第13話 オニキス


「どうしたの、それ」


 通し稽古が終わってから、カステルが言った。体育館の、肌寒い壇上で。私もカステルも、濃紺のジャージ姿だ。

 それ、というのは、やよいちゃんにもらったネックレスのことだった。金色の鎖の先に、小さな黒い石がついている。


 オニキスっていうのよ。

 やよいちゃんはそう言って、私にプレゼントしてくれた。「黒曜石が見つからなかったから、その代わりに」って。


「もらったの」


 この黒い石は、私よりカステルに似合うだろうと思った。夜の闇を溶かしたような黒。


「へえ、きれいだね」


 そう言って目を細めて笑う顔に見とれながら、息がつまるような、心苦しさにおそわれた。別々の大学。カステルのいない世界。今はこんなにも——触れられそうな場所にいるのに。


 カステルが本当に男の子だったら、きっと私も好きになってたな。


 オテルの言葉が浮かんだ。胸が焦げつくようだった。カステルが——カステルだから、好きになってしまったのだ。男とか、女とか、そんなこと関係なかった。


 ジョバンニも、カムパネルラに恋をしていたのかもしれない。だって、どこまでも一緒に行きたいと願う場面があるから。手を繋いで。どこまでもふたりきりで。宇宙の狭間をくぐって。

 体育館の奥にある丸時計が、六時付近を指している。



*


「やよいちゃん、大人になるってどんな感じ?」



 堤防沿いの草むらに並んで座ったまま、私は不意に尋ねた。朝、ばったりアパートの入り口で、やよいちゃんと会ったのだ。

 これからピクニックに行く、というやよいちゃんは、小さなかごのカバンを持って、暖かそうなダッフルコートを着ていた。

「私も行く」気づいたら、そう言っていた。


「そんなことしていいの? 受験生なのに」

「だって、どうせ自習だもの」


 そうして、今ここでこうしている。いつもなら一限目を受けている時間だ。いつもはしまっているオニキスのネックレスを、私は外に取りだした。


「べつに何も変わらないよ」


 やよいちゃんは、静かにそう言った。

 川原でキャッチボールをする男の子の叫び声。時折、川を渡る風の音。


 やよいちゃんは、持ってきた魔法瓶から熱い紅茶を注ぎ入れて渡してくれた。砂糖なしだから、ほんの少し苦くて、でもしっかりと温かい。

 飲むとかじかんでいた指先がじんわりとぬくんで、なんだか不思議な気持ちになった。


 さみしいようなかなしいような、うれしいような少しこわいような。


 やよいちゃんといるときの、ぼんやりする感じが好きだった。わざとではなくて、自然とそうなってしまう。自分の考えていることや、感じていることが、ふわふわと曖昧にかすんで、でもそれは決して嫌な感じではなかった。


「やよいちゃんはさ」


 話したいことや、聞いてほしいことがたくさんあるのに、うまく言うことができない。そう思うともどかしくて、一度ぎゅっと口をひき結んだ。やよいちゃんになら、話せる気がするのに。きっとどんなことでも。


「好きな人が他の誰かと付き合っていて、さみしくはない?」


「質問ばかりね」


 やよいちゃんは笑った。

 複雑に絡まっている糸を丁寧にほどいていくような、そんな笑い方だった。


「ポルトはカステルに恋人がいたらさみしい?」


 やよいちゃんは私に聞いた。

 質問することで、聞きたい答えを探りあてようとするみたいに。私は、しばらくのあいだ黙っていた。でも、知っていたのだ、本当は。そんなふうに考えるまでもなく。


「それでも私は、カステルを好きだと思う。一緒にいてほしいと思うし、でも同時に離れたくてたまらなくなる。たぶん、二人では行き先を決められなくて」


 やよいちゃんは私の言葉を聞き終えると、「ふうん」と言った。少しだけ楽しそうに。


 そして、「私もそのようなものかもね」と言った。

こわいくらい、とても静かな声で。



 私は紅茶のおかわりをもらった。お腹の底がじんわりと温まって、私はやよいちゃんの言葉を反芻した。


「ポルトはカステルの前には、誰が好きだったの?」


 やよいちゃんは、そんなことを質問した。

 私は昔のことを思いだした。高校に入る前。中学生や、小学生の頃。何人かの顔が思い浮かんだけれど、それを言っても何にもならない気がした。もう遠くへ行ってしまった人たち。


「内緒」


 仕方なく、私はそう言った。


「どうして?」


 面白そうに、やよいちゃんが聞く。


「だって、何の役にも立たないもの」


 そう言うと、やよいちゃんはなぜか納得した様子で、


「それもそうね」と請けあった。

 同じ質問をやよいちゃんにしてみようかと、思ってやめた。結局それも役に立たないから。


「せっかくだから、映画でも見に行く?」


 魔法瓶をカゴに入れて、やよいちゃんが提案する。

 川原でキャッチボールをしている人たちは、もういなくなっていた。私はオニキスを胸元にしまって立ち上がった。

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