第三章 ベホイミ
「シキブー、おっはよー。」
今年の夏はただでさえ暑いのに、この笑顔はそれを感じさせない爽やかなものだ。ヒガシマルは弓をぶんぶん振り回しながら今日も元気満点だ。彼女は部室に置いておいてもいい弓道の道具を毎日持ち帰っている。彼女曰く自分が見ていないところで誰かに触られるかもしれない状況がとても気持ち悪いみたいだ。だからって毎日満員電車であんな長いものを手に登校しなくても、なんて思ったりしているが彼女は所謂潔癖症なのだろうと思いそれ以降話題には出さないようにしている。
「あ、ヒガシマル!おはよう。」
私はヒガシマルに返事をした。するとヒガシマルはニカッと笑い、
「シキブ今日も可愛いね、俺の嫁になれよ。」
とハエがこれでもかって程たかりそうな臭いをプンプンさせたセリフを振り撒いた。
「不束者ですがよろしくお願いしますw」
私も顔色を窺うことなくこんなことを言えるようになるなんて、すごい成長を感じた。人間の成長には気温が大切なのだろう。そんな馬鹿なことも考えたりする。
私とヒガシマルは弓道部に入部した。私はやっとまともに弓を引けるようになってきたところで自分でも成長を感じている。しかし、ヒガシマルは入部当初は私よりも明らかに下手だった癖に二週間ぐらいしてから急激に頭角を現していた。私の袴姿もなかなか可愛いと思うが、この美少女は反則だ。可愛いだけでなく上手い。神は二物を与えるのですね。と少し悔しいような情けないような気持ちが湧いてきた。
放課後、いつものように部活動に励んでいると、普段はあまり表れない顧問の小山内がやってきた。
「明日からは試験前の期間に入るため部活はないから各自しっかり勉学に励むように。」
ザ先生というようなセリフを言って去って行った。これだけのために弓道場まで足を延ばしたらしい。この学校で絵に描いたような教師はおそらくこの小山内だけだ。ちなみに私の入試時の面接担当官でもある。おっさんはユーモアの欠片もなく足早に戻って行った。
「もう期末試験何だね、なんかついこないだ中間試験が終わったばかりな気がするのに。」
ヒガシマルは頬が膨らませた。
「ヒガシマル前回も点数すごく良かったから今回も大丈夫じゃないの?」
私は当たり障りのない、且つ相手を立てる言葉を選んだ。
「今回はダメダメ。バイト始めちゃったから前みたいに勉強出来てないよぉ。」
今にも泣きだしそうな顔がこれまた可愛い。それを特に何も考えずに出来てしまうなんてやっぱり才能だ。ヒガシマルは急に何か悪戯を思いついた子どものような眼をして、
「そうだ、つっちーも誘って一緒に勉強会しない?」
私は高校に入ってからヒガシマル中心に生活を送ってきた。もちろん今回もそうする。今までは相手の機嫌を損ねないようにと考え動いてきたが最近はヒガシマルと一緒に行動することが心地良い。自分らしくいられる。そんな風に感じていた。
「さっそくつっちーにも聞いてみよう。」
すぐにスマホを取り出しラインを送っている。卓球部の活動場所はすぐ隣なんだから声を掛けに行った方が早いのではないか。と思っているとすぐに返信が来た。
「つっちーもOKだって!」
ヒガシマルの嬉しそうな笑みが私を安心させる。なぜ今安心したんだ?
「あ、でも勉強苦手だから得意な人も誘おうだって。シキブ勉強得意な人誰か知ってる?」
「うーん。」
私は唸った。私は相変わらず交流範囲は狭いままだったからだ。なけなしの交流範囲から絞り出した名前を声に出した。
「森本とかかな。」
彼なら頭脳明晰だしちょうどいいだろう。そしてヒガシマルがいるとなれば絶対に参加するはずだ。私が恋のキューピッドになれる日もそう遠くないかも。なんちゃってね。
「森本ライン交換していないから、宮嶋経由で聞いておくね。」
チャラ男もセットになるだろう。
栗浜のイオンのフードコートの一角を陣取った。ここは高校生の勉強場所の定番だ。今日は土曜のためか午前中だというのに既に込んでいる。
「俺もうすぐで誕生日なんだよね。それまでに彼女欲しいなー。」
誰も聞いていないのに宮嶋はいきなり語り始めた。
「やっぱさぁ、恋人がいない高校生なんて高校生活損してると思わない?一緒に登下校して、休みの日は横浜なんかぶらぶらしてさ、夜景の見えるレストランでディナーなんてしてみたいじゃん。」
こいつは根っからのチャラ男だと思っていたが、それだけではない世間知らずなんだ。
「高校生が夜景の見えるレストランってお前ばかか。基本サイゼ、よくてデニーズだろ。」
森本が真っ当なことを言ったことに私はほっとした。高校生って言ってもそんなお金ないもんね。私だけが感覚ずれているのかと少しドキドキしていた。チャラ男は世間知らず。これでよし。
「だってー、ずっとそんな高校生活を夢見てきたのさ、うちのクラス可愛い子いねーんだもん。夢だけがどんどん膨らんでいっちまうだろー。」
「宮嶋ひどーい。どの面下げて言ってるだよ。しかもこんなに美女に囲まれてるのに口に出すなんて。」
言ったのはつっちーだった。この意見には私も同感だ。ヒガシマルは文句なしで美少女だし、私とつっちーだって偏差値50よりは上にいるはず。ふとヒガシマルに目を向けるとけらけら笑っていた。その隣で険しい顔をしている森本が目に入った。冷酷な目をしていると言った方が合いそうな感じだ。
くだらないこともたくさん話したが私は未来完了進行形と死闘を繰り広げていた。未来なのに完了していて進行している。イミフメイです。ワタシエイゴハワカリマセン。きっと眼鏡を外したのび太くんみたいな目をしていたんだと思う。森本の教え方はとてもわかりやすく私たちはそれぞれ苦手なところを聞いた。
私の未来はどんな風になっているのかな。臨床心理士に本当になれるのかな。期待と不安だと不安の方が大きい。私はこのまま、自分を殺したままでいいのか。あの時人を傷つけたことが自分を殻にこもらせてしまったんだ・・・。
―「ヨシキくんのこと好きなくせに。」
教室中に私の声が響いた。
別に発言だけを見ればさほど問題とも思えない。ただ詩織ちゃんは違った。言い返すでも否定するでもなくそそくさと教室から出て行ってしまった。
別に詩織ちゃんから聞いたわけではないが、詩織ちゃんはいつもヨシキくんの前では可愛い女の子を演じる。それが私は嫌いだった。
翌日詩織ちゃんは学校を休んだ。最初はただの風邪だと先生から言われていたことを信じていたが、その翌日もまた休み。そのまた翌日も休み。それ以来学校に来ることはなかった。もちろん原因は私なのだろう。そしてクラスの誰もがそう思っている。
正義を気取りたいのか、私に対する嫌がらせが始まった。そんなことをしても誰も喜ばないのに。正当そうな理由が欲しかったのだろう。学校教育なんてただ同じ地域に住んでいるからという理由で同年代の子どもたちをすし詰めにするものだ。いくら子どもであってもそこにストレスが生じてくる。そのはけ口に正義を振り翳すことが手っ取り早いのだと思う。学校で何をされようとも耐えて、耐えて、耐え抜く。そうすることで何か光が差してくるような気がしていた。
結局は何も起きなかった。その後詩織ちゃんは違う学校に転校したことを伝えられた。家庭の事情と言っていたが、本当のところは違うのだろう。転校していったことを皮きりに私への嫌がらせも無くなっていった。
しかし、私はそれから相手の顔色を窺うようになってしまった。自分の感じたままを行動に移すとその人が不幸になってしまう。そしてその不幸は巡り巡って私に返ってくる。因果応報とは良く出来た言葉だ。私の一言がいけなかった。言葉は刃物と同じで使用上の注意を良く見て正しく使わなければいけなかったんだ。だから私は私を殺して生きてきた。―
「シキブ顔色悪いよ?大丈夫?」
ヒガシマルの声にハッとした。
「ごめん。ちょっと嫌なこと思い出しちゃって。もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。」
「そんな時は何も考えずにパーっと遊ぶのが一番だよ!」
目を細めながら白い歯を見せヒガシマルが言った。この朗らかさは羨ましい。私もこんな風に単純に楽しいことだけを考えて生きてきたかったな。ヒガシマルを見ると神妙な面持ちで、
「あたしも良く考えこんじゃう時があってね、そんな時は遊ぶかずっと海を眺めるかしてるよ。」
ヒガシマルが考え込むときなんてあるのかと呆気にとられていたが、すぐつっちーが、
「行こうよ、海。」
それに宮嶋が答える。
「今から?海パン持ってねーよ?」
「泳ぎに行くわけじゃないんだからいらん。」
つっちーが宮嶋を一蹴した。ヒガシマルはいつもの表情に戻ってガハハハ声を荒げ笑っていた。私の思い違いかな。
栗浜海岸に行くことにした。潮の香りに誘われるままに私たちは歩いた。途中市営プール帰りのような髪を濡らした少年たちがガリガリ君を食べている姿を見て、
「なぁ、アイスでも食べながら行こうよ。」
と今にも溶けだしそうな声で宮嶋が言ったことに口々に、
「そうだね。」
なんて同意していた。梅雨の明けたばかりではあるが今日の最高気温は三十三度らしい。セミだって鳴いているし、アスファルトからは陽炎が立っている。暑い。だけど、その言葉を誰も発していなかったが宮嶋ときたら。だが、宮嶋は言葉を続ける。
「あーづーいーーー。」
特に意味はないが一秒でも早くアイスを食べたいんだろう。本能のまま生きているような男だ。
途中スーパーに寄ってアイスを買い、海までの道を食べながら歩いた。行儀が悪くても許されるのは学生の特権だ。大人がこんな行動していたら白い目で見られるもんだが、学制というだけで世の中の人は違和感を覚えないらしい。そんな子どもに無関心だからツイッターやインスタグラムで調子に乗った動画をアップロードする所謂バイトテロみたいな大きい事案を引き起こしているのだと私は思っているが、今は無関心な大人ばかりで内心ほくそ笑んでいる。今この時がとても幸せな時間だからだ。
対岸には薄っらとであるが房総半島が見えた。ギザギザした稜線は鋸山であろう。本当に鋸みたいな見た目をしている。というか名付けた人はおそらくこっち側の人間でこの景色を見たに違いない。対岸に渡ってしまったらあの立派な稜線は見えないだろう。
またどうでもいいことを考えていた。私は考えることが好きなのだろうか。
「あっち側まで泳げるかな?」
何も考えていなさそうな男が気の向くままに言葉を放った。
誰も答えない。そしてその空気感に一人笑いを堪えているヒガシマルが目に入る。
「無視かよ。」
「だって、しょうもないこと言いだすからw」
お腹を抱えながらヒガシマルが答えた。それを合図にみんな笑いだした。
こんなくだらないことでもすごく楽しい。将来の漠然とした不安なんか今はどうでもいいようにさえ思えた。この時間が続けばいいのにな。私は本気でそう感じていた。
「ところでちーちゃんは将来どうなりたいとかもう考えているの?」
聞いてきたのはつっちーだ。
「私は臨床心理士っていう資格を取って、それを活かした職業に就きたいと思ってるんだけどみんなは?」
高校入学前までの私では考えられないが、友人に対して将来のことをしっかりと言えていた。今までそれを言うことでまた何か言われると思い「まだ特に決まってない。」としか答えてこなかった私がだ。
「それなんかかっこいいね。」
ヒガシマルだ。そして言葉を続ける、
「あたしはまだ具体的には決めていないけど、今まであたしに関わった人たちに「恩返し」が出来ればいいな。なんて思ってるよ。それがどんな職業がいいとかは全然調べていないけどね。」
「俺はもちろん弁護士。」
宮嶋が続けた。
「だって金持ちだろ?最高じゃん!」
今の宮嶋の学力を見ているとまず無理だろう。誰の目にも分かり切っていた。
「いつまでも夢追い人を続けないようにね。」
つっちーが鋭いツッコミを入れた。宮嶋の顔は急に捨て犬みたいになった。
「ってか森本はどうなんだよ?」
宮嶋の目に生気が戻ってきた。黙って聞いている友人を標的にして生き生きするなんてやっぱり子どもだ。
「俺は薬の研究者になりたいと思ってる。野口英世とかまではいかなくてもそれで生きることを続けられる人が多く現れればいいなって。」
普段口数は少ないが案外まともなことを考えているんだなと感心した。
「つっちーは?」
私が聞いた。
「私は夢とかはないよ。将来は歯医者にならないといけない。親が歯医者だからそのレールを歩んでいくだけ。まぁ幸せな結婚生活は送りたいかな。」
そう語るつっちーの眼はどこか冷めていた。
将来について悩むことが出来るのもいいことなのかも知れない。将来について悩めない人もいるんだ。私は当たり前にみんな将来を不安に思っているものと決め付けていたがそれは間違いだった。決められた道を歩まなければならないなんてプレッシャーしかないだろう。私はかなり自由に生活させてもらえていることを一人感謝した。
「泳ごうぜ。」
やっぱりこいつは頭がおかしい。水着ないって話はどこ行った。しかもここは遊泳禁止だぞ。
「今日は暑いからすぐ乾くっしょ。」
どうやら本気らしい。目で訴えかけている。
「もう、しょうがないなー。みんなで泳ごっか。」
答えたのはヒガシマルだった。暑いしまぁいっか。
私たちは着の身着のままで海に飛び込んだ。まだ一時だし服は乾くだろう。他のことは今は気にしない。と思った矢先、
「あーーーーー。ケータイポケットから出し忘れてたーーーー。」
やっぱりこいつは馬鹿だ。
私たちは声にならない声でたくさん叫んでいた。傍から見れば奇声を上げている集団だったかもしれない。それでも過去も未来も気にせずに今を楽しんでいた。相手の顔色なんか気にしない。今を生きることの大切さ。未来を思い詰めて死んでしまうたくさんの人が今の世の中いる。その人たちに伝えたい。今って素敵な時間ですよって。
若いから、もう年だから関係ないと思う。今をどう生きるかで未来は変わっていくものだよって。年齢を重ねていくことで出会いは減っていくと思うけれど、私はこの出会いにとても感謝している。多分未来を思い詰めている人たちも同じような経験はあると思う。その時の気持ちを思い出せばまた頑張れる。
私たちはテスト前だっていうのに遊んだ。宮嶋の携帯電話は一命を取りとめた。この時の宮嶋の顔は一生忘れられないだろう。
今日はみんなと過ごせて本当に良かった。こうやって自分自身の成長に繋がっていくんだと強く感じた日だった。テストまであと一週間しかないけれど今回は頑張れそうだ。負けるな千尋。人は人の心によってダメージを受けるが回復もするんだ。
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