第ニ章 聖女 1話
薄暗い森の中を逃げ惑う一人の男が居た。体中が汚れていて浮浪者のようだったが、注意して見ればそうではないことが解る。ボロボロに薄汚れてしまっているが、着ているのは皮でできた鎧であり、剣は携帯していないが鞘を帯びていた。
「クソッ…何なんだよあれは…」
男は冒険者でこの森には依頼で来ていたのだった、最近この森のオオケンジカが狂暴化して、森へ採取に来た人間を襲うらしい。そのため森の浅い場所に居るオオケンジカを狩って欲しいという依頼内容だった。
オオケンジカは鹿に似たモンスターで、角は一本だけ生えており、それがまるで大剣のような形をしていた。
狩りが得意な男には楽勝な依頼のはずだった、オオケンジカは皮ランクのモンスターーでたいして強くない。何度か狩った経験もあり、複数に囲まれなければ一人でも対処ができる相手だ。
男は依頼を受けて森へ行き、順調にオオケンジカを狩っていた。討伐の証である左耳を集めながら、森の奥へ奥へと進んでいく。
「しかし獲物が逃げないってのは楽なもんだぜ」
確かにオオケンジカは狂暴化していた、普段なら人間が攻撃すれば逃亡することが多いはずなのだが、男がこの森で遭遇した個体は弓を射っても逃げずに、角を振り回して突撃してきた。しかし狩りに慣れた男は、オオケンジカに近づかれる前に弓で仕留めることができたため、逃げないのは逆に好都合だったのだ。
(何だありゃ?…トビウサギを食ってやがる!)
次の獲物を求めて森の奥に来た男が見たものは、他の個体より一回り大きいオオケンジカが小型モンスターのトビウサギを捕食している光景だった。本来オオケンジカは草食性のはずなのだ。しかし異常な行動をしているが獲物には違いない、男はトビウサギの肉を食べるのに夢中で、こちらに気づいていないオオケンジカの頭に狙いを定めた。
ヒュッ
男が放った矢は多少狙いからは外れたが、オオケンジカの首に深々と突き刺さった。
「ギイイイイ」
しかしそれではオオケンジカは倒れず、叫び声を上げながら男に向かって突撃してきた。
「ちっ…このぉ」
オオケンジカが上げた叫びが、本来とは違うものだったことに動揺しながらも、男は素早く次の矢を構え射かけた。しかし動揺からかそれはオオケンジカには当たらず、その近くの木に突き刺さる。
三射目。もうオオケンジカはかなり近づいてきていた、男はオオケンジカを転倒させるために足を狙った。矢は見事に前足の太ももを貫いたが、しかし多少のスピードが落ちたもののオオケンジカの突撃は止まらない。
四射目…は間に合わない。男は弓を捨てて、腰に下げたショートソードを抜き正面に構えた。そこにオオケンジカの角が横薙ぎに襲い掛かる。
カアン!
男は飛びのきながら角の一撃をショートソードで受け止めた。
「ぐうぅ…」
思っていた以上のオオケンジカの攻撃に男は吹き飛ばされ、地面を転がりうめき声を漏らした、だが動けなくなるほどの怪我はしておらず、素早く立ち上がるとオオケンジカに向き直る。
そのオオケンジカは巨大な角を木に食い込ませ、身動きがうまくとれなくなっていた。オオケンジカは攻撃力はあるが、避けてしまえば隙が多いモンスターだ。
「おらぁ!」
オオケンジカの首に、先ほどの一撃で曲がってしまったショートソードを突き刺した。
「ギギャアアアア」
首から鮮血をほとばしらせ暴れるオオケンジカだが、角が木から抜けることは無く、出血により徐々に力を失い動かなくなった。
「何だったんだコイツ…」
仕留めたオオケンジカを間近で見て、男はその異常性に気が付いた。だらりと開かれた口には尖った牙が生えており、足には蹄ではなく鋭利な爪が付いていた。
他のモンスターとは違う特殊な個体というものは確かに存在する。しかし元の個体の発展形となるのが常識であり、草食が肉食のように変化するというのは、男は聞いたことが無かった。
「グオアアァ!!!」
突如。近くの林から野太い獣の唸り声が響き渡った。そのあまりに狂暴な声に、男は身動きがとれなくなる。
ベキベキと木の枝を折りながら、男の前に巨大な獣が現れた。男はキオリグマと呼ばれる、熊のモンスターがいると聞いたことがあった。体長は五メートル以上にもなり、鋼のような体毛と大木を一撃で砕く腕力を持つ、鋼ランクのモンスター。男は目の前に姿を現した巨獣が、そのキオリグマではないかと思った。しかし巨獣の頭部に生えている角はノコギリのような細かい刃が付いていたが、オオケンジカのものに間違いなかった。
「グオアアァ!!!」
「うわあああ!」
再び巨獣の叫び声が発せられ、男は我に返り無我夢中で逃げ出した。
逃げる。ただひたすらに男は逃げていた。弓も剣もあの場に置いてきてしまい、戦う手段は無い。いや例え戦う手段があったとしても、男はアレに立ち向かう気などさらさら起きなかっただろう。だから男はひたすら逃げた、木の枝にぶつかり体中に打ち身と擦り傷を作りながらも逃げ続けた。
「ガアアァ!!!」
「くそぉ…まだ来やがる」
男は相手が元はオオケンジカだったとしたら、弱点も同じで小回りが利かないのではないだろうかと考えて、木が多く乱立している場所を選んで逃げていた。しかし巨獣は細い木ならば薙ぎ倒し、太い木ならば迂回して追跡を続けた。それでも男が今まで追い付かれなかったのは、巨体ゆえにスピードが元のオオケンジカに比べれば遅かったからだろう。
「ハァ…ハァ…」
どれくらい逃げただろうか、男の体力はすでに限界だった。心臓は爆発しそうなほど高鳴り、息をすることさえ苦しかった。逃げたいという男の意思に、ついに体がついてこなくなった。本来であれば避けたはずの地面の小さな窪みに足をとられ、男は倒れてしまった。
「ああ…」
男は何とか首だけを動かして背後を見た、そこには二本の足で立ち、巨大な腕を振り上げた巨獣の姿があった。
ブォン!
巨大な腕が振り下ろされた。
今日の俺はいつもと違う食事処に来ていた。別に急に社交性が芽生えたわけでも、行きつけの店に飽きたわけでも無い。単に知りたいことがあったのでこの店に来たのだ。食事処で何を知りたいのか、と疑問に思う人もいるかもしれないが、正確にはここに居る情報屋から情報を買いに来たのだった。
店に入ってすぐに俺は情報屋を見つけることができた。全身赤い服に赤い帽子をかぶった太った男で、壁の隅にある席で大量の料理を食っていた。キースに聞いた情報屋の特徴そのままだった、紛らわしい人物が居なくてよかったとホッとする。
「いらっしゃい、ご注文はどうします?」
「ナンガさんと食べる予定です」
「そうですか。ではあちらにどうぞ」
合言葉を言うと手で席を示された、やはり隅の席に居るあの男で間違いないらしい。俺は緊張しながら男が座っている席に近づいた。
「客か?」
「はい、知りたいことがありまして」
「そうか、まあ座れ」
男は短くそう言って食事を再開した、俺は言われた通りに席に座る。
「始めに言っておくがウチのモットーは広く浅く、危険なことにも関わらないし知りたくもない。さて何の情報が買いたいんだ?」
「十五年前にハッセ村で起きた火事のことを知りたいんですが」
「ジュース一杯」
「はい?」
「情報料だ」
「え?それでいいんですか?」
「払うのか?払わないのか?」
「払います」
俺は情報屋にかなりの値段を要求されると思い。前回のゴーストの事件で得た報酬の一部を皮袋に入れて持って来ていた、それでも足りないのではないか、と心配していたのだがそれは杞憂に終わった。
男がウェイトレスを読んでジュースを注文して、俺はその代金を払った。すぐに運ばれてきたジュースを男は一気に飲み干した。
「プハァ…十五年前のハッセ村の火事といえば有名でな」
「村の火事がですか?」
「火事は村を根こそぎ焼いて、森にまで火が回ったんだ」
「そんな酷い火事になったんですか」
俺はてっきり倉庫が焼け落ちて終わったと思っていたが、まさかそんな大火災になっていたとは思いもしなかった。
「まあ、村が駄目になるなんてのはたまにある話だからな、数年もすれば忘れられるような話なんだが…火事にいち早く気付いた子供の一人が、神から神器を授かり奇跡を起こして村の人間を救ったそうだ」
「えぇ!」
いきなり話の内容がぶっ飛んで驚いたが、俺も神器については知っている。孤児だった頃に聞いた話にでてきたからだ、神よりもたらされ災悪を退ける力を持つ道具だそうだ。しかし昔に聞いた話も情報屋の話も、正直にいうと胡散臭く思ってしまう。神とはそんな都合よく人を助けてくれる存在なのだろうか?まあファンタジーな世界だしありえるのかも知れない。
「なんでも巨大な光の壁ができて、火災から村人を守ったそうだ」
「巨大な光の壁ですか」
ガギン!
大木すら粉砕するであろう巨獣の一撃は、突如現れた光の壁に阻まれて男に届くことは無かった。それでも巨獣は諦めずにその剛腕を振るうが、光の壁はビクともせず存在し続けた。
「はああああ!」
男の後方から、気合の入った女性と思われる声がした。白い鎧を着た女騎士が現れ、剣を手に巨獣に切りかかって行く。騎士は光の壁がまるで存在しないかのように通り抜け、飛び上がりながら巨獣の胴体に切りつけた。
「グガアアアア!!!」
胴体を切り裂かれて苦痛に吠える巨獣だったが、死には至らず着地した騎士に向けて腕を振り下ろす。それに合わせて騎士も剣を振るい、その鋭い一撃により巨獣の片腕は切断され地面に落ちる。それにも怯まず間髪入れずに巨獣の角による素早い突きが繰り出された。
ギャリィリィリィ…
その突きにさえ騎士は対応して切りつけてみせたが、今度は切断することはできず剣と角の間に無数の火花が散る。
「グゥ…しまった…」
剣が壊れることは無かったが、巨獣の強力なパワーとノコギリ状の刃を受け止めたことで、強力な振動が発生し騎士の手を痺れさせていた。そこに二度目の角による突きが襲う…しかし後方から光の壁が女騎士を通り抜け巨獣の攻撃だけを弾いた。
「ケイト。今です」
女騎士とは違い迫力は無いが、強い意志を感じる女性の声がまた男の後方から聞こえた。
「タアッ!」
突きを光の壁に弾かれてバランスを崩している巨獣に、女騎士は剣を水平に構え跳躍して巨獣に接近し、その胸に剣を深々と突き刺した。
「ガ………」
これにはさすがの巨獣もひとたまりもなく、叫び声すら上げられず絶命した。女騎士は剣を巨獣の死体から引き抜くと男の方に振り返る。
女騎士はスラリとした美人だが目つきは鋭く、目と同じ色をした赤い髪をポニーテールにしていた。
「そこの冒険者。大丈夫か?」
「ああ…なんとかな」
「そうか。ミア様、御助力感謝します」
男の安否を確認した後、女騎士は男の後方に居る人物に話しかけた。男もそれに釣られて背後を見る。
聖女が居た。いや男は彼女が誰なのかは知らなかったが、そうとしか思えなかったのだ。
「奇跡を起こした子供はどうなったんですか?」
「教会のお偉いさんの養子になったそうだ」
「もう一人の子供は?」
「……さあ?それは聞いたことがねえな、村人と一緒に別の村に移住したんじゃねえか?さて、俺が話せるのはここまでだ、次の客も待ってんでな」
「ありがとうございました」
アドラは情報屋の男に礼を言って席を立った、代わりにガリガリに痩せた男がその席に座る。アドラが店から出て行ったのを確認して、痩せた男は話し始めた。
「で、さっきの客はどうだった?副ギルド長に報告するんだろう?」
情報屋の仕事仲間で、情報を収集する役目を担当している痩せた男が、情報をまとめて整理する役割の男に話しかけた。
「なんともいえんな」
「なんだそりゃ?」
「不審な点はあるが繋がらない」
「確かにあの坊主は挙動不審だよな」
「そうじゃない、なんであの坊主はハッセ村のことを聞いた?」
「確か年齢が十五かそこらだろ、自分の生まれた年に何かがあったって誰かに聞いたんじゃないか?」
「だとしてもわざわざ情報屋まで使って調べるか普通」
「あー…気になって仕方がなかったとか?」
「ありえない話ではないが…じゃあ、もう一人の子供がどうなったのか聞いたことはどう思う?」
「さあ?もう一人も何かすごいことになってないか期待したとか?」
「ふん。もう一人がどうなったか聞いたことも怪しいが、火事にいち早く気付いた子供の一人としか俺は言ってねえのに、子供の人数が二人だとなぜ知っていた?」
「ん?んんん???ハッセ村の火事に詳しかったとか?」
「アホ。なら俺に情報を買いに来る理由がねーだろ、まったくハッセ村との繋がりが無いにも関わらず、部分的に知っているような感じを受けるのは何故だ?」
「知らん俺に聞くな、そもそも情報の整理はお前の役目だろ」
「…不審点だけ報告してこの件は終わりにする」
「いいのかそれで」
「いいんだよ、俺らのモットーを忘れたか?」
「広く浅く、怪しいことは関わらない、知らない」
「それでいい。じゃあ新しく聞いてきた情報を聞かせろよ」
それ以上は深く考えることをせず、太った男は痩せた男が町中から集めた噂を聞きながら、新しく運ばれてきた料理を楽しんだ。
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