世代の人間だったら、しょうのないことだった。


 いつまで経ってもどんな女性とも所帯を持たず、いい加減いい歳になってから、逆に「男と暮らしたい」なんて言い出すやつを、これまでどおりに遇してくれる家族なんてなかなかいない。

 ぼくには妹がいたけれど、妹家族にとってぼくは、すでにいないか、もともといない存在だ。

 今は同性婚もだいぶ当たり前になってきているみたいだけれど、ぼくらの時代にそんなことを主張したら、それこそ村八分では済まないことになったのだから。


 もっと良くなかったのは、スーさんもぼくも、全然まったく女の人が愛せない体質というわけでもなかったことだ。

 どこかにかすかにでも希望があれば、家族は──特に親は──な結婚をして、家族をもつこと、子孫を残すことを子供に期待するものだから。

 だけどぼくらは、ただただ若さと情熱に任せて、そのとき互いの両親に対して相当な無理と、わがままを通してしまったんだ。

 父親には顔が腫れ上がるほど殴られて、母親はひどく泣かせてしまった。

 しばらくしてから会ったときには、二人とも、急にいくつも老け込んだように見えたものだった。

 ……ちょうど、いまのぼくのように。


 いや、もちろん後悔なんてしたくない。

 していない、と断言できれば一番よかったとは思っているけれど。

 でも、あのとき自分の気持ちを抑え込んで、あの人を諦めることだけはしたくなかった。同じ罪を犯すなら、二人で一緒に犯したかった。あの人と、共犯者になりたかった。二人だけの甘くて後ろめたい秘密を、心に抱え込んでしまいたかった。


 ぼくらはそれから、もといた町を離れた。この部屋で一緒に暮らし始めて、それぞれ別の仕事をして、一匹目の猫を飼い、タマと名付けた。

 やがて定年になってから、彼は文筆の仕事を始め、ぼくは持っていた資格を生かして、近くの中学校で司書の仕事を始めた。


 お互い、そろそろ日本の男性の平均寿命に近づくほどだったんだから、いつ、どうなったっておかしくはなかったのに。

 汁気の多い時代なんてとっくに過ぎたおかげで、「年配の男同士で、今ちょうど流行りのシェアハウスでもするみたいに同居しているんだ」なんていう、適当な言い訳までたちやすくなって。

 ……そんな矢先、君は向こうへ行ってしまった。

 まったく突然、なんの前ぶれもないままに。

 


 人がひとりいなくなっても、この世界は普通に動いていく。

 朝になれば空が明るくなってきて、仕事が終わって家に帰るころにはゆっくりと暗くなっていって。早朝には前と同じように、町角に出されるゴミを狙っているカラスたちの声が聞こえて、新聞配達のバイクの音がどこか遠くで響いて。夕方にはランドセルをしょった子供たちの楽しそうな声があちこちから聞こえてくる。

 いつもの川べりの桜並木をゆっくりと歩いて帰ると、犬を散歩させる奥さんや、ウォーキングを楽しむ年配のご夫婦と行きあう。少子化だと言われるようになって久しいけれど、確かにこの街にも若い人たちより年寄りが増えて来たなと思う。もちろん、ぼくだってそのひとりだ。


 なんとなくそのまま帰りたくなくて、ぼくは道を外れて土手をおりた。なだらかな斜面に腰を下ろして、どうということもない川のおもてを見つめる。

 本当に、何も変わらない。

 君がこの世にいようといまいと、世の中は昨日と同じ顔をして、ただ当たり前に進んでいく。


 ……君が、この世にいないのに。


「スーさん……」


 急に視界がぼやけて、ぐずぐずと熱く溶けだした。

 脂っけの抜けた皺だらけの手の甲に、ぼたぼたと何かが降り落ちて、はじめて自分が泣いていることに気付く。

 お通夜でもお葬式でも、ちっとも出てこなかったものが。


「スーさん──」


 どうして。

 どうして、ぼくだけ置いていったりしたの。

 だってあなた、言ったじゃない。

 君のそばにいるよって。

 どうか、居させてくれないかな、って。

 そのあなたが先に行くなんて、そんな、そんなの……ずるいじゃない。


 本当はぼく、いろいろ疑っていたんだけどさ。

 だってスーさん、ぼくなんかには素敵すぎたもの。

 どこにも平凡じゃないところがないぼくみたいなのとは違って、スーさんは女性にもよくもてる、とても素敵なひとだった。若い頃から物静かで、落ち着いていて、どこか飄々としていて。だけどしっかり芯の通った、心の優しい人でもあった。


 スーさん。

 スーさん。


 気が付いたら、うーうー声が漏れ出てしまっていて、僕は両手で顔を覆った。


「ママー。あのおじいちゃん、泣いてるよ」

 背後から可愛い声がした。小さな子供だろう。

「いいから、行きましょ」

 母親らしい声が慌てたようにそう言って、ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。


 ああ、見られちゃったな。

 恥ずかしいけど、大人だって泣きたいときは泣いちゃうものなんだよ。

 君だって、大きくなったらきっと分かるさ。

 しばらくそうやっていて、ぼくはやっと手の甲で目元をぬぐって立ち上がった。

 空の色が、沈んだ青から次第に夕暮れへと傾いている。


 やれやれ。泣いたらどっと疲れちゃったよ。

 年をとると本当に、なんでもかんでも疲れちゃうよね。

 そう思いながら、自分のつま先を見ていた視線をゆっくりと上げた時だった。


「えっ……」


 桜並木の樹のそばに、詰襟の制服を着た長身の少年がひとり、立っていた。

 中高一貫校の男子校の制服。それは、ぼくとスーさんが初めて出会った高校だ。ぼくは中学入試で入ったけれど、スーさんは高校から入って来た。その頃は、だいたい高校から入ってくる人たちのほうが優秀だと言われていたものだった。


「スー、さん……?」


 ぼくは目をしばたいた。

 少年は、高校で出会ったときそのままの、スーさんにそっくりだった。鼻筋が通っていて、目が涼しくて。同じ学校に女の子がいたのなら、きっと放っておかれなかっただろうなと思うような顔立ちと、立ち姿。

 スーさんそっくりの少年は、ぼくをじっと見て、少し悲しそうな顔で微笑んでいる。


「スーさんっ……!」


 思わずよろよろと駆け出したら、ふっとその姿が消えた。ぼくはびっくりして立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回した。


「あ……」


 そして、気づいた。

 少年が立っていた場所の樹の幹に、一輪だけ咲いた桜の花が揺れている。上の枝の方にはまだひとつも咲いていないのに、幹からいきなり現れたつぼみから、本当にひとつだけ咲いている。

 ぼくはゆっくりと近づいて、その花をじっと見つめた。

 指先でそうっと触れてみる。

 柔らかな薄桃色の花びらは、はかないけれど本物だった。


「スーさん……」


 もう、四十九日も過ぎたのに。

 もしかして、心配させてしまったのかな。

 まだこっちにいたりしたら、天国に行けなくなるんじゃないの?


「……ごめんね。心配、かけちゃったかな……」


 そりゃそうだよね。

 いい歳をしたじいさんが、こんなところでたった一人で、子供みたいに膝を抱えておいおい泣いていたんじゃね。

 君だって、心配で出てきたくもなるっていうもんだ。

 本当にごめん。いい歳をして、こんなにいつまでも情けなくて。


「大丈夫だよ、スーさん。……タマだって、いるんだしね」


 ぼくはその花に話しかけた。


「でもさ」


 もしも、タマをちゃんと最後まで見て、見送ったらさ。


「きっと、すぐに迎えに来てね。今度こそ、約束だからね」

「……でないと、浮気するんだからね。ぼくだってやる気になったら、そのぐらいのことできるんだから」

「本当の本当に、知らないからね」


 その時、頬をかすめてすうっと風が吹いて、小さな花弁がゆらゆら揺れた。

 ぼくはふふっと笑ってしまった。


「……じゃあね。スーさん」


 帰りにまた、缶コーヒーを買わないとな。

 本当は、コーヒーメーカーで温かいのを淹れてあげたいんだけど、タマがよく飛び乗ってこぼしてしまうから、時々しか淹れてあげられないんだよね。ごめんね。

 君は甘いのは苦手だったから、ちゃんとブラックを買わなくちゃ。


 遠くにかかった鉄橋の上を、かたたん、かたたんと電車が走る。

 行きつけのスーパーへと続く道を、ぼくはほんの少しだけ背筋をのばし、ほんの少しだけ歩幅もひろくして、またてくてくと歩いていった。



                           了

 

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ひとり桜 つづれ しういち @marumariko508312

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