20.呼ぶ声
兄さんのところにたどり着いた。
『浄化陣』の一角を成す人間族として、セラス司令から流れ込む魔力の中継を担っているため兄さんは動けない。そのそばまでやってくると、司令の言った通り誠哉お兄ちゃんの顔が見えた。ぼんやりとだけど、こちらを見ているように見える。
うん、大丈夫だ。ここからなら、きっとお兄ちゃんは私を見てくれる。そう、信じてる。
「疾風兄さん、来たよ」
「弓姫! 何来てんだよお前!」
声をかけたら、疾風兄さんにいきなり怒鳴られた。うー、そんな言い方しなくてもいいじゃない!
「何って、司令の命令だもん。誠哉お兄ちゃんを呼んで、正気に戻せって」
「うわ、珍しいな。司令が命令?」
「うん」
私が伝えたら、兄さんはびっくりして肩をすくめた。そりゃあ、確かにセラス司令が命令を出すことなんてほとんどないからなあ。
兄さんのこめかみから汗が一筋流れ落ちていて、この状況が兄さんに掛ける負担がいかに大きいかを私に教えてくれた。
『浄化陣』の展開が初めて、という訳じゃないけれど、今回は影響を消すべき大元の『邪』が中にいて、しかも目覚め始めてる。その、外に出て来ようとする圧力が負担になっているのだろう。
「あー、じゃあ任せた。早くこっちを楽にしてくれ」
「了解、頑張るね」
ばち、ばちと微かに魔力が全身を走っている兄さんは、それでもいつものような悪戯っ子の笑顔を浮かべた。
私はうんと大きく頷いて疾風兄さんから意識を外し、『浄化陣』の中心部に目を向ける。そこで、虚ろな目をこちらに向けている、銀の髪の大事なヒトに。その横にいる少年もこっちを見ているけれど、そんなの気にしない。
私が見ているのは、誠哉お兄ちゃんだけ。だから、恥も外聞もなくお腹の底から大声を出して、その名前を呼んだ。
「お兄ちゃんっ! 誠哉お兄ちゃん! 聞こえる?」
「……ゆみ、き?」
あ。
私の声に、反応してくれた。
私の顔を、ちゃんと見てくれた。
私の名前を、ちゃんと呼んでくれた。
よかった、意識がない訳じゃないんだ。
私の知っている『天祢誠哉』は、まだ生きてる。
『邪』に、完全に食われた訳じゃない。
なら、きっと助けられる。
ううん、助ける。
そんな思いを込めて、陣の外から、義妹として叫んだ。十年前には我慢して言わなかったことを。本当は言いたかったことを。
「お兄ちゃん、また置いてくのっ! わたしのこと、また置いてくの!」
「……ごめん……」
「ごめんじゃない!」
お兄ちゃんが喉から絞り出すような声しか出せないのに、思わず私は怒鳴ってしまう。
ああもう、どうしてお兄ちゃんは弱気なんだろう。
私が頑張ってるんだから、お兄ちゃんにも頑張ってほしいのに。
みんなも頑張ってるんだから、お兄ちゃんにも頑張ってほしいのに。
そんな弱気じゃあ、『邪』に負けてしまう。何とかして、発奮させないと。
お兄ちゃんが、負けたくないって思ってくれないと駄目だ。
「置いてかないでよね! また十年待てっていうの!」
「……」
だからそう叫んだら、お兄ちゃんははっとして私を見つめ返した。
そうよ、私は今まで十年間、お兄ちゃんのことを待っていたんだ。また十年待てなんて言われたら……私、お兄ちゃんより十歳も年上になってしまう。さすがにそれは、いろんな意味でいやだ。
そもそも『お兄ちゃん』なんて呼べなくなってしまうし……いや、そこはちょっと違う。思考を横道に逸らしている場合じゃない。
「帰ってきなさい! 帰り道が分からないって言うんなら、わたしが手を引っ張ってあげるから! 道案内くらい、できるようになったんだよ!」
小さい頃を思い出す。道に迷ってしまった私を捜しに来てくれた誠哉お兄ちゃんと、一緒に手を繋いで帰った。あの時私は、お兄ちゃんの大きな手に引っ張って貰えるのが嬉しくて、わざと少し遅れて歩いたりしたんだったっけ。
今度は、私が引っ張る番だ。道に迷ってしまった誠哉お兄ちゃんと一緒に帰るために。
「……弓姫……」
お兄ちゃんが、私を呼んでいる。私も、お兄ちゃんを呼んでいる。
「手を伸ばしてよ! 呼んでよ! わたしと、鎧花を!」
思い切り手を伸ばす。うう、腕にかかる魔力の圧迫感が厳しい。こんちくしょう、負けてたまるもんか!
「……弓姫」
お兄ちゃんの言葉が、だんだんはっきりしてくる。自分の身体を見回し、周囲を見回し、そうして少し離れた地面に転がっている鎧花を見つけた。
『待て。そなたに、鎧花をまとう資格はない』
あ、まだいたんだ。
お兄ちゃんを苦しめた、闇黒族の少年。
そいつがお兄ちゃんを追い込むようなことを口にする。
『既にそなたの中では「邪」が己の再誕の時を待ち望んでいる。最後の贄となることを喜ぶが良い、天祢誠哉』
「黙ってよ! お兄ちゃんは渡さないからねっ!」
『お前こそ黙れ、小娘』
偉そうなことを言って何よ、そっちだって子供じゃないの。いや、闇黒族だからエンシュみたいに子供の姿で固定しているだけかも知れないけれど。ああ、だからそういうことやってる場合じゃない!
「誠哉お兄ちゃん! しっかりしてよ!」
「そうだぞ、この馬鹿兄貴! 十年ほったらかしにした責任、ちゃんと取りやがれ!」
いきなり、私の背後から口の悪い援護射撃が来た。振り返らなくても分かってる、疾風兄さんの声だ。そうだ、私だけじゃない。兄さんだって、死んでしまった父さんだって、お兄ちゃんが帰ってくることをずっと待っていたんだ。
「………………僕が」
だから、お兄ちゃんが口を開いた時はどきっとした。私も、疾風兄さんも、そして闇黒族も、誠哉お兄ちゃんの口元をじっと見つめている。
彼は、何て言いたいのか。
彼は、どうなりたいのか。
「僕が、帰っていいのなら……僕に、その資格があるのならば」
そして、お兄ちゃんが言葉を続けた時はほっとした。みんな、みんな――十年前から待っていた私や疾風兄さんと、ほんのちょっと前に知り合ったばかりの守備隊のみんなも、信じていたから。
「来てくれ、『七変化』!」
誠哉お兄ちゃんが、自分の意思で再び鎧花をまとうことを。
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