第5話
振り向くと、一人の男が立っていた。
ストーカー?
そう思ったのも、一瞬のうちだった。その男が持っていたのは鈍く光る包丁だったから。通り魔……単語が頭の中に浮かび上がった。夕方と言えどここは林の中を通り抜ける一本道。助けを呼んだとしても来るかどうかはわからない。
瞳孔が開き、心臓の鼓動が速くなる。次の瞬間、足が勝手に動いていた。カバンを捨ててとにかく全力で走る。だが、恐怖のせいか足が縺れて上手く走ることができない。
とうとう何かにつまづいて転んでしまった。
男が歪んだ笑みを顔に浮かべてこちらに近づいて来る。立ち上がろうにも腰が抜けて這って進むことしかできない。道路の端まで追い詰められてしまった。後ろは谷になっていて落ちたら確実に死ぬ。
まさか、あいつ、自分で殺した人間を谷に放り込んでいるんじゃ……。
ここで死んだら自殺として扱われるだけかもしれない。
何か武器はないか……手元を探ると拳大の石が落ちていた。これで勝てると思ったその時、腹に重い衝撃が走る。思いっきり腹を蹴られた。余りの痛さに石を手放してしまう。次に頭を殴られた。地面に仰向けになって倒れる。そしてYシャツのボタンが強引に引きちぎられる。やばい、こいつ強姦する気だ。抵抗しようにも頭がぼんやりしていて何も出来ない。ここで辱めを受けて無残な姿で死ぬのか。そう思った時、男の体がぐらりと傾いた。
「黒川先輩……。」
代わりに立っていたのは、鉄パイプを片手に持った黒川先輩だった。
「また会ったわね、大丈夫?」
とにかく助かったというのは間違いないみたいだ。ほっとして胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます、黒川先輩。」
先輩は一瞬安堵したような表情を見せたが、再び真剣な顔をして言った。
「それより警察に通報して。こいつが目を覚ますと厄介だから。」
携帯はカバンの中だっけ……そういえばカバンを捨ててきたんだった。幸い道路の真ん中に落ちていた。緊急連絡で警察に通報する。
5分後、男は現行犯として逮捕された。僕と黒川さんは事情聴取のために一緒に警察署に行くことになった。
警察署から病院に行って、帰宅する頃には空が藍に染まっていた。病院から家までだと電車の方が早い。
「あそこの学校の北側の道、バス停まで近道なのはわかるけどあまり通らない方がいいよ。今日みたいなこと、前もあったし。」
「わかりました。すいません、いろいろ迷惑かけてしまって……」
「いいっていいって、君の命が助かったんだからそれに越したことはないよ。あ、そうそう、名前をまだ言ってなかったね。私は小百合。苗字の方は知ってるみたいだからね。あなたは?」
「水無月 伊佐美です。」
「伊佐美ね。よろしくね。あ、小百合って呼んでもらって構わないから。」
そういうと小百合さんは笑みを浮かべた。電車がホームに滑り込んでくる。
今回、小百合さんに命を助けてもらったのは間違いない。心の底から感謝している。だけど、一つ疑問に思うことがあった。
「じゃあ、また明日。」
「あの、小百合さん……」
「ん?」
「なんであの時、あそこに居たんですか?」
一瞬、時間が止まったような感覚がした。
駅前の喧騒や、反対方向に向かう電車がホームに入ってきた音が、ふいに消えてしまったように感じた。
「……嫌な予感がしただけ。」
さっきまで笑顔を見せていた彼女の顔には曇った表情が浮かび上がっていた。
「じゃ、明日学校でね。」
そう言ってひらひらと手を振りながら、電車に乗り込んでいった。電車の窓越しに見えた彼女の顔に曇った表情はなかった。その顔が見えなくなるまで僕はぼうっと電車を眺めていた。
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