第10話 静けさ
テニスコート。ボールを打ち合う音。下駄箱から出てくる、二人連れの女の子。鈍色をした細長い雲。自転車で通り抜けていくジャージ姿の男の子たち。
「あれ、ポルトがいる」
ドアの開く音。
窓の外を見ていた私はふりむいた。少しだけ驚いた表情のポタンと目が合う。
「今日は部活休みなのに、どうしたの」
ポタンは善良そのものだ。だからつい、気をゆるしてしまう。
「カステルを待ってるの。一緒に帰る約束してて」
教室は男子が騒いでいて居づらかった。
部室のなかは、漫画やお菓子も置いてあるし、窓の外を——いくらでも、眺めていられるのがよかった。
「へえ、仲良いね。前から思ってたけど」
「ポタンはどうしたの?」
なんとなく聞いただけだけど、私の声は少し唐突に響いた。ポタンは気にする風もなく、
「脚本忘れちゃって」
そう言うと、並んでいる机からひとつの冊子を手に取った。
「明日取りに来ればいいんだけど、落ちつかないんだよね、手元にないと。あってよかった」
私はしばらくポタンを見守った。
もう一度目が合う。部屋の静けさが急に一瞬、近く感じられた。
「カステルによろしくね」
そう言ってポタンは部室から出ていった。風が吹き込んで、不規則にカーテンが揺れる。揺れがおさまると、途端に静かになった。その静けさは、さっきまで部屋を満たしていたものとは違う種類のもののような気がする。
私は椅子を一脚、窓辺に持っていって腰かけた。
もう一度ドアが開くまでのあいだ、少し眠たいような気持ちでぼうっとした。
*
やよいちゃんが結婚していることを知ったのは、つい最近のことだ。ある日、スーパーから帰ってきたやよいちゃんは、左手の薬指に、金色の細い指輪をつけていた。
「結婚指輪みたい」
と私は言った。冗談を言うつもりで。
やよいちゃんはほほ笑んで、
「だって、結婚指輪だもの」
と言った。
そういえば今までも、スーパーに行った帰り、やよいちゃんはその指輪をしていた。それはあまりにも自然に彼女の指になじんでいて、体の一部のように違和感がなかった。それを見たことがあるにも関わらず、私はやよいちゃんを独身だと思い込んでいたのだ。
アパートに着くといつのまにか、指輪は外されていた。いつもいつも。まるで、この場所にはふさわしくないというように。
「妻っていう顔をして、スーパーにいること」が大切なのだと、やよいちゃんは言った。その方が自分自身をちゃんと見せられるから、と。
「
そのとき私は物事を呑み込めずにいて、うっかりそんな風に言ってしまった。言った瞬間、後悔した。とても意地悪な質問に思えたから。
やよいちゃんは少しだけ考えてから、
「スーパーにいる、他の人々に対して」
と言った。
静かな声。やよいちゃんの発する言葉の静けさは、なんとなく私の心をしんとさせる。それはどちらかというと、悪くない気持ちだ。波打っている水面が、一時的におだやかになるような。
「旦那さんとは会わないの?」
何を聞いても大丈夫な気がして、つい私は口にした。
「まあね」
やよいちゃんは、ちょっとだけ笑って言った。こういうの、苦笑いって言うのかもしれない。そう思いながら、私はどんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「物事は流転していくのよ。ポルトにはまだ分からないかもしれないけれど」
分かるよ。
そう思ったけれど、口に出さなかった。やよいちゃんはときどき、私をわざと子供扱いするのだ。
単身赴任という言葉を実際に聞いたのも、このときが初めてだった。結婚すること、離れて暮らすこと、友達の彼氏という存在。まだ私の知らない、たくさんの物事。
やよいちゃんと出会ってから、もうすぐ三年の月日が経つ。
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