海まで9300メートル

綿引つぐみ

海まで9300メートル


    その一 


 目が覚めて気づく。

 短歌を作っていない。高校のとき以来毎日寝る前に、日記がわりに短歌を一首作っている。それを昨夜は作っていない。失望したのは一瞬でおれはすぐ強い解放感に満たされる。六千九百九十六首。何のためにこんなに作ったのだろう。ふざけてる。本当にふざけてるとしか思えない。枕元にある時計を見るとまだ二十三時前だ。今日は終わっていない。寝る前にという縛りに目を瞑れば今からでも継続は可能だ。でもおれにはそんな気はすでに全くない。意味のないことを終える、そのやっと巡ってきたチャンスだ。

 しかし何故だろう。二十年も毎日欠かさず行ってきた習慣が、昨夜に限ってかけらも思い出さずに眠ってしまうなんて。あり得ないことだ。ぼんやりと疑問を転がしながらおれはきしきしという音とともにベッドから起き上がる。シャツとパンツを脱ぎ捨て、正面にあるテレビのブラウン管に映る自分の裸を眺めながら浴室にむかう。バスタブに向けて熱いシャワーを降らせると、おれはその中に蹲る。体を覆い伝って湯が溜まってゆく。少しずつ。踝が浸るころに体を洗い始め、洗い終わったころには水位は胸にまで達している。おれは愛情には恵まれて育ってきたが、それでもその欠乏を常に感じている子供のように、狭い場所や体を絞めつけられる感覚に対する愛着を捨て切れない。湯は幸福な重さを伴っておれの皮膚を圧迫する。バスタブは洗濯機の中の洗濯物のやすらぎを再現している。そのまま歯を磨き、さっと体を濯ぐとおれは液体の世界からさむざむとした気体の世界へと戻る。

 浴室を出るとちょうど日付の変わるころだった。日によって部屋の広さの感じ方は変わるが、今日はとても狭い。距離というものの概念が全く失われてしまっているかと思うほどだ。すべてのものが距離を失い、等しく手の届く範囲にある。その畳も敷かれてない六畳間をそれでも五歩を使って横断し、開けっ放しの押入れの前まで来ると積み重ねられた衣装ケースのその一つを開ける。中にはパンツがぎっしりと詰まっている。おれは裸のままそれを見つめる。仕事をしていたときはその帰り道に、疲れていればいるほど早く帰りたいにもかかわらずコンビニに無目的に入ってしまう。それで何も買うものがないと、パンツを買う。だからトランクスやブリーフがボクサータイプにビキニと、とりどりにここに詰め込まれている。二三百はある。十年以上前に買って一度も穿いていないものもある。見つめているうちになんだこれはと思った。

 蠢いている。寄生する体を求めて鎮まらない未知の異様な生き物のようだ。寄居虫の殻のほうが実は本体であるように。おれは普段こいつらに乗っ取られている。彼らのざわめきは、最初は獲物が近づいて来たことによる期待感に満ちていたが、眺めているうちに、不穏を感じ取ってその色合いを変化させてゆく。警戒。警戒。

 すうっ。と並んだパンツの表面を撫でるように手を翳すと。おとなしくなった。

 この中をいくら探しても、きっと穿きたいパンツは見つからないだろう。

部屋の空気は空虚で頼りなく、生温いようでも冷たいようでもある。変わり切らない季節の、九月の夏の名残におれのちんぽは晒されている。おれはパンツの入った衣装ケースを抜き出すと部屋の真ん中にそれを置いた。ドスン、と大きな音をさせてベッドに腰を下ろす。そこにあったさっき脱いだやつもケースの上に投げ置く。

 穿きたいパンツがなくなった。

 家賃三万六千円のアパートの一室で、おれは突然パンツを無くしてしまう。低く唸り続けていた冷蔵庫がここん、といって唸るのをやめる。目の前にパンツの山がある。山のむこうには本棚があり、本棚には文庫本ばかりが無造作に詰め込まれて、そのほとんどが十年以上の昔に読んだものだ。背表紙は射し込む西日に焼け爛れている。

 おれは思った。このパンツを全部捨てたい。

 一度思ってしまうともうそれはおれではない。さっきまでパンツは確かにおれの一部だった。彼我の別なく一体だった。それが今では全くのよそよそしい異物だ。

 そうして見回してみると部屋の中は他にも捨ててしまいたいものばかりだ。その感覚はパンツを中心にどんどんどんどん広がってゆく。それらのものはみんなおれに寄生してここに存在している。おれがいなくなればもうここにはいられない。そしてそのほうがいい気がする。

 部屋を出よう。唐突にそう思う。即座に決意した。家出する。

 いちいち捨てるよりもおれが出ていったほうが早い。確実だ。おれはすぐさま立ち上がる。

 部屋にあるものは何も持って行きたくない。おれは素裸で玄関を出ようとしたが、やはり思い直す。靴だけは履いて行く。履き慣れたいつものジョギングシューズの紐を結ぶとおれは部屋を出る。部屋の時計の長針は十二時を数ミリ過ぎている。


    その二 


 甲高い薄っぺらな音を立てて階段を下りるとひとりの男がそこに立っている。ここの一階に住んでいるどこかの国の外国人だ。おれにとって外国人は外国人だ。どこから来た人間か見た目ではさっぱり分からない。ただ、中国や朝鮮半島ではない。一般的な東アジア人とは明らかに違う。もっとも大陸や半島にどんな少数民族が住んでいるかだっておれはろくに知らないが。浅黒い肌に眼窩の窪んだ凹凸のはっきりした顔。金色がかった眉。虹彩は淡褐色で、様々な特徴が混じり合いそれは近い過去に繰り返された混血の表れだろう。そんな出会いのある世界のどこかの生まれか。でもそんな国はそこらじゅうにある。

 アパートの前の一方通行の道路の上手を見つめて、こんな真夜中に男は何かを待っている様子だ。

「あんたパンツはいてないぞ」

 後ろを通り過ぎようとするとその男が日本語で声をかけてくる。ちょくちょく顔を合わせてはいたが、男の声を聴くのはこれが初めてだ。

「どこにいく?」

「東だ」

「みなとか? 港ならおれも行く。いっしょに車に乗ればいい」

 おれは少し立ち止まる。

「いや。おれは歩くんだ。どこかに着いても意味がない」

 痩せて長身の、百九十以上はあるだろうその髭面の男は、口調は軽いが眼差しは深く、おれのちんぽをじっと見つめて頷いた。

「そうか」

 男は昼間働いている近くの干いも屋の作業服を着ている。

「ならいい。あんたはあんたの道を行け」


 おれは裸のまま東へ向かう。このまちに住む人間を目的もなく歩かせたら、大体みんな東へ向かうだろう。光に集まる虫のように。東はこのまちの表だ。箱の、蓋のある面。その方向が東だ。どのまちにも表の方角というのがある。その感じはその場所に住んでいる人間なら誰でも知っているものだ。このまちの場合それは東で、他の方向はすべて固く閉ざされている。

 どこまで行けるだろう。東には海がある。ここから海までは一〇キロメートル弱。夜明けまで五時間。


    その三 


 暗がりの後にまた暗がり、間遠に照らす街灯の合間に暗がりが並んでいる。近所のこのあたりは最近になって空家になっていた借家やアパートが取り壊されて、町並には隙間が目立つ。何もない場所というのはさみしい。さみしくて笑える。

しばらく歩くとパチスロ店がある。こじんまりとした地味な店舗だ。ネオンも控えめで、ちっちゃな電光板はすでに消えている。しかし真夜中の店内には明かりがついて、敷地奥の景品交換所脇の出入口前には灰色のワゴンが停まっている。道路から三十メートルぐらい離れたその車の助手席から男が「おーい」と呼びかけてくる。

「あんちゃん着る服もないのか。仕事あるぞ」

 清掃員を乗せたワゴンだ。夜の間に何箇所も現場を巡るのだ。屋根には街宣用のスピーカーが載っている。ボディはべったりとフィルムシートで覆われてその下に書かれた文字を隠している。昼間の、何か他の仕事との兼用車なのだろう。

 この街には浮浪者はいない。車なしでは住めないからだ。日雇いでも仕事には住居が付いてくる。浮浪する自由はゆるされていない。

「一晩五時間三千円」

 おそらく監督だと思われる男のその声に、手の甲を見せておれは右手を振る。一日一食付き三千円。三十日で九万円。生活するには十分じゃないか。店内には黒い影が動いていた。だが今のおれには関係ない。

 パチスロ店を過ぎると大通りだ。おれはその大通りをヘッドライトに照らされながら横切り、ひたすら東へと真っ直ぐに進む。


    その四 


 深夜のコンビニには少年少女しかいない。雑誌売り場の、その中の一人が仲間にばいばいをして駆け足でドアを出るとおれを追いかけてくる。

「おじさんなにしてんの?」

 パジャマ姿の子どもだ。

「家出」

 その子は早足で歩くおれの横をついて来る。

「わかる」

「分かる?」

「わかるよ」

 パジャマには沢山の水母が浮かんでいる。水母の名前は知らない。けどやたらリアルに細密に描かれているので、それは実在する何かなのだろう。くしゃくしゃの薄いぴんくのコットンの海に、ふわふわとそれは漂っている。

「家はいらないよ。だって何にもかこまれてない、はだかにちかいひとほど自分はしあわせだっていうもの」

 誰のことか、何のことか。確信に満ちた口ぶりで、彼女は前を向く。

 幾つか、と訊くと「ちうさん」と答える。

 どこまでついて来るのだろう。そう思い顔をのぞくと、その子もおれを見上げている。

「ねえ。蚊に刺されない?」

 言って彼女は虫よけスプレーをポケットから出す。

「これいつも持ってんの。あげるよ。がんばって」

 おれに一体何を頑張って欲しいのか。渡された缶は彼女の温度を伝えずに冷たく、互いの現実を隔てている。

「わたしこっち方面だから」

 終始笑顔で、こころとか精神とか、そんなものがなんて若いんだろうと思う。きっと彼女の認識する世界はまだまだ不定形で、甘い匂いを放っているのだ。その世界のひとつの現実として、今彼女の中にいるおれなのだ。

「あの、ムービー撮っていいですか?」

 初めて敬語で言い、それから角を三つほど行くとポケットから携帯を出して、サイトに上げるんだとおれの後姿を撮っていたが、しばらくして振り返るとその子の影は四丁目の闇に消えている。

 全身に虫よけスプレーを吹きかけて、おれは再び歩き出す。


    その五 


 おれの前をネクタイの男が歩いている。こんな時間に仕事帰りだろうか。駅からはもうかなり離れている。歩いて来るには大変な距離だ。

 駅から続く大通りはすでに静まっている。車も疎らで人は全く通らない。気だるく歩く男を追い抜いて、その瞬間に肩を掴まれた。

 振り向くと聞いてくれ、と男は言う。あなたには話さなければならない。あなたなら聞いてくれるだろう。とても穏やかな表情をしながら、掴む力は強力だ。男は何人もの人間に話をしようとして断られ続けているのだろう。その力強さにそう思う。

 今度はおれの手首を掴み、掴んだままネクタイ男は話し始める。影の薄い、きっちりと締められたそのネクタイを外すとそのまま消えてしまいそうな男だ。

 明らかに乗り気ではないおれの様子などお構いなしに、男が始めたのは夢の話だ。

 男は悪夢を見る。毎晩四十分しか眠れないのにその眠りの中で夢を見るという。そこでは男は小さな部屋の中にいる。ベッドがひとつ。窓がひとつ。円形の白壁に囲まれた、塔の中のような場所。望めば必要に応じて部屋は変わる。トイレが現れ、浴槽が現れる。食卓も現れる。が食べ物はない。食べたいと思わないからだろう。花に囲まれ本に埋もれる。その部屋にこれは自分の意思ではなく、時折ドアが現れる。そして老人がドアを開けて部屋に入ってくるのだ。

 ゆめがあふれているな。溢れ出ているよ。

 そう言う姿は百歳過ぎの老人だが声は脂ぎっている。

 眠らないからだ。眠らないからゆめが行き場をなくしている。ここにあるものは全ておまえのゆめなのだ。ゆめの産物だ。どれ。おいらが買ってやるよ。あふれたおまえのゆめを。金と交換だ。贅沢言っちゃいけない。おまえに選択肢はないぞ。食べ物は駄目だ。銀や金剛も駄目だ。金だ。金と交換だ。

 ネクタイ男は夢の中で老人に夢を売る。すると右の小指に肉の中から金の指環が浮き出してきてぴたりと嵌まる。そうして夢を売っているうちにネクタイ男の両の手の指は金環でいっぱいになる。なお首に手足にと金環は殖えてゆく。

 もう嵌める場所もなくなり、体が重くて男はベッドから動けない。やがて老人は来なくなる。それでも夢は溢れ出る。溢れ出る夢を使って男は母親と父親を作った。まだまだ夢は有り余る。部屋は母と父が巣作りをするように自ら模様替えを始めている。なので部屋の外の世界をつくった。何もなかった場所に森が生まれ川が出来る。太陽はその上を廻り、夜から昼へと風を吹かせる。ベッドから動けない男には見えはしないが感じる。たしかにそれは作られたと。男は街を作りその細部を凝らした。来る日もくるひも。思いつくままに。やがて母親が身籠った。

 そしてその世界に、わたしは産まれて来たんだ。自分が作った母と父から。ネクタイ男は言う。この世界はわたしが創ったと。

 おれは黙って聞いていた。金環の中に沈む男の姿を少し想像した。

 話すうちに男の手は冷えていた。掴まれた手首は火傷したようだ。

 放してくれ。

 男は微笑み、おれの右手を解放した。


 おれは歩き出す。しかし相変わらず男はきっと、眠れない。


    その六 


 住宅街をゆくと誰かがおれを見ている。二階の窓だ。

 数秒歩むうちに、女が玄関からおれのすぐ後ろへと飛び出してくる。

 ねえ。

 おれは振り返る。

 ちょっとせっくすしない?

 若くも老けてもいない女だ。美しくも醜くもない顔でそう言う。

 それそれ。それを使うのよ。

 女は期待に満ちた笑顔でおれの下半身を指差す。

 悪いけど全くそんな状態にはならない。

 女はおれの言葉を聞いてのことか、前に回り込んでちんぽを手に取り玩ぶ。構わずおれは歩き出す。

 しばらく女はそれを握ったままついてきた。

 急いでんなら五分十分だっていいんだから。

 おれは女の様子を見ながら思う。きっとこの女は子どもが欲しいんだろう。だから欲情している。きっかけがあれば欲情する。相手は誰でもいい。わたしを孕ませてくれれば。もちろん自分ではそんな思いに気づいていないだろうが。

 今日いまでなければ、おれだってその女とまぐわうことに躊躇いはない。おれも自分では気づいてないが確かに子どもが欲しいのだ。

走り出すと、それから女の手が離れた。なおも追いかけて来ようとして女はすぐに足を止める。

 残念なおちんちんだわ。

 呟きが聞こえる。女は心から名残惜しそうだ。

 走る。


    その七 


 おまえか。

 おれじゃない。

 おれは即座に答える。囁きのようだが、呼びかけた男の声には条件反射を呼び起こす非常性がある。それにつられた。通りかかったY神社の境内に、その大きな楠の下に男は座り込んでいる。上下くたびれたジャージ姿の、おれと同じくらいの年恰好の男だ。

 おまえだろう。

 本気だろうか。男の表情は動かない。声だけがひどく切実さを含んでいて、まるで男の体の内部にいる誰か別の人間が話しているようだ。

 おれのはずがない。

 そう思う。何のことか分からないがおれじゃない。それは確信を持って言える。

 ここで、おまえは、娘を、殺した。十五の、わたしの娘だ。恋人がいた。七年前。

 おまえだろう。

 おれじゃない。

 そういえばそんな事件はこのまちで、確かにあったかもしれない。未解決の変死事件。

 娘は死んだ。白い、裸体。おれが見つけた。凍死。酒を飲ませて。

 おまえはなぜ助けを呼ばなかった。

 おれじゃない。

 救急車を呼んでいれば。娘は。おれは。

 おまえは。

 呟きは低く、途切れ途切れで、断片的にしかおれの耳に届かない。しばらくの間おれはそれを聞いていた。

 男は娘を殺された。聞いているうちに思った。

 あるいは殺したのは彼なのかもしれない。


 Y神社から、市役所の周囲の真っ暗な道を通り抜け、坂道を下る。一段高い岡の上に建っているにもかかわらず、たとえ昼に来てもここはいつも暗い。

 走る。


    その八 


 市営グラウンドを斜めに横切る。公園入り口からグラウンドに入ろうとすると、トイレの前に女が蹲っている。ああ。彼女だ。このあたりに泣き女が出るという。有名な噂だ。ずっと泣いている。年老いた女だ。

 赤ん坊にお乳をやりたい。やりたい。

 近づくと、老婆の泣き声はそんなように聞こえる。

おれは何度も見たことがある。こんなにして泣いている女を。どこでだかは憶えてないが。

 野球、サッカー兼用のグラウンドのゴールポストを過ぎ、野球の三塁側ベンチに差し掛かると男がひとりそこに座っていた。老人だ。

 死ぬのか。死にに行くのか?

 老人はおれに訊く。

 俺も独りだ。たったひとりだ。

 闇に溶け込んで表情は窺えない。老人は両手で杖をついて前屈みに体重をあずけている。おれはずっと同じペースで走り続ける。

 あれは幽霊だ。あの女は幽霊だ。

 老人は言い聞かせるような口調で呟く。普段知らない人間に声をかけられることはほとんどない。おれはそんなタイプの人間ではない。しかし今日は誰もがおれを呼び止める。

 年老いた幽霊の女と、骸のような老人。

 グラウンドの砂は乾いていた。おれは一言も喋らず、そのフラットな地面を走り抜ける。


    その九 


 動物園跡を過ぎる。あたりは一面の芋畑だ。そこにぽつりと門柱が立っている。上部は折れ、高さは土台部分の一メートルほどしか残っていない。そこにM渡動物園としるされている。殺人犯などの罪人と動物を一緒に展示した、見世物小屋のようなものだったとかつて曾祖母が言っていたのを思い出す。

 芋畑を抜けると旧い道があり、おれはその道沿いに進む。今とは建築尺度の違う木造の背の低い家々が並び、なめらかに曲がりくねる道は、八十年ほど前まではこのまちの中心だった。江戸のころはさらに海沿いに街道はあり、時代が下るとともに、水辺を離れてまちの中心は内陸へ内陸へと移ってゆく。

 この街道沿いに、夕暮なるみの死んだ場所がある。


 なるみは高校のクラスメートだった。免許を取ったその日に事故を起こして死んだ。信号を見落としやすい交差点で。抜け道として進入してきたトラックに、なるみの車は突っ込んだ。車は回転しながら電柱にぶつかり止った。

 助手席のおれは無傷だった。運転席を見るとなるみも無傷に思えた。血を流している様子もなくどこにも怪我は見つからない。おれはなるみの名を呼んだ。だが答えはなく、その時すでに息は止まっていた。無傷の体を残して。

 死んだ。

 そう思ったとたんに今までに見たなるみの裸のさまざまな姿態が、脳の内を駆け巡り埋め尽くす。容姿も性格も、これといった特徴のない、この先どんな状況に身を置くことになっても、その他大勢であり続けるような女だった。そんな変哲のなさが、抱くときにはとても心地良く感じた。なるみもおれに同じような心地良さを感じていたのだと思う。おれはドアを開けて外に出ようとしたが開かなかった。救急車が来るまで、おれは隣で彼女の生きている肉体を想い続けていた。

 その前も後も何度も信号は付け替えられているが、どのように位置を変えてもやはり事故は起こる。交差点には通るたびに花が添えられている。

 その、交差点に差しかかる手前で、おれは道を逸れた。海にはこっちが近い。


 国道に出る。海に辿り着くまでにある唯一の国道だ。民家のほとんどない土地を北にある工場群まで南北に続いている。

 荒んだ道路だ。渡るのにものすごい抵抗感がある。誰にも愛されていない感じがする。交通量は少ないが時々大型のダンプカーが群れを成して通り抜ける。その風圧に、たくさんの交通事故者の魂のうちの幾つかは巻き込まれ引き摺られてゆくだろう。同じように道を渡るおれのどこかの部分も引き千切られて持っていかれそうになる。


    その十 


 光が、後ろから近づいてくる。

「今朝はやたらパトカーが多いと思ったら、もしかしたらあんたのせいか」

 おれは歩を緩める。

「さあ。どうだろう」

 釣り道具を積んだ自転車だ。ルアー竿、サビキこませ、遠投用のリール。釣り方、魚種を問わずさまざまなタックルが雑然と積み込まれている。自転車には若い男が乗っている。

「こんな時間このあたりにいるのは釣り人だけだと思うが──」

 自転車のライトはほとんど消えながら左右に揺れている。

「──あんたは釣りはしないのか」

「する」

 おれは短く答える。

「竿は?」

「今じゃない」

 倒れないように蛇行しながらスピードを落としている自転車に、今度はおれが問いかける。

「仕事は、休みなのか?」

 自転車はとうとう地面に足をつく。

「今日は日曜だぞ」

 そうか日曜か。曜日がすっかり分からなくなっている。重いギアのままふたたび走り出す自転車は、自らをよく理解していて力強い。

 車輪はおれのまわりに大きく一周円を描き、その間に自らに力を蓄える。

「じゃあな、お先に。おれは日の出前に立ち入り禁止区域に潜り込まなくちゃならない。秘密の抜け道があるんだ」

 近くの巨大な商業港は大部分が立ち入り禁止だ。このあたりの釣り人はみなそこにアタックを掛ける。

今度会ったら教えるよ。最後は声を張りながら自転車はスピードを上げて去ってゆく。


    その十一 


 空を見上げると海浜公園の大きな観覧車が徐々に姿を現し始めている。

 陽はまだ上がらない。上がったとしても空はどんよりと曇っていて日が射すことはない。しかしもうすぐに明るくなる。

 海が見える。出来たばかりの新しい道路。片側二車線の道を車はまったく通らない。その坂道を下る。人の歩く部分をはみ出して車道のアスファルトの上を走る。

 このまちで海岸に出ようと思ったら、どの道を通ろうが、最後には必ず相当な勾配の坂道を下ることになる。ここは遥かに市街地から続いている平坦な土地が、海岸のその直前でもっとも急激に海へと雪崩れ落ちる場所だ。


 はあはあ、と息遣いがする。

 犬だ。

 いつの間にか一匹の犬が隣を走っている。青灰色の痩せた犬だ。ところどころ毛が撥ねている。海岸沿いの砂丘には野良犬が多い。

 砂丘の犬たちは群れで行動している。人を怖れないが懐かない。何を糧にして生き延びているのか分からないが、時折は展望台や釣り場の駐車場などにも姿を現す。砂丘とその先の松林には兎も多いので主食はそれかもしれない。

 昔、家で飼っていた犬は風の強い日にか細い声で鳴いていた。雨が降ると外出を嫌がった。ひどく神経質で犬とはそういうものだと思っていた。しかしあれは甘えだったのだ。人間との付き合いで培われた、人間にしか見せない犬の性質だ。いま横を走っている彼にはそんな弱さは少しもない。おそらくあの犬も、独りになればこのような目つきをしたのだろう。

 互いに媚びも阿りもせず、おれたちは今この時だけの群れとしてある。


    その十二 


 坂を下り切るとそこはAヶ浦海水浴場だ。日の出の時刻は、もう過ぎたころかもしれない。

 海岸沿いの道は砂の中を延びて周囲にはなにもない。八月までは臨時の駐車場だった場所だが、今は駐車場でなくなり、また来年の夏までそこは何もない空地のままだ。その空き地の、大量の砂を踏み越えておれは海へ下る。

 砂に覆われた景色を見ながら、おれは砂丘の中の旅館のことを思い出す。たぶん七つのころだった。どの道をどういったのか、海へはよく連れられて行っていたので道は大体覚えていたはずなのだが、その時のルートは日暮れていたせいもあり全く思い出せない。とにかく海へ着くとあたりは海岸線まで数百メートルはある砂丘で、一本の道があり、遠くに二階屋の建てたばかりと思われるほんとうに小さな旅館があるのだ。そこで父か母の同窓会が開かれおれたち兄妹三人も連れて行かれたのだ。

 あれは何処だったのか。合理に基づいて考えれば、あんな立地の旅館などあるはずがない。

 解決のつかない子供時代の記憶というのは幾つかあり、あの旅館もそのうちの一つだ。

 あのころの父は車で港に行くたびに、このまま海に飛び込んでしまおうかと言って、実際に車止めに乗り上げるまでエンジンを噴かして飛び込む真似をしてみせた。そんなふうに、実際に死ぬ気などなくて、真似しそこなって本当に死んでしまった一家心中の家族も、きっと世の中にはたくさんいるに違いない。

 おれは砂浜に座り込んだ。喉が渇いている。座ってみると足が疲れているのに気づくが、さほどでもない。服を着ていないとこんなにも疲れ方が違うのだ。どんなに軽くても、服はやはり鎧なのだ。

 遠くで犬が吠え、振り返ると坂の上からパトカーが下りて来ている。サイレンは鳴らさず、赤色の灯りだけを点している。

 おれは立ち上がり、靴を脱ぐと波打ち際にそろえて置き、海の中へと歩き出す。

 海の中は夏だ。水はとても熱く疑いようのない夏がまだ続いている。白波をかき分け、おれは沖へとむかう。他の何にも譬えようのない懐かしい音をさせて、波の沫が生まれてはすぐに消えてゆく。海の、適度な粘度が呼び起こす不思議な音。この世の中でおれの一番好きな音はこれかもしれない。

 潜水を繰り返しながら波の向こう側へ抜けると、目の前に一隻のクルーザーがあった。船の上には女が立っている。

「待ってたわ」

 女は待っていた。何を。

「乗って」


    その十三 


 何者かも分からない女に手を引かれ、上がってみるとそこはかなり大きな船だ。ゆっくりと潮に流されている。

 女は娘とふたりでこの船で暮しているという。

「あたしたちは陸にはもどらない。この船は出国してるから」

 どこにも向かわず漂うの。と女はひたすら楽しそうに、笑みを浮かべながら饒舌だ。

「この子の父親に貰ったのよ、この船」

 女は喋る。

「あいつはあたしをレイプしたのよ、この船で。その償い」

 凪の朝の中に、身の上を語る女がいた。

「風は止んでいたわ」

「十七だった」

「頭の悪いおとこ」

「あの男には女を、他人を理解できない」

「海がきれいで」

「真っ白の水着を」

「何も知らないかわいいあたし」

「その腕が」

「そして時間が流れない」

「死んでやろうと思ったけど助けられてしまった」

「死ねばいい」

「ほんとは殺すべきだった」

 女の言葉はまだまだ続いた。おれが聞いていたのは、女の発する言葉のだいたい一割か二割くらいだ。

「だからあの子はここで生きる運命なのよ」

 唐突に、結論めいたことを言って女の台詞はいったん途切れる。

 飛魚が水面を切った。十数匹が船の横を飛んで行く。何かに追われている。

「さっきあなたの動画を見たわ」

 饒舌な女はおれを見つめる。仲間を。新しい物語を見つけた。おれは恐らくそう思われている。視線が息苦しい。

「何か着るものを持ってくるわ」

 それは、いつまでもここにいていいのよ。そう言っているように聞こえた。言って女はどこかに行ってしまう。

 デッキに釣り道具が置かれている。おれはそこを物色して見つけ出した鋏で髪を切る。出来るだけ短く。濡れた髪が目にかかり、これはいらないと思ったのだ。

 船べりに座って鋏を使っていると足音が近づく。

 饒舌女の幼い娘だ。子供の年齢は全く分からない。生まれて四年ほどだろうか。

「ぱぱ。これあけて」

 コンデンスミルクの缶だ。誰にでもぱぱと言う娘なのだ。鋏じゃ開けられない。そう心の中で返す。

「ぱぱ、だっこ」

 彼女は缶を置くと両の手を、べとべとの指をパーの形に開いて突き出す。見ると缶にはすでに小さな穴が空いていて、中身が流れ出している。おれは突き出されたその左手を、五本の指をまとめて掴む。少女の顔は表情が乏しい。焦点の揺らぐその目にはまだおれの手と自分の手の区別も、本当はついていないのかもしれない。ぐいと引き寄せると、おれはそのまま彼女の指のコンデンスミルクの跡形を舐め取る。ミルク臭い。女の子どもの匂いだ。

 その匂いに、ふとこの娘はおれの子かと思う。おれはさっき口説いてきた女を抱いたんだっけ? そして生まれたのがこの子で、この子はやがてコンビニで出会ったあの中学生になるんだろう。そしてY神社で殺される。

 愛おしさと嫌悪感が妄想の中で行き来する。やがてそれは嫌悪が愛おしさを飲み込むことで決着し、おれの目の前には怖ろしいモンスターがいた。

 なおも伸びてくるべとべとの右手を避けながら、おれはそのまま後ろ向きにゆっくりと海へ落ちてゆく。


    その十四 


 潮子の群れが空を渡っている。空を映す水面は海を覆う蓋のようだ。それがゆっくりと遠離ってゆく。かもめの声が聞こえる。水の中でも音は聞こえたろうか。呼吸が楽だ。いつどんな時でもこんなに楽だったことはない。やがて沈降は止み、体は少しずつ浮き始める。目の前に空が迫り、おれは腕を伸ばして触れる。押しあける。

 海面から顔を出すとすでにあの船は見失っている。


 エンジン音がして遠くから小さなボートが近づいてくる。

「あんた海パンはいてないな」

 淡褐色の眸の干しいも屋だ。

「泳ぎたかったのか?」

 他にも数人の男たちが乗ってボートは満杯だ。

「おれたちはこれから国に帰る。国で革命が起こった。沖で船が待っている」

 不法滞在だったのか、密出国するらしい。

「あんたも来るか? 南へ」

 いや。とおれは首を振る。

「そうか。じゃあな。おれたちはおれたちの道を行く」


 ここは東。とりあえずの果て。開かれた蓋。どこかへと続く通路。違う。まだ他に何かある気がした。ひたすらに泳ぐ。温かな水。あふれる水だけがここにある。手に、足に重い。おれの体をしっかりとつかまえて。

 海岸から三キロほど離れたろうか。不意に足がついた。瀬だ。そのまま歩みを進めるとへその辺りまで海面に出る。振り返ると陸の高圧電線が波打っている。地震だ。このところよく起こる。観覧車のゴンドラが静かに揺れている。しかしここは全く揺れない。なぜだろう。おれの身体が揺れているのは地震ではなく浪のせいだ。おれはここに立っている。巨大港も観覧車のある公園も、それにこの海も、数十年前は外国の管理区域だった。むかし演習の戦闘機に誤射されてよく人死にが出たという海に、浪はゆっくりとうねっている。

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