第14話 果てしない夜
授業中。しんと静まっている教室のなか。眠たげな影をつくっている机のうえ。斜めに伸びる煙突の白い煙。いつのまにか途絶えたシャープペンシルの音。
黒板の深緑色に書かれた、『訂正 問い③バルト三国 → 帝政ロシア領』
(結局その問題は分からずじまいだ。わざわざ訂正まで書かれているのに)
ひとつ、小さなあくびをする。
時計ばかり見ている世界史のごんちゃん(合田っていう名前だから)
あと五分したら、テストも終わり。図書館へ本を返しに行くことを、私はゆっくりと思いだす。
*
いつものように宿題をしていたら、
「散歩をしない?」
と、やよいちゃんは言った。勉強ばかりだと頭が火照ってしまうから、と。目処がつくところで私は宿題を切り上げて、散歩をすることにした。
夜の空気の冷たさが、熱くなっていた頰を冷やしていく。道端にポツンと立っている電灯の光。どこかで犬の鳴く声。通りすぎてゆく車のエンジン音。
表はもうすっかり暗くなっていて、住宅街のはざまの小道はやけに黒々している。私は歩きながら、こっそり隣を盗み見た。やよいちゃんは、白色のふわふわしたストールを巻いている。
「仕事がひと段落つきそうだから」
白色のストールにやよいちゃんの唇はきっと映える、と思う。口紅をしなくてもぽってりと赤いうわ唇。
「見に行くわ、今度の劇。市内のホールで上演するんでしょう?」
私は少し驚いて立ちどまった。
そんなことをやよいちゃんが、言うとは思わなかったから。
「見に来てくれるの?」
私の声は、少し弾んだ。
やよいちゃんは、こっくりとうなずく。
「これで上演するのも最後でしょう? 大学に行っても、劇は続けるの?」
私がいつかカステルにした質問を、やよいちゃんはした。私はそれについて考えた。ずっと頭のどこかで考えていたこと。考えようとしても、しまいにはやめてしまった物事。
「分かんない」
私は素直に答えた。
やりたいと思えばやるし、気が乗らなければやらない気がした。未知の世界について、考えても分からなかった。砂漠の砂を懸命にすくっても、指のあいだからこぼれてしまうように、イメージしても形にならないのだ。
ただ、ずっとこのままでいるような気がした。私は高校生で、カステルがいて、みんながいて、宿題に追われていて、やよいちゃんはときどき手紙をくれて、私の話に「ふうん」と相槌をうつ。
スカートのひだの重たさ。
移動教室のあいまに見えた空が、やけにきれいだったこと。
廊下に淡く映っている友達の影。
階段の途中に落ちていた片方の上靴。
夜になると香るキンモクセイ。
放課後の誰もいない教室の静けさ。
うっかりその静けさに包まれたとき、
(忘れ物を取りにいったのだ)
自分の心の半分が、溶けてなくなってしまうような気がした。透明になって、そのまま風景の一部になってしまうような気が。
教室の窓からはうっすらと西日が差していて、何も考えられないままボンヤリと眺めた。
陽に照らされて光るたくさんの机。
長い影をのばしているイスの群れと、日焼けして薄い茶色に染まっているカーテン。
あと数ヶ月で、私のものではなくなってしまう机。
もう二度と、足を踏み入れなくなる教室。
私は何も惜しんでいなかった。
ただ、圧倒されていた。
時の流れの速さに。過ぎていく一瞬に。
西日射す教室の静けさと美しさに。
「もしよかったら」
私は言った。
吐く息が白い。
息をするたび、夜気に消えていく。
「楽屋に遊びに来て。ホールの裏に搬入口があって、私の知り合いって言えば、役員の子が通してくれると思うの」
分かったわ、とやよいちゃんは言った。
私は制服の黒いコート——校則でコートは黒と決まっているのだ——に、両手をつっこんで、来週にせまっている劇のことを考えた。
そして、心のなかでカステルを呼んだ。その声は、明確な言葉にならないまま、吐く息と一緒に果てしない夜のなかへ、薄く混ざっていくようだった。
18と28のメランコリア 星 雪花 @antiarlo
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