第3話 アパート


 その日の夕方、久しぶりにやよいちゃんに会った。アパートの前の、駐車場のわきで。やよいちゃんは、スーパーから帰ってきたところみたいだった。私を見るなり、


「久しぶり。くーちゃん」と言うから、


「今はもう『くーちゃん』じゃないよ」


 と、自転車から降りて私は言った。やよいちゃんも、私をそのときの役名で呼ぶのだ。『くーちゃん』は前の劇で演じた役で、「手違いで人間になってしまった子犬」という設定だった。


「今は、ポルトっていうの」


 私が言うと、やよいちゃんは、


「ふうん」


 とつぶやいてから、「あがってく?」と誘ってくれた。断る理由なんてどこにもない。


 やよいちゃんはアパートの隣に住んでいて、高校に入ってからの付き合いだ。黒髪がサラサラしていて、きれいで、事務の仕事——たぶん医療系の——をしていて、今年で二十八歳。

 (いつか置いてあったパスポートを見て確かめたから、間違いない)


 仕事のほかにアクセサリーを手作りしていて、去年の誕生日には贈り物をもらった。淡水パールで作られたブレスレット。


 私とやよいちゃんは、文通友達でもある。やよいちゃん曰く、切手のいらない文通。

 (書いたら隣のポストに入れるだけだもの)


 やよいちゃんの手紙は封筒が手作りで、マスキングテープでとめてあったり、ろうそくのシーリングワックスがしてあったりする。なかなか見られない外国の切手が貼ってあることもあって、かっこいい。便箋は罫線のついたシンプルなものだ。

 指されないライティングの授業や、現代文の授業中、私はこっそりやよいちゃんへ手紙を書く。やよいちゃんのとは違う、子供じみたレターセットで。


「ピース」


 炬燵のなかに落ちついて、ふと目にとまった文字を読んだ。黄土色のパッケージ。


「読めるんだね。英語なのに」


 やよいちゃんは、ときどきわざと子供扱いするのだ。炬燵のなかは暖かで、やよいちゃんの匂いがする。小さな白い花みたいな香り。


「やよいちゃんの?」


 Peaceと書かれたケースには、まだ数本煙草が入っている。


「まさか。友達の彼氏の」


「友達の彼氏って、やよいちゃんが好きだったっていう人?」


 横の面に、タール21mg、と書かれている。


「今でも好きだよ」


 と、やよいちゃんが言う。


 うまく表現できないけれど、私とやよいちゃんは似ているところがあって、それは「好きな人を所有したいと思わない」ところ。そばで眺めていられたら、満足するような気持ち。暗い部屋で、ゆらゆら燃える小さな炎を、いつまでも見飽きないように。


「私も、好きな人いる」


 誰にも明かさないことを、私はやよいちゃんに言う。


「知ってるよ。ライアンでしょ」


 やよいちゃんは、前の劇の役名をちゃんと覚えている。 以前、「すごい記憶力だね」ってほめたら、「日常で覚えなきゃいけないことがあまりないから」って言って、私は羨ましくなった。私の日常は、覚えることばかりだから。


 私は机の上の、ピースの箱に触れてみた。カサ、と指先が乾いた音をたてた。


「今は、カステルっていうの」


 やよいちゃんは「ふうん」と言って、「いい名前だね。ポルトもカステルも」とつけ加えた。



 それから、スーパーで買ってきたロールケーキを、やよいちゃんとふたりで食べた。私は牛乳で。やよいちゃんは濃く淹れたコーヒーに、クリープと砂糖を入れて。

 ここにいると、自分が高校生なんて、嘘みたいな気持ちになる。もっと小さな女の子になったような。あるいは、もっと大人になったような。


 やよいちゃんは今週末、友達と、友達の彼氏と、その友達と、四人でドライブに行くのだという。レースのカーテンの隙間から、白々と、お椀のような月が見えた。


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